阿南信義

捨てられたイエス様のものを捜し立てる新婦となれ






真のお父様のみことば
一九五七年十月四日(金)前本部教会 (以南出監記念礼拝)

ヨハネの福音書一二章四四節-五〇節

44)イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、45)また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。46)わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。47)たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。

48)わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。49)わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。

50)わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。


 <祈祷>
 お父様、この間、私たちを保護されたアボジのまえに真に感謝し、特別なこの日は、私たちが記憶しなければならない日であることを知っております。
 愛なるお父様! 過ぎたこの日を記憶し、その時の真心と、その時の心情を回想して、今日の自身がどこに留まっているか、また過ぎ去った一週間の間、アボジのまえにどの程度の栄光を捧げたか、自ら反省することができるこの時間となることをお許し下さるようお父様、切に望み願います。

 多くの人々の中で、私たちをまず抱いて下さり、哀れな民族の中で私たちをまず捜し立てられたアボジのまえに、心から感謝し、不足なる私たちが負うべき責任が重大であることを知るようお許し下さることを、愛するお父様、切に望み願います。

 私たちが望む目標は、地上のいかなるものでもなく、私たちが勝ち取ることは、地上のいかなる欲望のためでもなく、天倫に結ばれたアボジの怨恨を解こうとするものであることを、お父様は知っておられますので、このようなみ旨を捨てて忘れてしまう者たちにならないよう導いて下さり、さらにアボジの勝利ののろしのまえに立ち、三千万民族をアボジの愛のまえに率いて越えてゆく子女たちになるよう、お許し下さることを、お父様、切に望み願います。

 そうして三千里半島がアボジの愛の懐に安らぐ園となるようお許し下さり、聖霊が臨在することができる園となるようお許し下さい。
 愛なるお父様! この日私たちはアボジのまえに、より近づくという心で集まりましたので、自身の不足なることをアボジのまえに、この時間悔い改め、自身が正しからぬすべてのことをアボジのまえに精算し、アボジの仰せられる命令の通り、アボジの許されるみ旨に順応してゆく息子・娘となるようお許し下さることを、愛するお父様、切に望み願います。

 今まで自分を中心にした何かがあるでしょうか? 自身を主張するために生きてきた、どんなものがあるでしょうか? もしもこのようなものが私たちにあったとしたなら、お父様この時間に精算して下さり、私たち自らがアボジのまえに主張するどんな条件も持ってはならないことを知るよう、お許し下さい。そうして私たちの持っているすべてのものをお父様に預け、たのみ望むこの時間になるようお許し下さり、ただアボジの許された恩賜と、アボジの運行される役事のみが現れるようにお許し下さることを、愛するお父様、切に望み願います。

 お父様、ここに集まった食口たちを一律的な恩賜によって、この時間主管して下さるよう、この夕べにも地方にひろがっている淋しい食口たちが、アボジのまえに膝まずき、国家の為に祈祷していることを知っていますから、お父様、彼らの心にも一律的な恩賜を共に下さり、愛の聖霊が彼らの明日を守って下さり、また喜びの恩賜がこの時間、彼らの心に充たされるようお許し下さい。

 愛のお父様、この場に参席できない食口たちもおり、試練と逆境の中に独り孤独をかこつ食口たちもおりますから、お父様、彼らをお守り下さい。
 今まで耐えてこられた心情、アボジの淋しい心情をアボジ、この一時に解いて下さり、私たちがアボジのまえに祭物を捧げる代わりに、アボジの実体の子女として現れることができるその一日が、どうかすぐに臨むようにお許し下さることを、愛するお父様、切に望み願います。

 この時間以後のすべての事柄をお父様にお任せしましたので、愛によって保護して下さり、私たちがアボジの愛を体恤することができる時間として導いて下さることを、切に望み願い、すべての御言を主の御名によってお捧げ申し上げました。


 <御言>
 今日この時間は皆さんに「捨てられたイエス様のものを捜し立てる新婦になれ」という題目で暫くの間、お話しします。
 この地の上で見捨てられたイエス

 人々が今まで信じてきたイエス様、また今この時代において多くの人々が歓迎し、キリストと呼び、主と呼んでいるイエス様はその時、地上に来られてそんな栄光を受けられなかったことを、皆さんはよく知っています。
 今日信じている我々自身は無論ですが、当時の人々の中にはイエス様が残していかれた御言を、天の御言として信じた人間がなく、その御言を自身の命を代身する御言として信じる人間が、まるでいなかったのです。

 このように地上に来られたイエス様でしたが、地上の人々からは歓迎されなかったのです。個人を代身して、彼を心から歓迎した人間が一人もなく、家庭を代身して、彼を歓迎した人間が一人もいなかったということを、皆さんは知らねばなりません。
 イエス様は三〇年の歳月を、ヨセフとマリアの家庭で生きたのですが、その家庭では誰もがイエス様が抱いているその心、イエス様が願っている所望、イエス様の生活とやるべき事が何であるかについて、無知であったのです。のみならず、イエス様がされた御言の深い意味を理解し、イエス様をキリストとして迎える者がいませんでした。むしろイエス様を不信して捨てる立場をとったのが、イエス様の家庭であったのです。

 家庭において捜し立てるべき摂理的使命があり、個人に対して捜し立てるべき使命があり、また生活を通して、仕事を通して捜し立てるべき使命が、イエス様にはあったのですが、その当時のユダヤ民族の中には、そんなイエス様の使命を自身の命と感じる人間が、一人もいなかったのです。

 イエス様が見て、聞いて、語り、行い、働くすべての生活が、無知な地上にあったとしても、その生は地上の人間たちの為に生きることのみではなく、人間が知らない新しい神のみ旨の為に生きたのでした。ですからこのような新しい天倫のみ旨の為に生きられたイエス様にはその如くに、人知れぬ背後の悲しみの言葉と、理念と行動と生活に現れていたということを、皆さんは知らねばなりません。

 またイエス様は家庭において、自身のみ旨を立てることができなかったので、社会を通して、あるいは教団を通して、自身のみ旨を知らしめることを願ったのです。しかしイエス様はユダヤ教のまえに、またイスラエル民族のまえに歓迎されず、捨てられたのです。このようにイエス様の一身が排斥されたのみならず、さらにはイエス様がされた御言も排斥され、イエス様の生活、イエス様がされようとされたその事が、すべて排斥されたことを、皆さんは知らねばなりません。

 それゆえ皆さんは、このように見捨てられたイエス様の心情、捨てられる時のその寂しさ、心に受ける苦痛がどれほど大きかったかを、推し量ってみなければなりません。もしもこのようなイエス様の苦痛を知らない者になったなら、皆さんは四〇〇〇年の歴史に責任を負ってきたイエス様の人生、その理念、その生活、その仕事と御言を知る者として、到底現れることはできません。

 今日我々はイエス様のこのような事情が現れている、聖書の御言を通して少しは知っているのですが、それも頭で知っているのです。また耳で聞いて知っている程度です。しかしそれでは駄目なのです。昔イスラエルのユダヤの民に対して、イエス様が御言を伝えられた時にも、それを耳で聞いて、頭で知っただけだったのです。このように実生活において皮膚で体恤しないで、耳で聞き、頭で知っただけでしたので、かえって彼らがイエス様をして、十字架の道に行かせるようになったのです。ですから御言を頭で知り、耳で聞いただけでは駄目だということを、皆さんははっきりと知らねばなりません。

 それでは、今日我々はどのようにしなければならないか? 聞く御言を頭で知ると同時に、心で知り、行動することを知らねばなりません。ところがその当時、イエス様が十字架の死の道を経て行かれる時まで、このように御言を頭で知ると同時に、心で知り、行動する人間が、一人も現れなかったのです。

 イスラエル民族、ユダヤ教、さらにはイエス様と三年の間も喜怒哀楽を共にして、ある誠心を注いで教えた弟子たちの中にも、そんな人間が一人も現れず、みな不信する立場になってしまったのです。このようにイエス様はある精誠を注いで教え、夢を通して神の事情を知らしめ、また神の摂理に無知であった彼らに「わたしを見た者は神を見た者」と語られ、強く目覚めさせようとしたのですが、当時のイエス様が愛された弟子たちは、このようなイエス様の背後の事情を、まるで知らなかったのです。聞いた言葉で、また見る眼で、知る頭ではなく、その御言を頭で悟り、心で感じ、体で行う人間が、一人もいなかったのです。

 イエスの新婦の資格と使命
 それでは、歴史的な終末の時代を迎えている今日、我々の責任が何でしょうか? 失ったイエス様のすべての理念の回復し、この地上のすべての罪悪と闘い、勝利して天国の世界を建設し、イエス様を新郎として迎えられる新婦の資格を得なければなりません。

 これはイエス様の事情を聞いて知る程度でも、自分の頭で悟って知る程度でもなく、心で感じ、体で体恤できなければならないのです。
 それゆえ皆さんは、イエス様が語られた御言の中で、その当時の人々のまえにアボジのみ旨のすべてを打ち明けられなかった事情、天倫の秘密のすべてを明らかにして語れなかった、無限に苦しい心情があったということを、知らねばなりません。もしも皆さんが、このようなイエス様の事情と心情を知らなかったなら、イエス様の御言を本当に理解することができないのであり、その御言を立てるために生きたイエス様の生活も理解できないのであり、地上の万民を救援するために努力されたイエス様のその仕事も、理解できないのです。

 当時のイエス様の心情と、対する人間の心情には、無限の差異がありました。イエス様は自身の心のおく深く染みた御言を語ることができず、その無知な人々を目覚めさすための勧告の御言のみを語られたのです。
 それではその当時イエス様が語られた内容はどんな内容か。サタン世界、悪なる世界、怨讐たちの世の中で生きてはいても、天の子女になろうという者たちのまえに、勧告された御言であったのです。サタン世界で試みを受けることなく、勝利することができる方便を示す内容の御言であったのです。言い換えれば、イエス様は万民がサタン世界でイエス様の御言を守り、イエス様の心情を代身して生きる、そのような一つの足場を残して行かれたのです。

 それでイエス様は我々に対して、どんな最後の名詞を残されたかといえば「あなたたちはわたしの新婦」という御言です。当時イエス様は、このように愛する弟子たちに対しても直接的に語ることができず、後日を約束される立場で語る以外になかったのです。このようなイエス様の心情を、皆さんが知らねばなりません。

 天が任されたみ旨をおいて、イエス様が当時の弟子と、イスラエル民族と、ユダヤ教を愛する心には変わりがありませんでした。しかし無知な民衆、無知な教団、無知な弟子たちでしたから、イエス様はサタンと闘う先鋒者として、独りすべての弓矢を受けられ、彼らに生きる道を開拓してあげるために、受難の道を歩まれたのでした。即ち、ご自身の心のおく深くひそむ心情、天の新郎・新婦の理念を明かして語れる環境を持つことができなかった哀しいイエス様であったことを、今日皆さんははっきりと知らねばなりません。

 それでは、イエス様が行かれて、この地上の我々が喜びの一日を迎えることができる希望の標的として「あなたがたはわたしの新婦」という御言を語られたのですが、今日この新婦の理念はどうなったのか。今だに数千年の歴史過程を経てきて、サタンとの凄まじい闘いに勝利し、このようなイエス様の新婦の立場に立つ者がいないのです。それゆえ皆さんは、二〇〇〇年前に天を代表して選ばれたイスラエルが立てず、愛する弟子たちが立てなかった、イエス様が願う新婦の理念を代って立てなければならず、皆さん自らイエス様の心情に接することを知る人間にならねばなりません。

 それではイエス様の御言は、どんな立場で語られた御言か? 新婦の理念を完成できなかった立場をおいて語られた御言なのです。彼の御言は新郎の立場で、信じる人々が本当の新婦の資格を得て、イエス様の懇切なる事情に通じるために残しておかれた御言であったのです。ですから今日の皆さんは、イエス様がなされた御言の真の意味を解し、イエス様が願った新婦となり、新郎の御言によって立たなければならず、また当時イエス様が感じられた内的な心情を、体恤する場までゆかねばなりません。もしもこのような場までゆく者がなかったら、イエス様が三〇余年の人生路程にわたって語られた、その御言の目的は果たされないということを、皆さんは知らねばなりません。


よろしければクリックを。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村
スポンサーサイト



阿南信義
Posted by阿南信義

Comments 0

There are no comments yet.