なぜ「原理」というのか

私は18歳の時、原理を聞きました。
今でもその感動は忘れることができません。そして、一番に何を思ったかというと、この原理を語る講師は月給を100万円以上はもらっているんではないかと思わされたことでした。
ちなみにその当時、私は就職していて月給は5万8千円でした。とにかくその原理講義の素晴らしさと語る講師の姿に憧れた記憶が今も強く残っています。
以前、中部エリアで末端組織の責任者をやっているとき、中部で30ぐらいある中で最下位の部署を担当することとなりました。
そこで私は全体に朝の一時間、毎日原理講義をして出発するようにしたところ、最下位だった部署が最高位になったことがあります。
方法論を講義したのではなく、真のお父様の原理を伝えるだけでシックは力を発揮して最高の実績を挙げるようになりました。
真のお父様が勝ち取られた原理のみことばには、無限の神様の愛と力が宿っていて、あらゆる課題を勝利する根本的な方策であると思っています。
そのほかにも、原理講義をすればするほど組織は発展するということを幾度も体験しています。
真のお父様のみことば
皆さん、なぜ「原理」というのか、考えたことがありますか。この原理はいったいどういう原理なのでしょうか。これがはっきりしないと堕落人間の帰るべき復帰路程が分からないのです。内容がはっきりしなければ、復帰路程、摂理程路に対しての概念が不完全なのです。
「原理原則」の道は、踏んでいく道であって、飛び越えていく道ではありません。間違いなく、原則どおりに踏んでいく道なのです。その原理原則の道をおじいさんが踏んでいった場合には、自分も、孫も、何千万代の後孫までも、同じように踏んでいかなければなりません。そこには、プラスするとか、いい加減とかいうことはあり得ないのです。このように、原理の道は踏んでいく道です。それは神様も、先生も同じなのです。融通はありません。妥協がないのです。「絶対」に対して、それは絶対に相応する基準なのです。これがはっきりしないので、教会から離れたりすることになるのです。
では、神の摂理は何によってなされるかというと、原理によってなされるのです。原理過程を完成するために、摂理があるのです。これをはっきりさせなければなりません。先生は遠からずして韓国に帰るので、その前に、このことだけははっきり教えなければならないのです。
皆さんは、既に間接主管圏とはどういうものか知っていますね。原理結果主管圏とも言いますが、人間はこの過程を通過しなければならないのです。これは、神様が人間を創造した時の原則なのです。原理結果主管圏を通過して、直接主管圏に到達する過程は三段階になっており、人間でいえば二〇数になっています。神様はなぜこういう期間を許したのでしょうか。直接主管すればよいのに、なぜ間接主管にしたのかというと、それは人間の責任分担のためなのです。神様はなぜ人間の責任分担をつくったのかというと、人間が絶対なる神の創造物として存在するだけではなく、自分なりに創造主に該当すべき、比例すべき条件を立てるためです。
本来、人間完成は、神の創造と自らの責任分担を合わせて完成するようになっているのです。それはなぜかというと、いかなる被造物にもない、人間としての特権であるといわれる権限を与えられているからです。この権限を確立しなければ、神様の前に立つ資格がないのです。ですから人間は、責任分担を果たして完成しなければなりません。 1985.12.8なぜ原理というのか
原理本体論に対しての真のお父様のみことば
ですから、この本も、『原理解説』、その次に『原理講論』です。教えることのできる教材です。その次に何ですか? 「原理原本論」、「原理本体論」です。父母様が生きたそれ自体をそっくりそのまま、うり二つに似せて、自分たちが写真のようになり、こちらから見ても、下から見ても、あちらから見ても統一教会の文先生に似ていて、神様が見ても「いやあ、このように統一教会の文教主に似ているのか」と言われるようにならなければなりません。それが「本体論」です。「原理本(体)論」が出てこなければなりません。
「本論」ではありません。実体が一体となった「原理一体論」、「本体論」が出てこなければならないというのです。神様の「本体論」があるではないですか。思想界において神様の「本体論」が出てきます。根本に関することが出てくるというのです。
何も分からない群れたちが、天の国に行って王権を相続し、おじいさんを伝道することのできるおばあさんになることができていないというのです。そして、お母さんになることができていません。そして、妻になることができていません。兄と弟になることができていません。
このすべてが「講論」から来たものであるとすれば、「本体論」、「原理本(体)論」では、先生を中心として、(先生の)人生がそっくりそのまま「原理本体論」であるということを知らなければなりません。 2008.8.31 原理本体論について
今日は土曜日、午後から定例的な原理本体論の講義をsanc大分教会で行いました。参加者は4名でした。
原理講論を骨子として天聖経のお父様のみとばを引用しながら、真のお父様の実体を証することができて、本当に霊界もともに参加し、喜んでいることを実感する時間でした。また青年が一人参加してくれたことで大きな希望を感じています。
原理本体論講義は真のお父様の実体と一体化することができ、神様からの強烈な応援体制がつくられることを確信しています。
原理本体論講義をはやく、普遍化、平準化できるようにしたいと思っています。
今の家庭連合は祈願書ライン、書写ラインとかで原理のみことばを軽視する傾向があります。ますますそうなると思います。
原理本体論を否定したがゆえに消滅することは確かです。
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