家庭聖殿拡大 大分聖殿

家庭教会は、神と真の父母が人類に与えた最高の贈り物です。それは過去において未来においても、けっして存在しない最初のものであり最後のものです。あなた方は家庭教会の贈り物を受けました。それを果たすことによって、あなた方は真の息子・娘になるのです。家庭教会は、あなた方自身を真の息子・娘にする容器なのです。 みことば

阿南信義

人間的なすべての条件を乗り越えるとき


中国武漢コロナウイルスによって、世界的大混乱の時を迎えています。
このようなときに、どこに焦点をあて、考え行動するべきであるかいう方向性が大事なことであると思います。

亨進二代王様と国進様はモーセのあとを継いだ、ヨシュアとカレブの立場であることを感じます。エジプトから出発したイスラエルはみな死んでいきました。後を振り返り、エジプトに未練を持っていた者たちでした。

神はヨシュアに「強く雄々しくあれ」と祝福しました。ヨシュアは神の方向性を守るために強い決意でカナンに向かっていきました。それで内的イスラエルはヨルダン川を渡った後、ヨシュアから割礼を受けて、カナンを目指しました。二代王様に従う聖殿シックは同じ立場であると思います。


そして、
黙示録11章にある二本のオリーブの木の預言は二代王様と国進様ではないかと思います。最後の患難を超えるために「強く雄々しく」あられるヨシュアとカレブと一つとなって「人間的なすべての条件を乗り越える」戦いが願われていることを感じます。

二代王様は2020鉄杖自由祝祭に焦点を当てておられます。ヨシュアとカレブに従っていったイスラエルのごとく、方向性を明確にして「伝道」に向かっていきたいと思います。


亨進様祈りの時


二代王様のみことば 2020.3.25

皆さん祈禱をたくさんして下さい。たくさん助けて下さり、たくさん精誠を尽くされて下さい。

今から、戦わないといけない。鐵杖(てつじょう)祝祭が早く近づいてくる。今何月?3月。4月、すでに。本当に6カ月後に鐵杖祝祭が来る。

今回は数千名が来るだろう。先回は3千名程度来たけれども、今から銃器所有者達がお互いに話し合ってより有名な方達が来るから、今回はよりたくさんの人が来るように。

コロナ バイロスは本当に恐ろしくても、 このたびは外だからはるかに安全だ、事実は。太陽の光も当たるし、風もあるから。

そしてトランプ大統領の息子達が来ることができる可能性が高い。もし!私達の5%をすれば。



聖書
ヨハネの黙示録第11章1節~


 :1)それから、わたしはつえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。 :2)聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。 :3)そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。 :4)彼らは、全地の主のみまえに立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台である。 :5)もし彼らに害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。もし彼らに害を加えようとする者があれば、その者はこのように殺されねばならない。

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真のお父様のみことば 
「強く雄々しくあって、失った福地を回復しよう」1957.6.23


ヨハネの黙示録第十一章では、二本のオリーブの木に対する預言をしています。これは何を意味しているのでしょうか。世界的なカナン復帰の路程を出発するのに先立ち、ヨシュアとカレブのような存在が現れることを予告しているのです。モーセの代わりに現れたヨシュアとカレブがユダヤ民族を導いてカナンの地に入っていったのと同じように、今日にもイエス・キリストの福音をもったヨシュアとカレブのような人たちが現れて、神様の民を率いて世界的なカナン福地、新しい希望のカナン福地に向かうようになるでしょう。

 またヨシュアとカレブに従ってカナンに入っていった群れが、カナン七族を滅ぼしたように、皆さんにはサタンを滅ぼさなければならない責任があるのです。そういう天の勇士になり、そのような路程を歩むべき責任が、皆さんにあることを肝に銘じなければなりません。

 そして、新しいみ言を主張するヨシュアとカレブがこの地のどこに現れようとも、人々の心の扉を開いて、み言を聞かせ、天のために生きられるようにする私たちにならなければなりません。
 ヨシュアとカレブの行く道は、冒険の道でした。彼らが歩いた道は、難しい開拓の道であり、闘いの道でした。行く先々で開拓者の使命を果たさなければならない、厳しい道でした。時には個人的に、あるいは環境的にぶつかってくる試練と闘わなければならない路程が、彼らにはあったのです。

 モーセがイスラエル民族を率いてカナン福地に向かって出発しようとする時、パロ王がモーセを殺そうとし、イスラエル民族の中にもモーセを不信して反対する人が多かったのと同じように、ヨシュアとカレブの時にもそのようなことがありました。このようなことをよく御存じの神様は、ヨシュアとカレブに「強く雄々しくあれ」と語られたのです。「強く雄々しくあれ」、このみ言は何を意味しているのでしょうか。それは、「人間的なすべての条件を乗り越えなさい」という意味です。

 それで、イエス様も三大試練を通して、人間的なすべての条件を乗り越えて勝利されました。したがって、二千年が過ぎた今日の皆さんも、人間的なすべての条件を乗り越えていく途上において、強く雄々しくなければなりません。

 ヨシュアは個人の闘いの路程から最後の瞬間まで、勝利の路程を歩まなければならないモーセの代わりの立場に立てられたために、神様は彼に「強く雄々しくあれ」というみ言とともに「対する個人を怨讐と思い、対する民族を怨讐と思い、対する土地を怨讐の土地だと思え」という忠告のみ言を語られたのです。


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7000名の群れ

7000名の摂理
亨進様歌われた時


昨日、新型コロナウイルスの影響で、東京オリンピックの延期が決定し、また中止になる可能性も秘めているような状況です。世界的な爆発的拡大の中でこれからどうなるのか、予想することができない事態となっています。
それだけに、自分の天的位置を明確にしなければ、世の中の人々と同じ動きになってしまいます。

こちらの聖殿では定期的に原理講義をズームで中継して行っています。今日はメシヤ論第二節エリヤの再臨と洗礼ヨハネというところを学ぶ時間でした。

なぜ原理講義をするのかというならば、神様の事情を知って、伝道の力を得ることが必要だと感じているからです。原理講論の内容を学習することによって、どのように神様が摂理されてこられたのかを実感することができ、縦的な力をいただくことができます。

今日はエリヤと洗礼ヨハネのところを学習しました。原理講義をするために真のお父様がエリヤと洗礼ヨハネに対して語られているみことばを探しました。

その中で7000名のことが出てきます。神様がエリヤのためにバアル神に屈服していない7000名を準備されておられた聖書の話があります。

神様は洗礼ヨハネの時にもその7000名の基台をメシヤ降臨のために準備していましたが、洗礼ヨハネの不信によって、サタン侵入を受けてしまいました。

1985年真のお父様は40年路程の最後のときはダンベリーの牢獄の中におられて、7000名のアメリカの牧師の基台を立てて、その峠を越えられました。


今の時、
個人的に思うのは、2015年二代王様が沈黙を破られて、真実を語られて、不信堕落の第三イスラエルから新しい出発をなされたとき、二代王様に従った群れはまさにバアル神に屈しないイスラエルの7000名の群れが三代王権の聖殿シックではなかったかと考えされられました。

あれから5年経っています。
今日の世界的審判のときをむかえている背景にどのような意味があるのかを考え祈るとき、韓オモニをはじめとする第三イスラエルの不信が原因だということもできます。
さらにはバアル神(韓オモニ)に屈しなかった7000の群れが責任を果たしてないことがその原因の一つではないかと考えさせられました。




真のお父様のみことば 「神様の摂理から見た南北統一」p1118~

一.蕩減復帰すべき七千の群れ

1 バアルに屈しない七千の群れ

 旧約時代のエリヤの役事を見ると、北朝イスラエルに十支派があり、南朝ユダに二支派がありました。南北に分かれていたのです。これを一つにするために、エリヤが戦ったのです。バアル神を信奉し、アシラの木像を守る八百五十名近い預言者に対し、エリヤ一人で生きている神様を証すべく、バアル神が本物か偽物か試すために、祭壇を築き牛を供えて、祈祷し、天から火が下って祭壇を焼いたほうが本物であるというのです。

 それで北朝イスラエルの代表たちは、邪神を隠して、アシラの木像とバアル神を信奉する預言者たちが侍っていましたが、その牛に火がつくことはありませんでした。

 しかし、エリヤが祈祷したところすべて燃やし尽くしてしまったのです。そして、そこにいた偽りの八百五十名の預言者たちを殺しました。そうなればすべてのものが屈服するはずなのに、サタンが反抗するのです。エリヤを捕まえて殺そうとしたのです。それでエリヤは砂漠地帯へと逃げてれだまの木の下に座り、死を請うて祈りました。「今や、私だけが残りました」と嘆息し、自らの命を召してほしいと言ったのです。そのように嘆くエリヤに対し、いまだバアルに屈しない七千余りの群れを残すというのです。この七千余りの群れを支えて、南朝が再び南北朝の統一圏を築き上げなければならないのです。

 当時、それが国家的基準で成せなかったため、メシヤ圏が立てられませんでした。その基準を中心として、イエス様が来られる前にエリヤが来て、縦的に分けられてしまったイスラエル圏を横的に立てるのです。ユダヤ教とイスラエル民族、イスラエル民族とローマが横的にカイン・アベルの関係になります。

 ユダヤ教はアベルでユダヤの国がカインですが、これが一つとなりアベル圏となって、アベル圏イスラエルがカイン圏ローマと闘い、勝利しなければならないのです。縦的基準が立ったので、横的基準としてローマを平定させなければなりません。世界を平定させなければならないのです。(一六九―二〇六)

2 イエス様と七千の群衆

 イスラエルとユダヤ教が分かれたのを統一しなければなりません。イスラエルはすべてカイン圏であり、ユダヤ教はアベル圏でした。そこでエリヤは、ユダヤ圏を中心とする神様のみ旨の前に民族を一致させようと、バアル神に仕える八百五十名をすべて殺しました。それを見れば、生きた神様でしょう。けれども、彼をイスラエル民族すべてが打ち殺そうとしたのです。神の中の神である神様の前に帰ってきたならば、イスラエル民族はエリヤを支持し、擁護しなければいけないのに、かえってエリヤを打ち殺そうとしたのです。

ですから、エリヤが逃げてれだまの木の下で寝る途中、神様がエリヤにパンと水を上げ、道を行くようにしました。そうするとエリヤが、ホレブ山の洞窟に入って、神様に「もう私一人しか残っていません。私の命を昇天させてください」と最後に言いました。その時の神様の言葉は、いまだバアル神に屈服しない七千の群れがいるというのです。民族が反対し、十支派が全部反対してもこの七千の群れが一つになって蕩減条件を立て、ユダヤと一つになった条件を立てて、この難局を克服することができるというのです。超えることができるというのです。このような七千の群れを蕩減しなければならないのです。

 イエス様を中心にして見てみましょう。イエス様が来られる時、ユダヤ教とイスラエルの国が、すべて一つになって、イエス様を絶対信奉しなければなりません。民族はメシヤを送ってくださるとの約束を信じ、メシヤは訓練されたユダヤの国と一つになると同時に、ユダヤ教会とも一つにならなければなりません。ユダヤ教のもとで国が治められなければなりません。今まで、ユダヤ教の祭司長たちが国を祝福したように、教会という内的基盤のもとで、外的基盤が支配されなければなりません。ユダヤ教のもとでユダヤの国を治めるという立場で、つまりカイン・アベルが蕩減復帰したその立場で、イエス様を中心として一つになったならすべて終わるのです。ところが、それができなかったのです。

 しかし、イエス様の前に一つになった七千の群れが残っていれば、もう一度収拾する道があるのです。天の側に収拾する道が生じるのです。(一六五―二八九)

 エリヤの代わりに来たのが、洗礼ヨハネです。それで洗礼ヨハネが来て、イスラエル民族の中から七千の群れが救われたのです。イエス様に従う新しい教派がアベル格になったなら、そのカイン圏として、イスラエルの国とユダヤ教の中から七千の群れを引き出さなければなりません。そして新しい洗礼法を中心として、国全体が従わなければならないのにもかかわらず、ユダヤ教と隣国が反対しました。ところで、洗礼ヨハネが新たに七千余名を集め、イエス様の前に捧げて完全に一つになったならば、イエス様は死にませんでした。イエス様と一つになったなら、左右が一つになったでしょう。

 そこに、百二十門徒があり、七十二門徒があったでしょう。我々の言葉で言えば、三十六家庭があり、七十二家庭があり、百二十家庭を全部編成して、その次は七千余名の群れがすべて家庭をもてば死にません。滅びません。しかし、イエス様はそれができなかったのです。サタンに奪われる立場に立たれたので、イエス様が十字架にかけられる時、左側の強盗と右側の強盗がいたのです。左右が入ってくる条件になったのです。七千の群れを神様がもっていなかったので、左右が分裂されました。右側の強盗と左側の強盗がここで生じたのです。(一六九―二〇八)

3 蕩減復帰しなければならない七千の群れ

 新約時代においては、来られる主に先だってエリヤが来るようになっていました。ところがイスラエルの教会とイスラエルの国が一つになりませんでした。カイン、アベル圏が一つになる時のみ神様のみ旨が成就されるので、エリヤの代わりに来た洗礼ヨハネがイエス様と一つにならなければなりませんでした。洗礼ヨハネは、カインとアベル圏、つまりユダヤ教とユダヤの国を一つにするために代表として立てられたのです。

 ユダヤの国は小さな国です。四時間あれば全体を一周することができます。復帰しやすい国です。それで、小さな国を立てて摂理をしました。

 教会を中心として、洗礼ヨハネがイエス様と一つにならなければなりませんでした。エリヤが来た時も、バアル神のアシラの木像を建てる思想的動揺時代だったのです。ローマの末期において、ヘレニズムの哲学的思想背景を中心として、すべてが複雑な時代だったのです。バビロンにも行ってきたり、雑神までも仕えるなど複雑な時でした。これを再び収拾して教化し、イエス様と一つにして、その上に父母様の位置を備えることができる効果的父母になって、次にイエス様が王権を建てるのです。そして、国を建てたならば、その国を中心としてローマを包容し、中東の十二支派、アラブ圏がその時完全に一つの国になったでしょう。

 今日このように、一つになれず怨讐になっている国が再蕩減するにおいて、カイン、アベルと同じく闘っています。

 これを誰が一つにさせるのでしょうか。レバレンド・ムーンです。レバレンド・ムーンが今一つにさせているのです。国際会議、政治会談なども、私が支持しなければ会議にならない段階に入っています。そのような複雑な内容、歴史的過誤を清算しなくては、現在のすべての問題が解けないのです。

 イエス様の時、洗礼ヨハネを中心として、バアルに屈服しなかったと同じような七千余名の群れがいたならイエス様はなぜ死んだのでしょうか。七千の群れをもっていたならば、そこには子女編成が自由にできたでしょう。十二支派、七十門徒、百二十門徒ではなく、新しい一つのイエス様氏族をつくって、新しい王権基盤まで連結させるよう洗礼ヨハネ一族を吸収したでしょう。また、七千余名の群れがいたならば、イエス様はなぜ死にますか。その恨みが解けませんでした。

 そして、再臨の時期においては、このような恨みを解かなければなりません。私がアメリカのダンベリーにいた時、旧約時代の解怨、新約時代の解怨をする立場なので、アメリカの政府の有名な人の中で、七千余名の群れを全部結ばなければなりませんでした。ですから、ダンベリーにいる時、三十万の牧師たちの前に五ポンドの重さのビデオテープと本を送りました。そして、アメリカの牧師たちが統一教会の内容を知ってびっくりしたのです。

 アメリカの神学校の方向性を、私が設定してあげています。例を挙げれば、アメリカにはAALという宗教連合会があります。六千名が集います。五年前には、統一教会は足を踏み入れることもできませんした。しかし今は、会長と理事会を、我々の神学者たちで埋めています。夢のような話です。(一九八五・一二・二九)

 イエス様の前に七千名が一つにならなければならなかったのに、天が選んで連結した七千余名の群れを失ったのでこれを蕩減復帰しなければなりません。それで、先生はダンベリーの牢獄の中で、七千名の牧師たちを教育しなさいといいました。分かりましたか。七千名を教育したのです。アメリカとアメリカの教会、天の側になる人は一人もいませんでした。統一教会がアベル圏にいれば、アメリカにおいてアメリカのキリスト教会の七千名を連結させて、アベル的基準と一つになってこの道に従っていけば、蕩減条件は成立するのです。それで先生が牢獄の中で成したのが、七千余名の群れの教育です。カウサを中心として、七千余名の牧師たちを中心として蕩減条件を立てたのです。その七千余名の群れを連結させるのがどれほど難しかったでしょうか! (一九八七・五・二七)







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あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい

亨進様と国進様2


聖書 ルカ福音書第10章

:1)その後、主は別に七十二人を選び、行こうとしておられたすべての町や村へ、ふたりずつ先におつかわしになった。 :2)そのとき、彼らに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。

:3)さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである。 :4)財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな。 :5)どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。

:6)もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来るであろう。 :7)それで、その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。働き人がその報いを得るのは当然である。家から家へと渡り歩くな。

:8)どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えてくれるなら、前に出されるものを食べなさい。 :9)そして、その町にいる病人をいやしてやり、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

:10)しかし、どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えない場合には、大通りに出て行って言いなさい、 :11)『わたしたちの足についているこの町のちりも、ぬぐい捨てて行く。しかし、神の国が近づいたことは、承知しているがよい』。

:12)あなたがたに言っておく。その日には、この町よりもソドムの方が耐えやすいであろう。 :13)わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちの中でなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰の中にすわって、悔い改めたであろう。

:14)しかし、さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。 :15)ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。 :16)あなたがたに聞き従う者は、わたしに聞き従うのであり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。そしてわたしを拒む者は、わたしをおつかわしになったかたを拒むのである」。

:17)七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。 :18)彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。 :19)わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。

:20)しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。

:21)そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。 :22)すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。

:23)それから弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた、「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである。 :24)あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。





二代王様のみことば  2020年3月18日水曜礼拝

だから、これはどれほど恐ろしいかわからない。今、王妃が見せてくれたのですが、ヌガ(ルカ)福音10章こういう内容。主がおられる時、伝道させる為に送ります。70名。ヌガ福音にみんな出てくる。ヌガ福音10章。

70名が伝道しに出て、どうなったか、主を宣布したら、悪魔達も追い出し、人を治癒して、17節を見たら、再び帰って来る。大変、喜んで。そうして、イエスニムがハナニムに感謝の祈禱を捧げます。

それはどういうことかというと、私達はハナニムの福音を伝播しているとき、アボニムが喜ばれるのです。

つまり、このコロナバイロスという世界的に幾何級数的に成長している武器が世界を打っている時に、

シュミタ・Shmita・シェミッター:安息年

私達はすでに5年前から分かっていた。シュミタが来る事を分かっていた。皆さんは5年前から警告を受けて訓鍊などを受けていた。しかし、その訓鍊とその内容は何か、今、この瞬間のゆえに。

私達は、あらかじめ準備していたから、いなごが来た時に、悔い改めは勿論するべきですが、しかし、ハナニムの福音について話す事ができます。

福音伝播。なぜ?私達はあらかじめ準備された者としてリーダー達になるから。未来を見る事のできる者として私達リーダー達になるから。

それは ハナニムの王国が広がる事ができるように。なぜ?ハナニムの王国はまず人達の心に起こるべきだから。

事実はこの状況で、伝道できる事が、この時間より易しい時間はない。(こんなに易しく伝道できる時は他にない)

アボニムの後繼(こうけい)者、相續(そうぞく)者、代身者、二代王がアボニムが逝(ゆ)かれて韓氏(ハンし)オモニが天宙的堕落をした後に、 その天宙的によって、二代王がその後に正確に予言した。「世界審判が来る」。そして、短い5年のうちにすでにシュミタが来るのです。元来、7年がかかるのに。

そうして、天一国憲法を見せる事ができる。ハナニム王国が今、来ています。そしてハナニム王国は社会主義・共産主義・左派の国ではない。

天一国憲法は鐵杖(てつじょう)王国だ。天一国王国・ハナニム王国が自由と責任がある国だ。平和軍警察がある国だ。市民達が王と王妃達と平和軍警察がある国。中央政府と警察が無い。軍が無い。市民達は自由と責任のある国。政府はしもべになる国。こういう国が来ている!こういう王国が来ているんだ!

今は、伝道できるこんなに易しい秋収(しゅうしゅう)(の時)は無い。こんな危機に人達は生死の峠を越えながらハナニムを考えるようになる。

今は福音伝播。見なさい。主の弟子達が福音伝播した後に、21節で、ハナニムに対して「感謝(カムサ)ハムニダ、アボジ、讃揚(チャニャン)ハムニダ」と祈禱したじゃないの。それが私達のアボジです。

私達はハナニムの福音を伝播しながら、ハナニムの王国を伝播しながら、他の人達の永生を考えながら、悔い改めの道、こういう時にアボニムの役事が證據(しょうこ)される時、アボニムの後繼者、相續者、代身者の予言が
事実化される事が證據される状況になった時、その時に人達が否認する事ができない。

皆さんが問題だ。5年の間、訓鍊と準備する事ができた皆さんはリーダーだ。リーダーの立場で何をするのか。福音伝播しないといけない、伝播。ハナニムの王国について説明するべき。「悔改めよ!悔改めよ!ハナニムの王国は来ています」こういうふうに言うべき。それが福音のメッセージだ。そうじゃないの?

證據(しょうこ・証拠)する:証明する証人になる

今、皆さんは、すべてが家で監視鑑別を受けているそういう状況で、家から出る事ができない状況で、電話できる、インターネットできる、テキストメッセージできるじゃないの。皆さんが知っている人達、外にいる人などに話しする事ができるじゃないの。

特別にアベル圏クリスチャン達がハナニム王国に入る事ができるように助けてあげよう。多くの基督教人がサタンの詐欺を通じながら社会主義に行くから。

政治サタン主義、ハナニムの王国は社会主義ではない。これは詐欺だ。これはミクロコスモス韓氏オモニ・郭グループの詐欺!ハナニムの王国は鐵杖王国!

だから、サバイバルの法則は何か。2つあれば1つがある。1つしかなければパンク。この鐵杖(てつじょう)を見てみろ。鐵杖にこのサイトが2つある。ここに赤い点があって、

このサイト(照準)がもし壊れたらこれをカチッと立てれば、サイトが2つがある。見えるだろう。2つあれば1つが壊れても、もう1つが使える。1つだけしかなかったら、これが壊れたら銃を使う事ができない。2つあれば1つを使える。1つしかなければパンク。

二代王が皆さんにこれを7年前に話した。ブッシュクラフト訓鍊、サバイバル訓鍊をさせながら。誰がこのように多くの人達に訓鍊をさせていたか。郭グループ?韓氏オモニグループ?泥棒詐欺野郎達?ただ、アボニム後繼者、相續者、代身者がさせていたじゃないか。

今、そのマルスムが實體化しているのに、ただ家でじっとしていたら、どうするの?家にいても、インターネットを通じながら、メッセージなど送る事ができるじゃないの。福音伝播できるじゃないの。人達が悔い改めの道に行く事ができるように。

今、その人達が地獄に行っているのに。霊的地獄だけでなく實體(じったい)的な地獄!社会主義、共産主義、政治サタン主義。

市民達を目覚めさせるべき。皆さんはそのような保護圏の中で大変多くの福を受けた。市民達を生かしてあげるべき。直接できなければテキストでできる。電話で、インターネット メッセージで。

どういう事かわかったの?若い奴たちも。他の人達が死んで行っている事を考えでもするべき。

つまり、社会主義・共産主義奴らのようにしたらだめでしょう。自由と責任。


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真のお父様のみことば 1960年1月17日「誰が天の心情を知っていたのか」

 堕落した人間を見るようになったその日から、神様は堕落した世界を見ざるを得なくなり、堕落した人間と接するようになったその日から、神様が待ち焦がれた創造理想世界は、心の中に深くしまっておかなければならなくなりました。

理想があるにもかかわらず、その理想を実現することができず、万物に接する時には、いつもその理想を成したい心の動きはあったとしても、その理想の心を表現することができなかった天だったのです。神様が創造された万物でしたが、神様のものではなく、神様が愛すべき子女ではあったのですが、神様が愛することのできる子女にはなれませんでした。


 それゆえ、この地を見つめられる天は、喜びの天ではありませんでした。悲しみの中の悲しみを感じる天であり、苦痛の中の苦痛を感じる天であったというのです。

 神様は、本来人間に御自身の直系の子女であるという名分をもたせようとして創造された因縁をあきらめることができずに、再び探し出す歴史、救いの歴史、再創造歴史を始められました。失った者を再び捜すための歴史路程において、神様は多くの悲しみを味わってこられましたが、その悲しい心に同情してくれる者は一人もいませんでした。

このような中にあって、天は悲しい心情を抱いて、堕落した人類のあとについてこられました。前に立つことができず、あとについてこられたのです。死刑囚の父母が、死刑執行所に行く息子のあとについていくのと同様に、神様は、死亡の道へと引きずられる人類、宇宙的な死刑囚のような人類のあとについてこられたのです。


天はイスラエル民族に、何も知らない彼らを導びかれた苦衷をさらけ出して、「私は誰であり、お前たちは誰である」という事情を分かち合いたかったのです。その事情を分かち合うために四千年ぶりに天が送られたメシヤが、イエス様だったというのです。

イエス様によって歴史が明らかにされ、イエス様によって心情が明らかにされ、イエス様によって新しい世界が展開されていたなら、どうなったでしょうか。もしその時、イスラエル民族がイエス様の前に帰依して、イエス様が死ねば共に死に、生きるならば共に生きることのできる団結した民族となっていたとするなら、この世界は原子爆弾による恐怖であえぐ世の中にはならなかったでしょう。


 祭司長と律法学者、イスラエル民族全部が一つに団結して、イエス様がどのようなみ言を語られても、一言も漏らさずに実践したとするなら、イエス様のみ言を中心とした理想世界が始まったことでしょう。

しかし、イエス様はそういう環境に立つことができませんでした。祭司長と律法学者は、行く所、行く所でイエス様の怨讐となりました。そのような局面であったがゆえにイエス様は、「私が誰であり、あなた方は誰である」という話もできずに逝かれるしかなかったのです。それゆえ、どれほど不幸なことであったかというのです。


 天は四千年間苦労された神様の事情を知らせるために、事情を語りながら手に手を取って「お父様!」、「私の息子、娘よ!」と言うことができる一日を見るためにイエス様を送られましたが、送ったことが恨となったまま、キリスト教二千年の歴史をつづってきました。



 神様は、知らせるために六千年間も苦労なさり、イエス様を送られ、先祖を犠牲とされましたが、無意味で無価値で無感覚な全人類を集めておいて知らせるその一言の言葉は、数千万の善なる人々が首をしめられ、血を流した祭壇のみ言であるというのです。


 その一言のみ言には、死刑場で消えていく数千数万の善なる人々に、知らせてあげることのできなかった神様の曲折が葬られているのです。皆さんが創造原理から復帰原理まで全体のみ言を受けるようになるとき、そのみ言の一言一言には、血の涙が絡まっているというのです。それを探すために苦労した人は差し置いてでも、歴代の先祖たちの血の涙とため息が、切々と入り乱れていたのです。


 それを探すために、いかなる道も甘受してきた人がいるとすれば、彼が歩んだ路程には一言のみ言を探し出すためにも血の涙を流す事情が込められており、呪いと恨みがあふれる歩みをいとわず歩んできたのです。


 その一言のみ言のもとには血涙が漂っており、死のうめき声が自分を催促していることを感じる者であってこそ、歴史的な神様の心情を知ることができ、歴史的な神様の事情を知ることができ、神様が願って探してこられた息子の面目を保つことができるのです。

そうなるならば六千年後に生まれた息子だといっても、心情を中心としては六千年前の自分でもあり、心情を中心としては四千年前の自分でもあり、心情を中心としては二千年前のイエス様と同じであり得るということなのです。






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危機の時、伝道の門が開かれている

危機の時、伝道の門が開かれている
亨進様笑顔



二代王様のみことば  2020.3.11(水曜日礼拝)

コロナ バイロスだけ広がっていくのじゃなくて、 今からはハナニムの王国が。特別にこのコロナバイロスが広がり出ながら、人達が生死の峠に来ながらハナニムを考えるじゃないの。また、自己がハナニムの王国を考えるようになる。だからこういう危機が来た時に事実、伝道することができる門が開かれる。ハナニムの王国について説明することができる門が開かれる。人達を救援の道に!至ることができる門が開かれる。すべての危機の中に機会が生じるじゃないの。

ハナニムの文化文明圏とハナニム王国天一国百姓(ペクソン)として、三代王權(おうけん)と共にハナニムの王国を伝播、ハナニムの王国の福音を説明し、再臨クリスト、アボニムとチャンプニム、康賢實(カンヒョンシル)チャムオモニム(真の御母様)がどれほど立派な女性だったか。そのオモニが私達のオモニになられたから、どれほど!偉大な福を受けただろうか。

その美しい勝利圏の中にアボニムの三代王權とカイン・アベルとすべてのアボニムの權限圏(けんげんけん)にある宗族(そうぞく)王と王妃達が起き立っているので、コロナ バイロスが広がっている時に、その危機の中においても!このハナニムの王国を伝播し分け与えることのできる機会が現れている。

そういう渦中で皆様はハナニムの引導に従って!近づいて来ているハナニムの王国を展望しながら、 どんな危機、どんな恐ろしい事が起こっても、私達は生死の峠を超えた者として、死を恐れない!者達として、私達はハナニムの王国を展望し!鐵杖(てつじょう)王国と自由と責任の王国と、羊飼いの王国のパワーで超えて行くことができるアボニムの息子娘、ハナニムの百姓(ペクソン)達、即(そく)、天一国王と王妃達になることができる、実践することができる人達になりましょう。
我主!我主、我主。来週、お会いしましょう。



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真のお父様のみことば  1994.2.16 (アメリカ)

氏族的メシヤは、完成されたアダムの特典によって与えられたものなので、サタンは一切、手を出すことはできません。これからは二世(第二次大戦後生まれの人)を中心に働く時が来ました。今の時代は、イスラエル民族が出エジプトした時代と同じです。四〇年荒野路程をさまよって、ヨシュアを中心にした二世がカナンに入りました。今がそのような時代ですから、第二次大戦後に生まれた人に天運があるのです。新しい根が立派に根づくためには、立派な肥料が必要です。それが、第二次大戦前に生まれた人の立場です。

 イスラエル民族は荒野で倒れましたが、妊娠していた人はどうだったのでしょうか。自分の生命を失っても、胎中の子供を助けたいと決意した母親は、カナンに入ったのです。私たちも、自分の胎中に、カナンを征服する二世がいるという決意があれば、カナンへ入ることができます。ですから、自分はどうなっても二世を守るという決意が必要です。

 マリヤは胎中にイエス様がおられる時、迫害のまっただ中でした。マリヤはそれを超えることができたので、イエス様は誕生することができたのです。今、私たちの祝福家庭は、そのように考えなければいけません。
 家庭的カナンを復帰したので、国家的カナンを復帰しなければなりません。ソドム、ゴモラが壊滅した時、神は後ろを振り向くなと言われました。振り向いた時、塩の柱になってしまったのです。ですから過去を振り返ってはいけません。ただ前進せよと言われました。

 昨年の夏以来、多くの災害がアメリカを襲いました。今後も、水害、地震、大雪など、いろいろなことが起こるでしょう。しかし、何があっても後ろを振り向いてはいけません。ただ前進するのみです。今の時代は、180度転換していかなければなりません。
 個人主義を捨てて、神主義に徹していかなければなりません。神主義とは何かといえば、公的に他のために生きることが神主義です。心と体は常に闘っています。心は殺されても、自分は行くと決意していますが、体は逃げていきます。これは、イエス様が十字架にかかる時、ペテロが逃げたのと同じです。ぺテロは、心ではイエス様に従おうと思ったのですが、体が逃げてしまったのです。それでぺテロは、イエス様を知らないと言ったのです。

 これからは重要な時です。皆さんが、過去において好きだったものが霊的に皆さんを殺すようになるかもしれません。アフリカに皆さんの夫を送るとしたらどうでしょうか、夫は死んでしまうといって反対しますか。
 ペテロでさえ、自然の本能に従い、イエス様を裏切りました。私たちの体は弱いので、試練があれば逃げてしまうか、自分の好きな方向に行ってしまう癖を持っているのです。ですから、悔い改めなければなりません。しかし私たちには、ペテロのような経験は必要ありません。

 それで先生は、重要な時に備えて、苦難の中に皆さんを送ってきたのです。しかし、皆さんは、いつも逃げていました。ちょうど、イエス様の十字架を自分のことと考えず、逃げていった弟子と同じです。
今は二〇〇〇年前のペテロのような環境がないので、何も持たせないで、皆さんをアフリカに送りだしたいのです。その時、皆さんはどうしますか。何も持たないでアフリカに行く準備はできていますか。これが原理的な私たちの行くべき道です。




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審判の時にどう備えるべきか

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今、世界は新型コロナウイルスによるパニック状態に陥っていて、社会的経済的な混乱が生じています。中国武漢からその病原菌が燎原の火のごとく、瞬く間に全世界に広がっていることに対して、どうすることもできない状況で、人類は大きな試練の中にあります。

まさに神の審判の時をむかえているように思います。
その審判に備えるためにどうするべきか。人間の心理として、自分を守るために行動する人々の姿が多く見られます。


そもそもなぜ審判があるのかという根本問題を知ることが重要なことだと思います。その根本原因を知らない限り、襲ってくる審判を人類は克服することは不可能なことになるからです。

真のお父様が1958年12月21日に語られている中に、「審判」の根本問題についてのみことばがあります。

またどうすれば、「審判」をさけることができるかという方向性を示してくださっています。



真のお父様のみことば  「真を探してさまよう人類」1958.12.21

 悲しみが六千年前の神様の心情から始まったがゆえに、今日までの歴史は悲しみの歴史として残っていて、私たちには悲しみの実が生まれました。したがって、神様の心中にしみたその悲しみを解くまでは、今日の人類の悲しみは解消させることができないのです。

 積もった曲折は、積もったその場に行って蕩減復帰しなければならないのです。これが救いの摂理の鉄則です。これが鉄則というなら、今日の私たち人間には私自身を探して立てるために、なくしたその心情を探さなければならない歴史的な終末時代、すなわち終わりの日が来るというのです。

 では、終わりの日にはどのようになるのでしょうか。一つの心情の標準を定めておいて、その心情を基準として審判するようになるというのです。

 昔、エデンで追い出された人類始祖は、神様の心情を知らずに、自分を中心として悲しみました。ゆえに今は、私の体の悲しみと苦痛を忘れて、まず神様を悲しみと苦痛から解放してさしあげなければならないのです。そういう私にならずには、歴史的な怨恨を解き、乗り越えていくことができないのです。


堕落によって生じた悲しみと苦痛を解怨しなければならない終わりの日に処した私たちは、これから神様の心情を身代わりしなければなりません。六千年間悲しんでこられた神様に代わって悲しむことができなければなりません。六千年間苦痛を受けたその神様に代わって苦痛を受けなければならないのです。その神様に代わって打たれなければならない立場に置かれている人間なのです。ところがこのようなことを知らない人間なので、天は「審判」という名詞を掲げておいて、人間に対して涙を流しながら摂理していらっしゃるというのです。

 では、審判を避けることができる道とはどのような道でしょうか。私の体をつかんで泣くのではなく、自分自身の苦痛のゆえに泣くのでもありません。私を救うために私の苦痛よりもっと大きい苦痛をもってこられた、神様の苦痛を知らなければならないのです。私の悲しみよりもっと大きい神様の悲しみがあり、私の体のつらさよりももっと大きい神様のつらさがあったということを知らなければなりません。

 そうして私の一切を否定して、背後で歴史を動かしてこられた神様の心情にしみている、すべての苦痛を解怨してあげるのです。そのようなことに耐えることができる自分を探して、さまよわなければならない運命の中に処しているのが、今日の人類なのです。


 それゆえ、今は堕落の種族になったそのエデンの悲しみを退けて、エデンの喜びを獲得できる一つの群れがこの地上に現れなければならないのです。そういう群れが現れないとするなら、神様の六千年の復帰摂理は根本的に破滅の危機に処するはずです。


 イエス様の念願成就は、霊肉を合わせることのできる一つの理念世界で可能なのです。そのようになってこそ初めて、霊肉を備えた一つの父母が天地間に現れます。摂理の法度を通して見る時、一般的な歴史観が相対性をそろえた歴史観として、相対的に定立されるその日が人類歴史路程に必然的に来なければなりません。そのような理由で、今日人類が一方的な面だけを講ずるならば、「悲しみの世界で悩まなくてもよい」と言っても、そうせずにはいられなくなります。


 このように見る時、復帰の運命の道を歩いている私たち人類は何を探さなければならないのでしょうか。永遠に愛することができる私の真の体を探さなければならないし、この体の父母を探さなければならないのです。体の父母を探す前には心の父母、霊の父母が現れる道理がありません。なぜなら、天地の創造が外的なものからなされて出てきたためです。ゆえに皆さんが文を書く時にも、左側から書いていくのです。右から書いていかないのです。これも創造理念の存在方式を表現しているのです。


 今日、人間が苦痛の中で叫ぶうめき声はいつ終わるのでしょうか。神様の代わりに私の体を愛してくれることができる父母を探すその一日を迎えることなしには、人類の苦痛をこの地球上から除くことはできないのです。皆さんがどんなに優秀だったしても、皆さんは肉の真の父母をなくした人間です。真の父母が出てこない限り、真の子女はあり得ないのであり、まだこの世は罪悪の世の中であり、地獄の世の中であり、苦痛の世界に違いないのです。

 皆さんは、六千年歴史を代表する祭物です。したがって、六千年を代表する祭物になるためには、六千年間人間をして祭物を捧げるようにした神様の心情を知って現れなければならないのです。


 エデンの園でアダムとエバが堕落して、神様の愛の圏内から追い出される時、どうしましたか。彼らは、追い出される自分を悲しがりました。それが人類の涙の起源になり、苦痛と辛苦の起源になったのです。しかし、エデンの園にはそのようなアダムとエバだけがいたのではありません。神様はアダムとエバを追い出しながら、追い出される彼らの悲しみよりももっと大きい悲しみの心情をもたれたのです。

 それで皆さんは、神様の愛の圏内から追い出された種族であり、その子孫となりました。そのような人間は、自分を中心として悲しんでいますが、神様は追われ出ていく人間を見て、今日も悲しんでいらっしゃるのです。

 それでは、自分を中心として天を裏切り追い出された人間は、どのようにして復帰されますか。私の悲しみや、私の悔しさや、私が死のうが死ぬまいが、自分のすべてを否定して神様の悲しみと神様の苦痛と悔しさをつかんで、涙を流すことができる群れにならなければなりません。そうでなくては復帰されないのです。






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人間はなぜ対立と闘争をするのか

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堕落観念をもつ‐礼拝

ヘーゲルの弁証法では事物は対立と闘争からなって発展するというような理念です。それはどこから来ているのかという根源は人間の良心と肉心の葛藤と闘争からきています。

それは堕落してしまっている人間の姿であると我々は原理から判断しています。堕落した人間をもとにして思想構築したのがヘーゲルの弁証法であり、そこから共産主義唯物論は出発しています。

それはサタンの思想であるといえます。対立と闘争を煽ぎながら、自己を正当化させ、地獄を拡大しようとするサタンの戦略であることを知らなければなりません。

なぜ人間は対立し闘争するようになるのか。結局は堕落していてサタンの支配を受ける立場であるので、その影響を受けている状態で、サタンの思想を実践しているのが現実の世界といえます。

真のお父様が堕落観念を持ちなさいと言われます。その堕落観念をもつことで本然の観念に立つようになります。そのためにみことばを訓読し、祈祷生活、11条生活をすることを重要視することになります。

神様は授受法の理念です。そこには対立と闘争のない世界です。愛によると調和と統一によって平和がもたらされます。

神様の中に闘争と対立の思想はありません。
サタンは自分だけが正しく、相手が悪いと言って、闘争するようになり、神様は自分の責任であるとして相手をゆるすという愛の思想を持っておられて、堕落した人間の復帰に責任をもっておられます。

共産主義は闘争による暴力の革命で世界の半分を支配してきて、さらに拡大しようとしています。その本質を見抜いて、罠にかからないようにし、真の愛の革命を起こさねばなりません。それが伝道だと思います。




真のお父様のみことば 「信仰の三子女と本然の家庭基盤」1983.5.13

ヘーゲル弁証法は間違っている。ヘーゲルは弁証法における「闘争」という観念をどこから引き出してきたのか。人間の心の中に深く入ってみれば、良心と肉心は闘っている。そこで闘争観念が元々からあるというように考えられてきたのである。

だから、神が創造した世界そのものに闘争があると曲解されてきた。それは堕落観念が分からなかったからで、根本的問題である。 人間の本心を深く探ってみれば、人間は相反する二つの性質でもって対立しているというように考えられてきた。ですから、そういう二つの要素が組み合わされた人間の、良心的な基準と肉心的な基準に対応しながら、歴史が発展してきたという観念がすぐ生まれるのです。

それゆえ、ヘーゲルにおいては「堕落観念」を生み出すことができなかった。これは、根本的問題である。堕落した結果としての人間自体を分析してみれば、相反する二大性質で結合している。それが、そもそも神の創造の原則だと思うから、宇宙はそうなったとする根本的原論を立てるようになった。

 そういうふうに考えてみた場合、今の共産主義思想は現在のすべての事象を弁証法理論による歴史的発展の中で主張する。現実の一切を上部構造と下部構造に分立させ、論争、対決の相対圏を立たせて解決し、発展させようという戦闘的な理論を引き出している。発展するには、以前のものを破壊しなくてはならないという理論が必要になってくる。そもそも、ヘーゲルの弁証法は、その基準を堕落しなかった人間の立場から考えた。

しかし、事実はそうではない。堕落した人間であったから、良心と肉心の対立、闘争が始まったのである。もともと、人間の中には矛盾した性質はなかった。 そういう面から見た場合に、我々は、本源の基準に一致する現実的な運動というものが絶対必要である。ヘーゲルは、「生活の場」が矛盾をはらんでいると見た。それが平常なものであって、宗教は異常なものだと思うようになったのである。そうではありません。

ヘーゲルの考えは間違っている。堕落した結果の人間を中心として、堕落前の本然の人間の出発基準において考えた点が間違っていたのである。 我々がここで強調しなければならないことは、堕落観念を早く宣布することである。我々人間自体の中で、良心と肉心とが相争って闘っている。その二つの力の拡大が、世界の分立体として、民主主義世界と共産主義世界、唯心、唯物の世界として現れている。その結実として収穫期に向かって進んでいるのが、末世紀(終末時代)の時代思潮の現象である。はっきりしているんだよ。







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自由と堕落と復帰

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今週の水曜日(19日)に原理講義を行いました。堕落論の五節自由と堕落、六節神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由、のところです。
原理講義をしながら、なぜ堕落をしたのか、どうすれば復帰できるのかという原理を自由という観点から改めて教えられました。

サンクチュアリにおいては自由が重要視されています。天一国時代を迎えている今日、天一国主人として自由の特権が与えられているゆえであると思います。
それで、その自由をどのように捉え、自由をもって本然の立場に戻っていくかということが課題となります。

原理で堕落は自由を失い、天使長の事情と心情に相対し、授受作用をすることによって、非原理的愛が発動し、堕落にいたったということ。
復帰は自由をもって神様と相対し、授受作用することによって、本然の原理的愛をして創造本性を復帰できるということを明確にしています。

それで我々はそれをどのようにそれを実践し、実体的復帰をするかということ課題が与えられているということになります。


原理講論 堕落論 第五節

(三)自由と堕落と復帰


 天使は、人間に仕えるために創造された。したがって、人間が天使に対するのは、どこまでも人間の自由に属する問題なのである。しかし、天使から誘惑された当時のエバは、いまだ知的、あるいは心情的に、未完成期にいた。したがって、エバが天使の誘惑により、知的に迷わされ、心情的に混沌となって誘惑されたとき、彼女は責任と実績を追求する本心の自由によって生ずる不安を覚えたのであるが、より大きい天使との愛の力によって、堕落線を越えてしまったのである。

エバがいかに天使と自由に対したといっても、取って食うべからずと言われた神の戒めのみを信じて、天使の誘惑の言葉に相対しなかったとすれば、天使との非原理的な愛の力は発動し得ず、彼女は決して堕落するはずがなかった。それゆえに、自由が、エバをして、天使を相手とし、堕落線まで引っ張っていったことは事実であるが、堕落線を越えさせたものはどこまでも自由ではなくして、非原理的な愛の力であったのである。

人間は、天使に対しても、自由をもって対するように創造されていたので、エバがルーシェルに対するようになり、それと相対基準を造成して、授受作用をするようになったとき、そこに生じた非原理的な愛の力によって、彼らは堕落したのである。それゆえ、これとは反対に、堕落人間も自由をもって神に対して相対的な立場に立つことができるのであるから、真理のみ言に従って、神と相対基準を造成し、授受作用をするようになれば、その原理的な愛の力によって、創造本性を復帰することができるのである。既に述べたように、人間が本性的に自由を叫ぶようになるのは、このようにして、創造本性を復帰しようとする、本心の自由の指向性があるためである。


「人間が天使に対するのは、どこまでも人間の自由に属する問題なのである。」とあります。
今の時代の摂理において、真のお父様は天使に値する位置として、霊の子を与えてくださっています。霊の子に自由をもって対する責任分担が我々に与えられています。
復帰するためには神様と相対基準を合わせ、授受作用することによって、原理的愛を持たなければなりません。真のお父様のみことばと完全にひとつになることによって、原理的愛が発動されます。それで天使(霊の子)も本然の位置に立つことができるようになります。





真のお父様のみことば  「信仰の三子女と本然の家庭基盤」1985.5.13

霊の子とはいったい何か。これは失われた三人の天使長を意味する。アダム、エバが、三人の天使長の共同圏、協助圏に立てなかったから人間は堕落した。それを蕩減しなければならない。だから、三人の霊の子は三人の天使長に当たる。それらが一つになって、アダムに対して命を捧げるような立場に立たなければなりません。

 あなたたちは霊の子に対して、アダムの立場、エバの立場に当たる。そうなった場合、三人の天使長の代わりに立った霊の子は、その霊の親に対して、命を捧げても何の未練もないような心情圏をつくらなければなりません。教育して、そのような関係をつくらなければなりません。そして、アダムの立場から見た場合、自分自体が結婚するのを遠慮しなければならなかったのが、天使長の立場だね。三人の天使長がつくられた目的は、アダム、エバを教育して、家庭をもつことのできる心情圏確立の日まで遠慮せざるを得ない立場であったのに、逆に問題を起こしてしまった。そのことが堕落でした。


だから、それを結びつけながら、元のほうに帰るために天はそれを認定せざるを得ないんだね。それが、アベルの道である。まず、三人の天使長が一体化した基準であなたたちの一切の祝福を援助し、準備してくれなければなりません。だから、統一教会は三人の霊の子がなければ生活することができません。分かりました? 三人の霊の子がいなければ、三人の天使長が完全に援助した基準に立てないから、その基準は、そのまま堕落圏内にある。サタンはいつでも引っ張っていく。



「2020はたくさん伝道するとき」と、二代王様は語られています。その背後に天一国主人としての勝利を願われる神様と真のお父様の心情を感じています。伝道、この時にやらず、いつやるのかと自分に言い聞かせているしだいです。






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伝道できない理由

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1 伝道できない原因
2 伝道の秘訣
3 伝道は一対一の伝道がいい
4 伝道するときの対話方法
5 伝道するときに留意すべき点
6 伝道の難しさと、その克服




真のお父様のみことば  「牧会者の道」から

伝道の秘訣と方法
1 伝道できない原因


 あなたたち、教会の伝道ができないといったでしょう。伝道がなぜできないのですか? こういういいみ言をもってなぜできないのですか? 昔の習慣性がそのまま生きているので、革命を成せないため、駄目なのです。(一四五―一〇〇)


 統一教会の教会員たちが、今まで伝道するのに、なぜ伝道できないのか。原則から外れているからです。原則に合わなければ、伝道は駄目だというのです。皆さんに、「伝道に行くとき、既成教会員たちを伝道せよ」と言ったでしょう。「一般の人を伝道せよ」と言いましたか? 「既成教会の牧師を訪ねよ」と言ったのに、「アイゴー、あの牧師は自分より能力があるのに、聖書は私はよく分からないのに……」。聖書を知っているとか、分からないとかを考える必要はないのです。


そうであればあるほど、もっと行かなければなりません。そうでしたか、そうではありませんでしたか? そうしているのですか、そうしていないのですか? そうすれば、必ずその家に行って女中をしても、その家に行って家政婦をしても、その家に行って食べて寝て、その教会に行っても、自分の部屋のように、自分の家のように考えなければならないのです。その家が私たちのうちなのです。このうちは、アベルが管理する家であり、カインが管理する家ではありません。見に行ってきましたか? それはカインが管理する家ですか、アベルが管理する家ですか? 純然として逆になっているのです。それが、原理的ではないのです。ゆえに難しいのですが、それを探すことをしなければならないのです。そうなれば、その次からは一遍に戻っていくのです。分かりますか? 破裂し始めれば一遍に変わるのです。(五五―二五八)


 皆さんは、伝道できない原因が何かを知らなければなりません。人のゆえにできないのでなく、問題は自分にあります。道にバラが咲いていれば、道を過ぎ去る旅人は誰でも、この花に関心をもたない人がいないというのです。そうですか? いないのですか、いるのですか? (いないのです)。全部同じだというのです。皆さんが、ぱっと咲いているバラの花のように、行き来する人の前に、香気を震動させてみよというのです。そうなれば、通り過ぎる娘たちがニコニコ笑いながら、「まあすてき」と言って、さっと来て折ろうとするのです。またおじいさんは、「アイゴー、このように寂しく道端に咲いているなあ、これは駄目だ。動物が通って、いたずらすると駄目なので、折って部屋に飾らなくては」と言うのです。同じく、そういった心情的花を咲かせられる皆さんにならなければなりません。分かりますか。夜に明かりがあれば、そこに昆虫が集まってくるのと同じだというのです。(五〇―三〇四)


 伝道ができないのは、誰の責任ですか? まず、天使長の責任です。復帰過程において、再創造過程において、天使長の立場にある、教会長に責任があるというのです。分かりますか? 分かりますか、分かりませんか? (分かりました)。(五〇―三二五)


 皆さんが伝道ができないのは、なぜでしょうか。「あの人は何で来るのか」と言われれば、伝道は駄目なのです。どんな心をもたなければならないのですか。母や父のような心をもたなければならないのです。一人来れば、五千年、一万年待ち焦がれていた、息子、娘が訪ねてきたように感じなければならないのです。私の息子、娘が来たのでうれしくて、形容できないほど心でうれしがらなければなりません。人は霊物なので、嫌がっているということをみな分かるというのです。自分を喜ぶ目から、姿から、心から、喜びを感じるようになる時、伝道されるのです。父母が失った子供を探すようになると、子供が帰ってくる時に喜ぶ心と同じ心で、その間の事情を聞きたがって、「この間何をして過ごしたのか」と言う時、自分のすべてを告白しようとするというのです。ゆえに、先生に会うようになれば、私は口をぴたっと閉じていても、訪ねて来て、皆いろいろ話すのです。(一九六九・五・一二)


 今日、地方に出て伝道するのに、なぜ伝道できないのでしょうか? その人の生命を生かすための観点で、私が伝道するのでなく、自分が生き、自分が良くなるように伝道するためだというのです。観点が違うというのです。皆さんが神様のように、より与えなければならないのに、ただ自分の話だけしたというのです。ですからみな離れていくのです。食口たちは、あなたたちよりもっと苦労させ、自分は楽に過ごそうとして……。これはサタンの遊びなのです。神様が共におられません。アベルになれないのです。先生がこの位置に来るまでに、三十年の道を築いてきたのです。(七六―三三六)


 皆さんの考えで、「み旨の時が来たのに、なぜ伝道できないのか」と言うでしょうが、それは皆さんのゆえにそうなのです。先生はどこに行っても、伝道することができるというのです。私は、どれだけでも言えるのです。私がそういった境地に精神統一していくなら、環境がすぐに変わるのです。ですから、それほどに距離があるのです。みな同じように見えますが、距離があるのです。それをどうつくるのかということを考えなければならないのです。


 そして、皆さんが今、天のみ旨を知っていますが、いつ天の声を聞いて、いつどこで霊的に先生に会って報告するのでしょうか? それを相当に慕わないと、そうならないのです。そうすれば、みな教えてあげるようになっているのです。皆さんが、夜寝るのも忘れ、食べることを忘れ、愛する人を忘れるくらい、それを思うことができれば、完全に直接通じるというのです。(九四―一五七)


 皆さん、先生が慕わしくて御飯を食べられず、そうしてみなさいというのです。直通します。アメリカにいる先生が、今何をしているのか、みな見えるのです。これはうそではありません。分かりますか、何のことか? 心情のはしご、心情のアンテナは、先生に通じるようになっているのです。それにもかかわらず、自分の考えだけをもって先生の命令や、指示をなし、上部の指示を計算して、このような精神姿勢は正さなければならないというのです。分かりますか? (はい)。(六八―一〇五)


 今まで、統一教会が伝道しても、なぜできなかったのでしょうか? この原則がなされていなかったからです。先生は今でも昼寝はできません。習慣になって、昼寝をしようとするとしても……。いくら疲れていても、昼寝はしません。食口たちが、世界でみな苦労しているのを考えると、それが良心に引っかかるのです。雨が降れば、すぐに皆さんのことが思い出されるのです。雪が降っても、皆さんを思います。ゆえに船に乗って、海に出るのです。そうすれば心が楽です。先生が、そうしながら祈祷しているという事実を知らなければなりません。どこかに行けなければ、ここででも、自ら進んで疲れる仕事をしようとするのです。それが必要なのです。そう暮らす限り、統一教会の先生のために、死の場に行くというのです。父母について恨まないのです。感謝するのです。


 そして、先生はいつも第一線の友達だという考えをもっています。第一線の友人。後方の友達でなく、第一線の友人だという考えをもっているのです。そうすれば、食口たちが一線に立った司令官だと考えるのです。ここに主の責任者として来れば、主をどれほど愛しているのか? 主の地をどれほど愛しているのか? 主の人をどれほど愛するのか? これが問題です。(一三一―三三三)


 伝道ができない? できないのは実力が足りず……。信仰が足りず……。精誠を尽くして一度で駄目なら、二度、三度、四度、だんだん、より強く反復するのです。駄目なら成されるときまで。ゆえに、がっかりするなというのです。がっかりする者が、一番気の小さい者だというのです。皆さん、伝道に出て、一州に影響を与える自信がありますか? 「私は一州が問題ではない。一つの国が問題ではない」。まず、そういった自信をもたなければならないのです。自信がありますか? (はい)。(七七―二〇)


2 伝道の秘訣

 地方に行けば、伝道する時、誰は何カ月、あの人は三カ月目、あの人は五カ月目、あの人は一年半、三年なら三年、このように一カ月目、二カ月目、基盤をつくるための期間をみな決めて、何十、何百名をみな計画を立てて祈祷しなさいというのです。そうしていますか? 稲穂を刈り取るのです。この者たち! 秋に収穫すれば、穂を刈りますか? よもぎの畑を耕しますか? (よもぎの畑を耕します)。よもぎの畑を耕すのに計画がなければならないではありませんか。「あの人に何カ月必要だ」と言って、駄目なときには私の精誠が足りないので、昼も夜もないのです。夜を明かしながら、祈祷するのです。断食祈祷するのです。人を愛することが、神様の主義なので、人を愛さなければなりません。


 これが原則ならば、私自身の愛が不足でも、神様は、私が私のためにするのでなく、相手側のために祈祷するその功は、聞いてあげなければならないので、聞いてあげるのです。ところで、そういう祈祷をしてみましたか? してみたかというのです? 全部、統一教会をつぶす、やくざ者になっているというのです。「先生は本国に帰ってきて、いいことは言わずに……」と思うかもしれませんが、これが、いい話なのです。分かりますか? (はい)。これ以上いいことはないのです。先生が、今まで信仰の道を明らかにしてきた、生活哲学を話すのです。分かりますか? そうして、できないのか見てみなさいというのです。駄目なら先生は偽者だというのです。であれば、先生についてくるなというのです。先生を信じるなというのです。先生が詐欺師だと思うのですか? そうしてみて、信じなさいというのです。


 皆さんが、道を行く人と会うのに、心がぎこちないなら、祈祷せよというのです。そして、家を訪問するときにも、その家に入っていって、その家庭のために、息子、娘のために祈祷せよというのです。褒めなければならないのです。そうでしょう? 伝道するという、生命を救うという者がぼーっとしていていいですか? ゆえに、どんな人でも、里長に会うとか、誰に会うのにも、ずっと会ってみて、「どんな人だ」と分析して、精誠を込めるのです。とても、伝道はおもしろいというのです。おもしろそうですか、おもしろくなさそうですか? 考えてみよというのです。そうしてみよというのです。おもしろいですか、おもしろくないですか。「あの人は六カ月以内に、五カ月以内に」、こういう実力と、信念を兼備して、そしてその人について、夜も昼も、祈祷してあげよというのです。人を見れば、すぐ分かるというのです。


 さあ、先生の言葉を聞いてみると、皆さんが今、どんな段階にいるのか分かりますか? 皆さんは、やくざ者たちです。やくざ者、分かりますか? 本当ですか、うそですか? (本当です)。何が、本当ですか? (はい)。本物になろうとするでしょう? 人が慕わしくて、涙を流さなければなりません。


 これを考えよというのです。父母をすべて捨て、先生のあとに従う皆さんではないかというのです。そうではないですか? 故郷に行きたくないですか? 父母と会いたくないですか? 私がなぜ、このことをしなければならないのですか。なぜ、父母のひざ元を離れてこのように孤独な、山川をさまよわなければならないのですか? 見えもせず、会いもしなかった人になぜ会わなければならないのですか。神様のゆえなのです。父母の事情よりやるせなく、兄弟の事情よりやるせなく、友人の事情よりやるせない神様の事情があるからです。


 ですから、彼らよりもっと懐かしがられないといけないのではないですか? 訪ねてくる食口を、父母を慕うように、兄弟と対するように、誰か来れば、行ってしまうのではないかと心配し、そうならないといけないのです。立って行ってしまうかと、あれこれ食べさせて。皆さんの心はそうですか? それが、父母の心情を抱いて僕の体をもつということなのです。そうなれば、その人たちが、来てから行こうとすれば、お尻が離れないのです。分かりますか? そういう何かがあるのです。霊的に体験するのです。とてもおもしろいのです。


 そうして、食口たちに対するようになるとき、誰かが、「あすの朝来る」と祈祷して寝れば、来るのです。来るのです。分かりますか? (はい)。私が、この神山にもこのような訓練をさせたのです。「お前、祈祷してみよ。こういう心、こういう心情をもって、こうすれば、本当にこうなる。君が東洋人なので、今までお前に、神様が協助しなかったかもしれないが、今、米国に来ているので、私の言うとおりに信じてしてみよ」と語ったのです。ですから、神山が信じて、そのとおりにしたのです。誰かが、あすの朝来るように祈ると、来たというのです。そういうことが起こるのです。何のことか、分かりますか?


 心情が、いたたまれないような心情でなければなりません。どの程度か、愛する恋人を慕う以上の立場にまで、行ってみよというのです。そうすれば、直通です。世間で、恋わずらいにかかるということを聞いたことがあるでしょう。神様に対して、それ以上になってみよというのです。そういう立場に行くと、はしを持っても「お父様! 一緒に召し上がりましょう」こう言うのです。そういう実感なのです。実感がわけば、自然なのです。どこに座っても、「お父様!」と言って、いいものがあれば、自分も知らずに差し上げたく、いい服を着る前に、まず着せて差し上げたいのです。そのようになれば、この先生に対して、そういう考えをするようになれば、心配すれば、先生がいい服を着ているのが、みな見えるのです。そういう経験がなければならないのです。


 伝道する秘訣があります。それは、ある人が、訪ねてきて過ぎ去るとき、耐えられないくらい残念がることができるようにならなければならないのです。夜十二時が過ぎ、二時になっても、「行こう」と言えば、胸がキュッとして、「もう少ししてから行けば……」という心をもてる人ならば、教会の復興は間違いありません。


 先生は、今までその原則を中心に生きています。皆さんが先生を観察すると、そういうことをたくさん感じられるというのです。食口たちが集まって、夜十二時が過ぎ、二時、三時になって、「行こう」と思っても、「もう少ししてから行こう」と思います。そういう心がなければ、発展しないのです。そこには、父母の心が動くのです。


 子供と同じ部屋で寝たいし、一緒にいたい、こういう父母の心を皆さんは相続しなければなりません。誰かが粗末な服を着ていれば、それを見て、恥ずかしく感じなければなりません。姉さんや兄弟が見てもそうなのに、親の心はどうですか。息子が食べることもろくにできずに、やつれた顔をしているのを見れば、父母は自分が食べずに何でも取っておいて、そのまま与えるのです。そういう心をもたなければなりません。(二三―六七)


 皆さんは、先生が言うことを、そのまま流れていく村人の話のように考えてはなりません。そこに生命を懸け、他のことができなくても、それをしなければならないのです。伝道する道は、特別なことではありません。原理のみ言を聞かせることと、原理のみ言を読ませること、この二つの道しかないのです。今皆さんが、街頭に行って、伝道するのはなぜですか。人を連れて何をしようというのですか? 原理のみ言を聞かせ、原理のみ言を読ませようということなのです。(九六―一三一)


 伝道するとき、どうやって愛の話をすればいいでしょうか? 「伝道、伝道」と言わなくても愛の心をもって暮らせばいいのです。あなたたち、愛をもって暮らしてみよというのです。町内で会う人は、自然に来るようになるのです。低気圧が来れば、高気圧に「来るな」と言っても来るようになるのです。愛することは、低気圧圏をつくることです。ゆえに、高気圧圏が全部集まるようになっているのです。


 先生のような人は、どこかアフリカの奥地のような所に行っても死にません。既に自然に対することが違い、暮らす生活方法が違うのです。そこは、低気圧圏になるので高気圧圏が飛んでくるのです。自然にうずめてあげないといけないのです。伝道しなくてもいいのです。


そう暮らせというのです。伝道することはないのです。そうすれば、神様が訪ねてくれるのです。そこに香気が漂うので……ちょうが、全部花が咲く時、「ちょうよ来い!」と言われて来ますか。香りがするので、においをかいで来るのです。においをかいで来るというのです。


「異端、統一教会、悪い悪い」と言って、全部北側に鼻を向けるのに、統一教会の方、南側に向かってみると、においをかいでくるのです。続いてくるようになっているというのです。(一四四―二五一)


 私たちは、武器を持って伝道するのではありません。愛をもって伝道するのです。アベルが愛で、カインを救った勝利の基盤を通じて、偽りの愛で占領されたのを、真の愛で復帰しなければならないのです。そうしてこそ、相衝(注:衝突し合うこと)がない、本然の世界に帰れるのです。ある手段と方法を通じてしてから、またサタンが、手段と方法をもって、来る戦法が残っていることを知らなければなりません。(四〇―二五〇)


 サタンには、サタンの作戦法があるのです。サタンの攻撃法があるのです。私たちは、それを知らなければなりません。サタンが攻撃するのは何ですか? サタンがサタンになったのはなぜですか。自分がサタンになった、その内容をもって出てくるのです。私のようになれば、私のようにすれば、サタンだ、私の側だというのです。

 サタンが、サタンになったことを、少し調べてみましょう。最初に、サタンが接近する時には、「やあ、このエバよ」と言って行きますか、笑いながら行くでしょうか? どのように行ったでしょうか? (笑いながらです)。ですから、伝道する時、(表情をつくりながら)こうして気分悪くしなければならないですか? 気分良くしなければなりませんか? (笑いながらです)。


 さあ、サタンの魁首を捕まえる秘訣も同じなのです。同じなので、一番いい言葉で、その人を説得しなければなりません。「お前が暮らす場がどんな場か? このように悲惨で、このように悪いが、私たちが暮らす場はこう良く、こう素晴らしい」。共産党式の宣伝なのです。
 サタンは、表裏が違うのです。それが、サタンです。では天の側はそうあり得ますか? (いいえ)。では、表も良く、内も深くないといけません。それが方法です。朝は兄弟同士けんかをし、伝道に出ては、「ははは!」と言っていていいのですか? (駄目です)。それでは、サタンが「やあ、お前、私と同じだ。こいつ!」と言うのです。皆さんが、心に喜びをもって、体も喜ばなければなりません。そのように喜びをもてば、神様の喜びとサタンの喜びとは違うのです。ここで二つの力を見ても、これは二分の一で、これは二分の二なので、こちらが勝つというのです。理論的に合っているのです。内的、外的に一つなので、二つが倍になるから勝つというのです。倍になるから勝つというのです。


 サタンは表と裏が違うので、一つしかないというのです。こちらは内外が同じなので、二倍なのです。二倍、二倍だから、続ければ結局、誰が勝つかというと、サタンが追い出されていくのです。今まで先生が言ったことが、伝道に行くときの秘訣です。(七六―三三三)


3 伝道は一対一の伝道がいい

 皆さん、一人一人伝道しなさい。一人一人、一対一、一対一作戦を組まなければなりません。皆さん、そうしなければならないのです。(九六―三一六)


 一対一の作戦が必要です。一対一の作戦、一人について、どれほど集中攻撃をしたのか、その回数の増減によって、参席数の増減が起こるのです。何のことか分かりますか。どうということはないのです。誠心誠意の限り対してあげ、彼らが一つの目的のために、その国のために、世界のためになるのに、誠に満ちたそこに感動されて、伝道されてくるのが七〇パーセントです。七〇パーセント。


 ゆえに、街頭から引っ張ってきたといえば、一度来ても、元来関心がない人なので、全部流れていってしまうのです。しかし、集中攻撃して来た人は、どうしてこの人がこうなったのだろうという関心をもって来たため、それやこれが思想の中に、そういう根拠が、どこにあるのかと関心をもって聞くようになるのです。そういう人は、原理を全部聞くのです。分かりますか? それは理論的なのです。分かりますか? (はい)。(七〇―一二二)


 二人、三人、伝道しようと思うなということです。一人ずつだけしなさい。
 人が、生まれる時には、一人ずつ生まれるのであって、二、三人ずつ生まれるのではありません。双子が生まれるのを喜びますか? 一人ずつだけ生めというのです。一人ずつだけ。ゆえに、皆さんは一カ月に一人ずつだけして、一年に十二人を伝道するという目標を立てて、一年十二カ月、精誠を尽くせというのです。


 もし、皆さんが十二カ月の間、精誠を尽くして、十二人伝道したというようになれば、一人につき、五十名ずつ増えます。なぜですか? この人が自分を伝道するため、精誠を尽くすことを伝統として受け、伝道された人はすべてそうして伝道をするからです。「ああ、私は一人を伝道するために、あれほど祈るのだなあ」と思いながら、伝道されたその日から、み言を聞き、座って「私も誰々を伝道しなければならない」と考えるのです。そうすれば、その人も何日もたたず、一人を伝道するのです。その次には、またその人によって来た人が、伝統を受け継ぐようになり、それが急速度に広がっていくのです。今は、そういったことを意識しながら、復帰の一路を行かなければならないのです。(二三―三一〇)


4 伝道するときの対話方法

 伝道するときには、軽々しく話をしてはいけません。その人が陰性なのか陽性なのか把握して、そこに合わせて話をしないといけません。人の中には、陰性的性格をもった人と陽性的性格をもった人がいます。陰性的性格をもった人には、絶対憂うつな時にこの話をしてはいけません。その人が陽性的な時、すなわち気分がいい時に行って話をしないといけません。気分が悪くて沈んでいる時には、絶対うきうきするような言葉をかけるなというのです。むしろそういった時には、気分を見ながら同情しなければなりません。


 また陽性的な性格をもった人には、陽性的な時に話をしてはいけません。そういう人には、必ず陰性的な時に話をしないといけません。陽性的な時、すなわち気分がいい時に話をすると、保てず、みな流れてしまうのです。ゆえに、そういう時は避けて、反対に、深刻な時に話をしないといけません。(四二―一七三)


 人を探すため、春の季節のような、夏の季節のような、秋の季節のような、冬の季節のような地方に行って、涙と血と汗を流そうというように考えなければなりません。私が、春の人、夏の人、秋の人、冬の人、春夏秋冬の人を愛していき、冬の人、あのソ連の人までも愛していくと思わなければなりません。そうしてこそ自分の相手を愛せるのです。それが復帰のプロセスだというのです。(九六―一五二)


 精誠を尽くしたにもかかわらず、彼が言うことを聞かないといって、寂しがったり、悲しく考えてはいけません。天理原則がそうなっていると考える人は、福を受けるのです。そういう人は、絶対に寂しがったりはしません。時が近づいているので、春の風が吹いてくるのです。しかし、精誠を尽くしたのに、それを受け取らない人には秋風が吹くのです。それは、自分の時が近づいているのを知らせるためです。(四二―一七四)


 一つの生命を伝道すれば、早くから先生が皆にそうしたように、夜を明かして、み言も語り、温かく対してあげなければなりません。食口たちが訪ねてきても、見て見ないふりをしていれば、誰がまた訪ねてくるでしょうか。草創期に、新しい食口を心から慕った心情を忘れてはいけません。(二一―三二一)


5 伝道するときに留意すべき点

 伝道に出て、自分勝手に歩き回りながら、「原理のみ言、創造原理、堕落論はこうです。統一教会を信ずれば、良いです、良いです」と、言葉では良く言うというのです。そうしたのでは駄目なのです。それよりも、甲という人がいれば、その甲という人をおいて一度祈祷してみなさいというのです。その父母が愛する場以上の場に、私がどう出るのかということが問題なのです。これが戦いです。彼のお母さんやお父さん以上の心でもって、私がどうやって彼を占領して出るのか? これが問題なのです。


 人は霊物なので、滅びる所には行かないようにし、繁栄する所にはついていこうとするのです。ゆえに、その人に利益になる場に、その何を目的にさせ、その人の父母が、その人を愛する以上に愛の動機を、私がどうやって感じさせて愛するかということが問題なのです。ここでいう愛とは、世間の愛ではないのです。(五〇―二七九)


 伝道は、言葉を中心にするのではありません。自分たちの自覚に従うのです。自分の該当分野で、全体の目的にどうやって結び付けるかということが問題です。(二四―八一)


 皆さんがこの間六〇年代に伝道したのは、自慢するために伝道しましたか、救うために伝道しましたか? じっと考えてみなさいというのです。(救うためです)。皆さんは、既成教会の信者たちを救うために伝道しましたか? 自慢するために伝道したでしょう。これが問題なのです。(三四―二七三)


 ある人が結ばれている綱をじっと見ると、その人は、お父さんお母さんの愛を受けています。お母さんお父さんの愛を受けており、兄弟の愛を受けているというとき、その人に対しては、伝道が難しいのです。それを鑑定できなければなりません。そういった人には、何かいいことを提示してあげなければなりません。利益となり得る何かを提示しなければならないのです。しかし提示しただけでは駄目です。愛の感情を誘発して、自分と関係を結べる作用をしていかなければならないのです。


 では、どのようにしなければならないのでしょうか。ここには、こうじのような愛が必要です。聖書にも、こうじという言葉を、比喩でいっていたでしょう。そのこうじのような愛は、神様の愛です。神様の愛を私がどう感じるのですか? 前に、「一つの生命をおいて祈祷してみなさい」と言いましたが、ある人について祈祷してみなさい。その人のために夜を明かしながら祈祷してみなさい。ここには、歳の多いおじさんやおばさんたちがいますが、息子、娘が死ぬ時、どれほど心が痛いかということは、自分が体験しないと分からないというのです。そうでしょう? (はい)。娘、息子を生んで、育てて、その息子、娘が死んだ体験のある人は、その心が分かるのです。その心以上に愛せば、誰でも引っ張られてくるのです。(五〇―二八〇)


 自分を中心として、全体を利用するのは、神様を利用するのと同じです。皆さんは、これをいつも考えて、絶対的に注意しなければなりません。ですから、人が教会に訪ねてくる時や、あるいは皆さんが伝道する時、「この人は献金をたくさんするだろう」という考えは、絶対するなというのです。その人に対して、権力があり、またどういう人であるかを望むなというのです。人は、優れていても、劣っていても、そのお母さんが生んで、同じわかめスープと御飯を食べさせ、同じ愛を与えたのです。そうでしょう? 自分自身の個人の高貴な生命体を、父母の前に任せて育ってきたのは、みな同じなのです。父母の心情には、人を差別することは、あるはずがないのです。(三三―一六四)


 伝道する時、お金のたくさんある人がいれば、その人が来ればいいのにと思うかもしれませんが、その人が来て何をしますか? それが統一教会のためになることですか? その人のためなのですか? 伝道した人が、お金がちょっとあるからといって、自分の生活を解決しなければならないと思っては、絶対いけません。生命を救うのに、物質的なことを考えては絶対いけないというのです。皆さんは、こういったことをみな選び分けていかなければなりません。
 皆さんが、人を見て、「いい、悪い」と思ってはいけません。高い人になるためには、低い人をよく収拾しなければなりません。(三四―二五〇)


 絶対、人を選ぶなというのです。こじきでも、どんな人でも、できがいい、悪いが問題ではありません。むしろ、できのいい人より劣った人のほうが、心情的にはいいというのです。真実なる一生に、この世間で対されてきた父母の情以上の心を、私を通じて受けられ感じられることが起こる時には、夜も寝れずに訪ねてくるのです。御飯を食べられず、朝早く訪ねてくるのです。そうか、そうでないか、やってみなさいということです。「私は実力がなくて伝道できない」そういうことは全部、話にならないというのです。話になりません。(一九六九・五・一二)


 皆さんが、伝道するにあたって、人を選ぶなというのです。分かりますか? (はい)。人は、天性がそうでしょうが、冬に通り過ぎていくこじきを見て帰ってきても、御飯を食べられず、夜は寝られませんでした。そういう性格があります。お母さん、お父さんに、そのこじきを部屋に連れてきて、よく食べさせてあげて、送ろうと。そういう性質は天が愛する性質ではないのですか。


 ですから、皆さんが伝道する際に、選んでするなというのです。分かりますか? (はい)。なぜあの人を、私に送ってくれたのか? 自分に来る時は、何か目的があって来なかっただろうか? その目的を一〇〇パーセント充足させてあげなければならないのです。それをなせなければ、あなたの事情を聞いてあげられなかったと、悔いの涙を流して、再び来れる機会でもつくってあげようと決心するのが、教役者の責任だということを、皆さんは知らなければなりません。(五六―三五)


6 伝道の難しさと、その克服

 伝道は、出産することなのです。出産と同じなのです。私が暮らしてみると、一人を自分の息子以上に信じられる人にするためには、息子を生むより、三倍の努力が必要なのです。伝道しても、責任をもたなければならないのです。こうやって行った人が、こうやって来ようとすれば、衝撃的な感動を受けて、涙を流すとか、自分自身、憤りや悔しさを感じるとか、今まで、感じられなかった心情的、爆発事件が起こらなければならないのです。(六六―二一五)


 皆さん、伝道しに行って、打たれた時や迫害を受けた時には、自分のことを考えるより、天のことを思いなさい。神様も共に嘆息しておられます。打ったその者たちの過ちを許すようにして、救ってあげなければなりません。そうすれば、サタンも神様を打てません。神様が対応する者を打ったとしても、直接、神様を打てません。受けた時は、神様と共に受けたと考えるのです。そこに生活方式があります。感謝すれば、サタン世界に条件となり、私を打った環境に引っかかります。イエス様も、そういう蕩減条件を立てました。(一五―一四五)


 食口たちの中に、伝道に出て、疲れて力を落とす人がたくさんいるのを見ると、彼は誰のために出発したのか、出発が誰からで誰のための過程であり、その目的が誰を中心に結実しようということか、という問題を見るとき、彼は何の余地なく背信者なのです。(六〇―二四)


 皆さんが、ある地域に行って伝道するとき、初めには束縛される時代があります。この束縛される時代を、打開しなければなりません。そうして、ある程度になれば、飽和時代が来ますが、大抵の人は、この飽和時代に滅びてしまいます。ですから、この飽和時代を中心として、新しい道を模索しなければなりません。そうしないと、飽和時代が、自分を審判してしまうようになるのです。(四二―一七四)


 皆さんが、ある地域で伝道活動をすれば、最初に反対する人は、おじいさんのような人です。統一教会を信じて来る時、最初に、おじいさんたちが反対します。このおじいさんたちが、たばこのパイプを口にくわえながら、普通両班たちが歩くような姿で来て、「こいつら、どうして暴れ回るのだ!」と言って反対します。その次には、お父さんのような人たちが反対します。その次には、お兄さんのような人が反対します。そのように、三代から反対を受けなければなりません。反対を受けなければなりません。堕落の歴史を見れば、おじいさんはアダム型ですが、サタン型のアダム型です。お父さんはイエス様に反対したサタンです。そして、カインがいなければなりません。ですから、カインのおじいさん、カインのお父さん、カインのお兄さんを屈伏させなければならないのです。(二四―三四〇)


 皆さんが伝道に行ってみても分かるでしょうが、反対する人がどんな人かというと、父母たちです。息子を、極めて愛したお母さん、お父さんが反対するのです。「アイゴー、うちの息子が統一教会に通うのは本当にいいことだ。こんな教会がどこにあるだろうか」という人が、どこにいますか? 皆さんが伝道に行くとき、そういう父兄がいましたか? ひどく反対し、怨讐になるのは、精誠込めて育てた、その父兄なのです。そのお母さん、お父さんたちは、間違いなく反対するようになっています。これが、原理なのです。それは、蕩減復帰のためなのです。何のことか分かりますか? これが延長すれば、三代まで行くのです。ですから、この蕩減が問題なのです。皆さんは、この原則をはっきり知らなければなりません。(三四―九一)


 伝道しに出て、迫害を受け、反対を受け、鞭を受けることはよくありますが、死なないだけでも、感謝と思わなければなりません。み旨の道を最初に出発した時のことを思い返しなさい。死ぬ場で、悪口を言われ、悪口を言われる場で対面し、対面する場で語り、語る場で、喜びながら発展するのです。(四二―一七二)


 部落を中心として伝道する時、反対する人がいるのは、よくあることです。反対する人がいれば、私がもっと積極的でなければなりません。サタンが私を攻撃しても、私は反対する人のため、精誠を尽くさなければなりません。相手が強く反対してくれば、その反対よりも強い熱情をもって、私側にいる人たちに与えなければならないのではないですか。そうしてこそ平均になるのです。サタン側を攻撃し、こちらのほうに精誠を尽くし、そうしてサタンが攻撃するよりもっと精誠を尽くして、その人のためになろうとする時に、「迫害する人よりいい」という言葉を聞いてこそ、発展するのです。そうなっているのです。皆さん、そのように戦ってみなさいというのです。迫害する人がいれば、その人よりも、私がもっと一生懸命しなければなりません。分かりますか?


 サタン側にいる彼らを引っ張り出すために、サタンを壊して、占領しに来たので、私を攻撃するサタンの何かがあれば、彼よりもっと一生懸命に、彼の側を攻撃できなければなりません。そうしようとするなら、私がもっと根気がなければならず、私がもっと精誠を尽くさなければならず、私がもっと優れていなければなりません。そうでないと、勝利の結果をもってくることができないのです。それは、自然の道理です。(五六―五九)


 皆さん、そのサタンの活動結果を知ることができるのは……。皆さんが伝道してみなさい。とても重要な人を伝道して、いついつの何時に会う約束をすると、その時間に必ず事故が起きるようなことが、よく見られるでしょう。そういう経験があるでしょう? (はい)。(笑い) ですから、サタンがいることを、私たち統一教会員はよく知っているというのです。それは、早朝でも夜でも、二十四時間活動していることを知っているのです。ですから「私は、二十四時間一秒でも、もっとする」という思想をいつでももてというのです。そうしてこそ、神様が協助できる条件になるのです。サタンより活動をもっとするという精神と信念をもたずしては、サタンに勝てないのです。清算できないのです。(七六―二四六)


 皆さんが統一教会に入ってきて、ある人を伝道しようとする時、ある人と約束すれば、約束したその時間に、必ずその人に何か事が起きるというのです。それは、相対的です。悪が反対するのです。それを見るとき、どの場を中心にして判決を下すのかというと、神様と私だけが残った場で、判決を下すというのです。ですからサタンは、「一人で行かず、横の人を連れていけ」と言います。「一人で行くな」と言うのです。悪い人は滅びても、一人で滅ぼうとはしないというのです。必ず横の人を押して倒れます。統一教会に来て落ちる人も、一人で落ちていかないのです。横の人にこそこそ語りかけながら、一緒に落ちていくのです。これがサタンの根性です。善なる人は、人を批評しません。聖書に、「人を裁くな、批判するな」とあるのは、全部それについての防止策です。(四五―七二)


 皆さんが外に出て伝道する時、「誰々が外に出て伝道すればうまくいくのに、私が行くと、なぜ伝道が駄目なのか。行けば行くほど、疲れて無駄な苦労ばかりする」と言う人がいます。(笑い) それは、なぜそうなのですか。苦労をたくさんするのは、蕩減をたくさんしなければならないからなのです。伝道に出ても、すぐには伝道されません。伝道に出た日から、自ら蕩減しなければなりません。


 自ら蕩減しなければならない責任が、自分の前にあるにもかかわらず、「これは、大変なのでできません」と言って後退すれば、その坂を越えられず、ひっくり返れば、元に戻ってしまうのです。こうして最後には息も絶え絶えになって転んでしまい、包みを持って逃げていくというのです。(一五五―二九六)




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2020は外に出てたくさん伝道する時


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1.伝道とは何か
2.伝道をしなければならない理由
3.伝道する目的
4.伝道の価値




真のお父様のみことば集 「牧会者の道」から

1 伝道とは何か


 伝道とは何でしょうか。伝道とは、サタン世界を捨てて、笑いながら天の道についてくるようにすることです。天の国に導くことです。これを知らなければなりません。分かりますか? 皆さんを見ていると、伝道するとき、その人が好きでも嫌いでも、強制的に「来なさい、来なさい」と言いますが、そんなことでは駄目なのです。人は霊物なので、皆さんがある人のために祈祷して、一度実験してみなさい。ある一人を非常に愛し、その人をみ旨の前に立てるため、心痛い心情をもって、涙を流してみなさい。そして研究してみなければなりません。(五〇―二七九)

 伝道というのは何でしょうか。アベルがプラスなら、カインはマイナスです。サタン世界です。サタン世界について、私がプラス、アベルの位置にいるのです。そのサタン世界のプラスをマイナスになるように、服従するようにするのです。創造するのです。私と一つになれるようにつくるのです。再創造です。再創造、分かりますか?

 ですから嫌いでは駄目です。うれしくて成さなければなりません。神様が天地を創造される時、喜んで造ったのであって、悲しくて、造りましたか。ですから、自分が難しいことより、この大変なことより、より驚くべき愛を与えなければならないのです。(一〇八・八四)

 創造というのは投入です。ゆえに人のために、天使長のために投入した者ほど、自分が復帰されているのです。同じ道理です。

 こういう公式があるために、先生が公式に現れれば、皆さんに「投入しろ、犠牲になって投入しろ」と言うのです。それは正しい教育ですか、悪い教育ですか? (正しい教育です)。統一教会は、世界で天使長圏を復帰して、世界を復帰するための運動をしなければなりません。これは復帰されるまで続けなければなりません。神様が創造の主人であられるのに、神様が創造される時、「誰かせよ」と言ってしたのですか? 自動的にしたのです。ですから誰かが「せよ」と言って、しなければなりませんか。自分が望んでしなければなりませんか? (自分が望んでしなければなりません)。同じなのです。

 ゆえに、伝道しに行けというのは何ですか。完成して早く帰ってこいということです。天の国に早く帰れということなのです。それゆえ、「行かない、嫌だ」と言うのは、この場で滅びるということなのです。ですから、滅びないように追い出さなければなりません。これが理論的です。それゆえに、皆さんはこれを知ってからは、行かざるを得ないのです。ドイツ人も行かなければならず、アメリカ人も行かなければならず、黒人も行かなければならず、日本人もみな行かなければなりません。「私は、それは必要ない。やってみても、こうであり、こうだ」そのようになっていないのです。みなこのようなことが引っかかっているのです。(八一―一五四)

皆さんは天国に行く時に、礼物として持っていくものがありますか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが、前にずらっと立っているのですが、彼らの前に皆さんが、包んで、持っていくふろしきを広げることができるでしょうか? 皆さん一度考えてみてください。こじきの包みのようなものを、広げることができますか。統一教会が、どんな苦労をし、皆さんが、どんな苦労をしましたか? 「国のために、世界のために」と言いながら、それほどの苦労もしないで、どうやって「国のため、世界のため」と言えますか。「苦労をすることはしたが、苦労したとは考えません」そうしてこそ当然なのです。まだ行く道が残っています。霊界に行ってふろしきをほどいて、「これは一生涯私が準備した贈り物なので、受け取ってください」と言えるようでなければなりません。女性たちが、嫁に行く時には一包み持っていくのに、天国に行く時には、体だけぶらぶらと行くのですか。(三二―三七一)


2 伝道をしなければならない理由

 今まで宗教は何を目的にしてきたのでしょうか? 自分の救いという問題を中心にしてきました。そういう宗教は必ず滅亡します。終わりが来ます。今はいくら世界的に成されているといっても、それは必ず、もう一度復活しなければなりません。自分一人の生命を救うための宗教と、キリスト教を信じる信徒たちの目的がどこにあるのでしょうか? 「自分が救いを受け、天国に行く」と言います。そう言ってはいけません。天国に行くのに、一人で行って何をしますか。万民を連れていくために信仰をしなければならないのです。

 ゆえに、「伝道するな」と言っても、伝道しないわけにはいかないのです。「善を行うな」と言っても、行わないわけにはいかないのです。(三五―二〇五)


 このような点から見るとき、皆さんが生きていくためには、伝道しなければなりませんか、伝道しないほうがいいですか? (しなければなりません)。天国とは誰の天国ですか? 統一教会の文先生の天国ですか? もし天国が文先生の天国ならば、皆さんは、先生から借りた天国に行って暮らすのですか? (三四―二九三)

 伝道に行くことは、私も生き、カインも生かすためです。言い換えれば、伝道は神様とサタンの前に認証書を受けて、実践するために行く道です。私が戦うのは、認証書を受けるために、立てておいた条件のとおりに実践するためのものなのです。分かりますか。皆さんはそれを知って、道を行かなければなりませんが、今までそのように行った人がいますか? 何も知らず、行ったり来たりしたでしょう。(四〇―二五二)

 伝道しなければ滅びます。滅びたければ、伝道しなくてもいいです。カインを探せない人は、立つ場がないのです。いくら神様の愛を訴えても、カインがいなければ天国に行けないのです。(三四―二九二)

一度に、これほどの金の塊を掘り出すことのように、一番地、一番地、他の所を探して回るのです。多くの家を探して回れというのです。それをしなければなりません。伝道しなければなりません。そうしなければ神様の事情が分からず、イエス様の事情が分からず、先生の事情が分からないのです。先生は今でも伝道するでしょう? 同じではないですか。これは原理の道です。(九五―三〇三)

 今、皆さんにおいて、伝道が怨讐ですか、体が怨讐ですか? (体が怨讐です)。伝道も皆さんが好き勝手に行うのではないのです。伝道しに行く人は、サタンの前に公認を受けに行くのです。神様から公認を受けるため、伝道に行くのです。ゆえに神様の認証書を受けて、またサタンの認証書を受けておいて、戦わなければならないのです。分かりますか? (はい)。

 皆さんが伝道しに行くのは、救ってあげるためではありません。救われるために行くのです。分かりますか? 現在の私が、そういう立場だというのです。私が先に救いを受けてこそ、他の人の救いをなせるのです。先にアベルになってこそ、カインを救うことができるのです。皆さんはアベルになりましたか? まだなっていないでしょう。

 アベルになるには、どのようにしなければいけないのでしょうか。まずは、神様の愛を受けなければならず、二番目には、生命がなければなりません。そして三番目には教えなければなりません。これが公式です。

 それならまず、神様の愛を受けなければならないのですが、今皆さんは、神様の愛を受けられますか、受けられませんか? 愛はどのように受けるのですか? サタンを追い出すほど、そこに比例して、愛を受けるようになるのです。悪を除去した分量に該当する愛を、神様から自動的に受けるようになるのです。そうしなければならないのではありませんか。私が悪を除去する分量ほど、神様の愛が私に下りてくるのです。

 私が生命をささげて、悪を屈伏するようになれば、生命を探すことのできる神様の愛が私に来るのです。これは公式的です。おもりと同じです。一方が下りていけば、他のほうが上がるようになるのです。悪を多く除去すれば、善が上がり、悪を多くもつようになれば、善が下りていくのです。これと同じだというのです。悪を除去するほど、愛を与えるのです。それゆえ、誰よりも神をより愛せというのです。神様をより愛せということは、神様を愛するほど、神様の愛を受けるというのです。すなわち、神様を愛したので、神様の愛を受けることができるというのです。(四〇―二四三)


3 伝道する目的

 伝道は第二の私をつくるためです。(一八―一八六)

 旧約時代は、物質の祭物時代です。そうですか、そうではないですか? (そうです)。その次に、新約時代は何ですか? 息子の祭物時代です。実際に、イエス様がそうだったでしょう? 新約時代のイエス様がそうだったでしょう? この時は、祭物を体でささげるのです。体は、神様が願う最高の祭物です。それが経済復帰です。ファンダレイジングです。ファンダレイジングをするのです。世の中の人が、一般の人についてこれず、世間のキリスト教徒がついてこれないほどして、その次には息子として立てられたので、み言をもって、神様の代わりに愛さなければなりません。伝道しなければなりません。イエス様の使命を成さなければならないでしょう。(九五―二九四)

 伝道とは何か。息子の位置に立って、すなわち、言うなれば新約時代を蕩減するのです。サタンに勝たなければならないのです。サタンに勝たなければならないのです。(一一九―四九)

 伝道に出る目的とは何ですか? イエス様以上に優れることです。イエス様以上に優れなければ、祝福は受けられないのです。そうでしょう? イエス様より優れたならどのようになりますか? イエス様はゲッセマネの園に行って、生かしてくださいと三回も祈祷したのですが、私は死ぬようなところでも祈祷せず、死んでいくというのです。(笑われる) 私はしないのです。私は絶対にしないのです。死ぬなら死んだでしょう。そうすれば、イエス様より優れているのです。そのように行くのです。私が死ぬ場に行っても、私は祈祷しないのです。私が生きるために祈祷しないのです。分かりますか? (はい)。

 さあ、伝道する目的とは何ですか? イエス様より優れているので、イエス様の弟子のように、反対する弟子でなく、死ぬにも、一緒に死ねる弟子を私がつくるのです。死ぬ場に共に行かなければならないのです。その人が死のうとする時、その息子が死のうとする時、私がまず死ねる場に行かなければならないのです。

 すべての十字架は、私が責任をもち、村で石を投げられても、私がまず受けようとし、悪口を言われても、私がまず言われようとし、鞭打ちを受けても、私が先に受けようとしなければならないのです。分かりますか、何のことか。(はい)。伝道する目的とは何ですか? (イエス様より優れるため)。(九六―一二二)

 では、伝道はどのようにするのですか。それより一生懸命やれ! それより一生懸命せよというのです。物質を復帰するよりも、旧約時代を越えていくよりも、新約時代を越えて息子を復帰することは、それ以上一生懸命しなければなりません。それが原則です。それ以上一生懸命せよというのです。そうしなければ、原理に合わないというのです。

 そうしてこそ、新約時代を通過するのです。イエス様の代わりに、責任を完成するのです。アダムが万物を失い、人を失い、愛を失いました。この三つを失ったのです。ゆえにアダムの代わりになり、神様の息子、娘になるためには、万物を探して、人を探して、愛を探してこなければならないのです。そうしてこそ、復帰されるのです。それが原理です。それは、レバレンド・ムーンの言葉ではないのです。そうでしょう。分かりますか? (はい)。ゆえに、せざるを得ないのです。

 ですから、先生が、万物を探すため、お金をもうけるため、どれほど泣いて、歩き回りながら苦労をしたか分かりません。伝道をするために夜を明かし、どれほど涙を流したか分からないというのです。神様が願う家庭を探すため、どれほど十字架を背負って、迫害を受けたか分かりません。(九六―一五一)

 私たちが原理で伝道するのは、愛を探す運動をすることなのです。心情の世界は時空を超越します。み言も祈祷も、究極には愛のためのものです。完成は、愛の理想を成すことです。(三三―六九)


4 伝道の価値

 いくら時代的な一日の生活でも、伝道するその一日は、永遠と関係を結ぶのです。そのような秩序のころ合いの上に、私たちの一つ一つの行動というのは全体、あるいは永遠と関係を結んで、それがなくならず、残るというのです。

 それゆえに皆さんが、伝道するその一日の血と涙を流し苦労したすべてのことは、永遠と関係を結ぶのです。「秩序の土台の上に真を立て、永遠を約束する不変の価値」、その次には、皆さんが一人ずつ全部、三千里半島(注:韓半島)に出て伝道する時、その価値が初めて立てられることによって、どうなるのですか? 「高く立てられる真理の立て札」、このようになった真の基準が、このように人間が行かなければならないというその真の基準が、だんだん現れるというのです。

 個人的に現れ、家庭的に現れ、国家的に現れて、統一教会が進むこの真理の立て札、これが初めて人間が行かなければならない立て札となって、どのようになるというのですか? (ようようたる……)。「ようようたる善なる日を美しく飾れ」初めて恒久に継続される善なる日々、一日一日の生活を迎えるのです。(一五二―二一九)

 伝道すればうれしい。反面伝道しなければ喜びがこない。先生もこのことを成さなければ苦しいのです。伝道すれば、悪口を言われても、うれしい。(一九―二二)

 開拓伝道をするようになれば、生きておられる神様が、いつでも私たちの周囲で共に守ってくださっていることを体験できます。神様を背信し、反対の方向に行ってしまう場合には、その後の道は長くありません。(三五―一九三)

 神様が生きておられるということを体験するようになれば、「伝道するな」と言っても、必ず伝道するようになります。伝道することが、一番衝撃的であり、新しいことをつくってくれるからです。十人いれば、彼らに心から対したなら、十人が新しい人となるというのです。そうしてから教会に来て、祈祷してみろというのです。そうすれば、彼らが発展する時、必ず私自身も発展するようになっているというのです。私自身が上っていくのです。(三〇―一五四)

 霊界に行けば、誇ることは伝道しかないというのです。霊界では、お金をたくさんもうけたということは、誇る内容になりません。また、世間で権力をもったといって誇ることもできません。生命をどれほど生かしてあげたのか、これが誇りです。甲なら甲、乙なら乙、あるいは氏族を超越して、数多くの民族を新しい生命と関連させて、どれほど生かしてあげたのですか? これが財産です。財産はそれしかありません。

 霊界には、ないものがなく、慕わしい物もないけれど、一番慕わしいものがあるとすれば、真の人です。それゆえ、真の人を養育するために功をささげたその功臣は、天上世界で、当然、栄光の息子、娘になることができます。ゆえに誇ることは、それしかないというのです。(三〇―一四八)

 皆さんは、早く伝道して、あの下に行かなければなりません。常に走っていって、心のままに上って、心のままに下って……そうできる人をつくっておけというのです。ゆえに、私が下ったなら、しきりに押し上げてくれる人がいなければなりません。何のことか分かりますか? 皆さん、先生に困ったこと、難しいことがあれば、皆さんみんな、先生の代わりに行こうとするでしょう? 先生に難しいことをさせようと考えますか? 同じ道理です。ゆえに、そういう基盤をつくらなければならないのです。(一〇四―一八四)



二代王様のみことば 2020.2.5




今からは伝道をたくさんするべき

時:2020年2月5日水曜日
場:韓國語禮拜
所:天一宮

二代王:

今は、2020(イーゴンイーゴン)は皆さんがお互いを見つめるのではなくて、外を見なければなりません、今。福音を伝播、天一国憲法伝播。

生命を早く生かさないといけない。天一国が来ているので。
生命も活かして天一国王国に入って来る事のできる人達を育て、新しい王と王妃達を作らなければならない。

お互いがおろかな馬鹿の言い合いと、うわさをする幼稚園の遊びをするんじゃない。

イーゴンイーゴン(2020)は外を見て!世界のサタン世界に勝たないといけない。
市民達に知らせないといけない。中国政府はサタン主義、赤い馬、危険な馬、戰爭を作る馬。

今からは伝道をたくさんしないといけない。伝道。伝道をたくさんして新しい生命を活かし、主の恩恵と愛で。

その次に新しい王と王妃達を作らないといけない。奴隷達を王と王妃として
作って育てないといけない。
訓錬もして、ハナニム王国の為に、天一国憲法を守り、チャンプモニムをつかんでイエスクリストを愛し、福音を伝播しながら、ハナニムの王国を見つめながら、新しい生命達を救援の道に引導しながら、伝道しながら、讃揚(チャニャン)しながら、
平和軍警察訓錬しながら、どんな障害物にも勝ち抜きながらハナニムの恩恵で。

勝利!ハナニムの勝利的次元に上がりながら、天一国を迎える事のできる宗族(そうぞく)王と王妃達、天一国市民達、百姓(ペクソン)達になるべき。

分かられましたか?若い奴ら、どういう意味か分かったの?コメントで出ているの?

とにかくエレミヤ10章に出てくるように、我々はサタン世界を恐れてはだめだ。戦う時に恐れたらだめだ。「恐るな」というのは「受け入れるな」という意味ではない。戦う時、恐れてはならない。左翼野郎と戦う時、恐れてはだめだ。

左派イデオロギーとサタン主義イデオロギーと政治サタン主義と戦う時、恐れてはだめだ。
その戦い、義の戦い。その戦い…
何、善なる戦い。サタン世界を暴露する戦い。戦わなければ生命を失ってしまう。生命たちは地獄に行く。実体的な地上地獄と永遠な地獄。恐ろしい地獄。

その人たちを活かさないといけない。ちからその力はクリスト、クリストから出て来る文明圏、天一国憲法、天一国憲法は実体的な地上天国を建設するから。
左派社会主義、共産主義、サタン政治主義から解放を受けるんだね。人々が。つまり、天一国の国、王国でお互いが戦って、あるときは同意しないでそうなっている(そうなる事もある)しかし、クリストを知る人、その人はより成熟する。

二代王がいつ家庭詐欺連合の奴達を強制で伝道せよと言ったの?できないんだね。宗教の自由は天一国憲法で保護されているから。

でたらめで狂った内容を信じてもそれを信じるのはその人たちの権利だ。しかし、それが正しいという意味ではない。だから福音を伝播しないといけない。マルスムを伝播しないといけない。

人たちの生命を救おうとされる主の心から生じるんだね。それは2020で我々が戦うべき。ハナニムの王国の為に。
家庭詐欺連合の奴たちだけでなく、サタン主義にはまったモノたち、娼女たち、税吏たち、ラスベガスはアボニムが活かそうとする創造本然の世界。主であられるから。そういう心で。

外を見ないといけない。天一国憲法を見せてやりながら。左派野郎達に反対し、恐怖、恐れずに。ハナニムの勝利とハナニムの国の勝利、ハナニムの王国の勝利、天一国憲法とハナニムとチャンプモニムとイエスクリストの勝利のために、戦いでる事のできる勝利的王と王妃達、天一国百姓(ペクソン)達になりましょう。我主(アージュ)、我主、我主





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ジョージクック牧師をお迎えしたい理由

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①神様が救いの摂理を進めるために送ってくださる。
本来、イエス様の時、神の摂理はローマと一つになった後、東洋をまわり、仏教圏、儒教圏と一つとなって世界の救いをすすめる計画であったことを真のお父様のみことばから知ることができます。
韓氏オモニの不信と堕落によって、神の摂理は第二イスラエルに移行しています。二代王様の祝福を受けてこられるジョージクック牧師は善なる洗礼ヨハネの立場であるに違いありません。今回、東洋にこられる背景に神の救いの摂理を東洋に展開してくださろうとする神様のみ意を感じます。


②先祖のキリシタンがジョージクック牧師の来日を切望している。
メシヤ再降臨時代となった1517年以降、神はその準備のためにキリスト教宣教師を日本に派遣しましたが、時の主権者は無慈悲に迫害しました。キリシタンはどれほどイエス様の代理として来てくださる宣教師を切望していたかわかりません。
日本の霊界では、キリスト教の篤信者が数多くおられます。イエス様を慕い、再臨のときを待ち望んできたと思います。三代王権の代理としてキリスト教の牧師様が来ていただけることは奇跡的な恵みと思っているはずです。


③洗礼を与え新約時代の恩恵に連結してくださる。
イエス様を王の王として迎えるために、洗礼がありました。それは堕落人間の罪を少しでも清算し、カインアベルの闘争を整理する目的をもって「主の道をなおくする」使命がありました。新約時代の上に成約時代があります。我々はその梯子をしっかり踏んでいくことで、天の摂理圏にさらに同参できるようになることを感じます。


④イエス様が神様の恩賜としてなされた業を行ってくださる。
イエス様は2000年前、堕落人間の救いのために、多くの奇跡をもって人々を癒しました。それは神の権能をもって、愛の恩賜を施され、みことばを受け入れる土台とされました。キリスト教の牧師様はそのイエス様の権能を相続しておられます。
私たちの周りには多くの人々がいます。そして病気や家庭的環境の中で苦しんでいます。三代王権とイエス様の権能をもって、愛の恩賜を施してくださるジョージクック牧師をお迎えできることは氏族や友人を救済できる道が与えられていることを感じます。
また、とくに聖殿シックの中でその試練を受けている方を慰労したい神様の心情を感じてなりません。


⑤三代王権から遣わされた方として
先月から縁があって、個人的にジョージクック牧師とメールのやり取りをしていますが、その中で感じるのは懐かしい兄弟愛です。
二代王様が以前日本を巡回されたときに本当に僕のような立場で行動された姿を思い起こします。イエス様が「私はつかえられるために来たのではなく、つかえるために来たのだ」と言われましたが、二代王様はイエス様のみことばを実践されておられました。ジョージクック牧師の姿にも同様の心情を感じます。
聖句ヨハネによる福音書13章20節「わたしがつかわす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをつかわされたかたを、受け入れるのである」。とあります。
2015年の夏ごろ、私はエルダー本部長にメールをして「二代王様は日本にお越しにならないでしょうか」と安易に質問したところ「そのような予定はありません」と返事をいただきました。霊的にも実体的にも基盤がないところにこられることはありません。
今回、ジョージクック牧師がこられる背景に二代王様の心情を感じます。二代王様三代王権からつかわされた方をお迎えする準備をさせていただきたいと思います。

(あくまで個人的意見です。深淵な神のみこころはわかりません。)

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二代王様のみことば  2020.2.12  

うちのパスタクック牧師は本当に有難い方だ。
牧師が私たちの教会に近くなる時、教会を利用しようとしたが「私が日本を巡回するからいいホテルを準備しなさい良い食事を準備しなさい」このようにした。平和大使何々、こういう偽りの牧師がこのようにしたではないか、お父様に対して。
しかしパスタクック牧師は銃器所有する牧師なので責任感が強い。

飛行機代を出そうと言ったところ「違う自分がファンタレイジングする。飛行機代は自分でキリスト教のネットワークを通して日本と韓国から宣教活動の募金を集める」と言って、自分の飛行機チケットも買って、53%集めた。自分もキリスト教徒が献金して4000ドル募金した。
日本や色々な聖殿に負担をかけてはいけない、食口の家に泊まると言っている。これがどれほどいうことか。こういう牧師が本当の牧師だ。

お父様が2代王を世界会長にした時、日本に行く度に教会に泊まったではないか。高いホテルに泊まらず高い食堂に行かず。
小さな教会でもシャワー室の無いトイレで体を洗い、食口と一緒に寝泊まりした。祈祷室で寝た。
日本のどこか田舎の一番小さな教会に行ったのも覚えている。都市より田舎の方が好きだ。鳥取教会?

パスタクック牧師も、そのようないい例を見せてくれた。
自分が食口たちに負担をかけずにそこに行って福音を伝播する、3000人の仏教徒、神道たち、無宗教の人を伝道したいという気持ちで、クリスチャンコミュニティで募金をして2~3週間、3月に行かれる。本当にいいことだ。

このような銃器所有の牧師たちは出来ることが多いので戦えるし、悪い奴を殺すことも知ってるし、パスタクック牧師も民兵隊の隊長だったし、専門料理師だ。
本人が12歳の時キムチを初めて食べてその美味しさに魅了されそれ以来韓国料理にはまってしまった。12歳の白人の子供がそれは驚きではないか? 

そのキムチがどこから出てきたのか調べたところ、自分のお父さんが、多分お父様がマジソンスクエアガーデンで大会されたとき、自分のお父さんがそこに行ったそうだ。自分のお父さんが行ってお父様に会った。保守だから。そうしたところある韓国人がお父さんにキムチをくれたそうだ。

そのキムチを12歳のパスタクック牧師が食べて、一生涯韓国食を愛するようになり、韓国に行って宣教したい気持ち、北韓に行って宣教したいという思いを神様がその時から植え付けられた。

そして60歳のおじいさんになって、お父様の後継者、代身者、相続者に会うようになって、二代王に侍るようになり、カインとアベルに出会い、再び真のお父様に出会うようになった。(拍手)これは驚くべきことではないか?12歳の白人の子供がキムチを食べること。これは確率では言い表せない。不可能な内容だ。 
これはすべて神様の御心だ。
一体どうやって自分のお父さんが持ってきたキムチが、真のお父様の大会からきたキムチなのか。
そうしながら自分が60歳になった時、ぴったりと自分の村ペンシルベニアにお父様の三代王権カインとアベルが来た。これはあり得ないことだ。神様は驚くべき方です。アジュ(アジュ) (拍手)

それで、これについて、パスタクック牧師がこれについて話された。
マタイによる福音書28章18節に行ってみよう。

この帽子(弾丸王冠)が重い頭を締め付ける。(笑い)この子たちがよ喜ぶ、このような王冠をつけると礼拝が早く終わるから、頭痛が起きるから。(笑い)何も言わないが笑いながら嬉しがってるではないか。(笑い)
1:55:18 ここから翻訳minion
さぁ18章 、
ヨナ王妃「マタイによる福音書28章18節です。一緒に読みます。」

マタイによる福音書28章18節
28:18イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
28:19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
28:20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。


「いつもあなたがたと共にいるのである」おーアジュ

ワォ!何ですって?「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」わあ!驚きです。

ですからここで、父、息子、聖霊の名によって何ですか?バプテスマを施し、ですから、パスター・クック牧師は日本に行って洗礼を行います。ですから、食口はそこに行くなら自分の外の友達を連れてくれば良いです。友達を連れてきて、友達も父と息子と聖霊の名によって洗礼を受けることが出来るように。

500名が使徒パウロの使徒行伝2章で3000名に、聖霊の役事を通して伝道の役事が起こります。(拍手)そうですね?ですから、パスター・クック牧師はそのような希望とそのような願いと信念で、縁で飛んでいくのです。日本に向かって。(笑い)

結局、そのような驚くべき神様の愛です。すべての何ですか?全ての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、全ての国民を、全てのコミュニティを通して、私たちは試合と戦いの内容に行って、ブラジル柔術のコミュニティにいる人達が徐々に天一国文化を分かるようになるのです。
(翻訳をしていただいた心のサンクチュアリ教会教会長に感謝します)




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