阿南信義

イエス様の真の食口となる

東京での二代王様をお迎えしての特別礼拝に参加して、瞬く間に1週間が過ぎました。二代王様が語られたみことばで強く残っている内容は「クリスチャン伝道」ということです。
天の摂理に焦点を合わせることが最も重要なことと思い礼拝を準備しました。





真のお父様のみことば 「イエスの真の食口となろう」1957年10月18日

この御言をイエス様自身に照らして推察してみるとき、イエス様には当時どこにもお互いの心情を交わし合う、一人の親友もなかったということを知るのです。また国はあってもその国は自分の国ではなく、選ばれた民族があってもその民族が自分の民族ではなく、立てられた教会があってもこの教会が自分の教会ではなかったのです。自分を育てた家庭があってもその家庭が自分の家庭ではなく、自分と同居する兄弟があってもその兄弟が自分の兄弟ではなかったのです。


 ですからこの御言をなされたその瞬間は、天を代身して歩んだ自身の事情をそのまま、この地上の弟子たちに受け継がせるための瞬間であったことを、皆さんは知らねばなりません。
 また皆さんが知るべきことは「誰がキリストの真の食口になるだろうか」ということがイエス様が今日、皆さんに問うている内容であるのです。
 地上に数多くの国があり、数多くの民族があり、数多くの家庭があり、数多くの人間がいたとしても、その中でイエス様の真の食口はいないのです。


 それでは、イエス様が愛する弟子たちを、怨讐の懐に送られる目的が何であったのか。彼らを通してある教団を造るためではなく、彼らを通して選ばれたイスラエルの民を立てて国を造るためではなかったのです。まず愛する弟子たちを送り、天が喜ぶ食口、天のみ旨の通りに生活する天の真の食口を、求めようとされたのです。ですから、誰がキリストの食口になるかということが最も重要であることを、肝に銘じてください。


 それでは、今イエス・キリストのまえに真の食口になるべき我々は、どうしなければならないか。皆さんは神のまえに現れた真の個人である独り子、即ち天の家庭に初めて現れた天の息子であるイエス様を、自身の生活圏内で侍って生きるイエス様の食口にならねばなりません。
 こうして神のまえに、天の家庭圏内に第一人者として立てられたイエス・キリストの人生、即ちアボジの息子として、アボジの家で生きることができる基準を付与されたイエスキリストの生活が、正に我々の生活にならなければならないのです。


当時イエス様がこの地上に来られて、安らかに休める環境を造ってあげる真の食口を得られなかったことが歴史的な怨恨であり、今日終わりの日に皆さんが、このようなイエス様の心情を慰めてあげ、解いてあげるイエス様の真の食口にならねばならないのです。イエス様を自分の兄のように、兄さんのように家庭で侍って生きて、その方の悲しみを自分の悲しみとし、その方の切なさを自分の切なさとして感じ、彼を慰めることができ、その方の心配を自分の心配とし、代わって案じてあげることができる心情を持たなければなりません。もしも皆さんがこのような心情を持てなかったら、皆さんはイエス様の真の食口になることはできません。これを皆さんは、肝に銘じてください。


 それで、今日まで数多くの聖徒たちはこのようなイエス様の為に証して、イエス様の為に闘い、イエス様の為に死んでいったのです。それゆえ今日、皆さんも復帰のみ旨を完成して行く過程において、皆さんを証してくれ、皆さんの為に闘ってくれ、死ぬことができる食口を持たねばなりません。もしも皆さんがこのような食口を持たなかったなら、天地のまえに怨讐の立場になるということを、知らねばなりません。


 イエス様が地上に来られ、逝かれるようになった原因がどこにあったのか。ご自身の為に死ぬことのできる人間がいなかったからです。イエス様が地上において闘うようになった原因がどこにあったのか。ご自身の為に闘ってくれる人間がいなかったからです。またイエス様が自らを証しする原因がどこにあったのか。ご自身を証してくれる人間がいなかったからです。




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阿南信義
Posted by阿南信義

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キム フジオ

イエスの兄弟、イエスの新婦

私は、「イエスの友となろう」というアボニムの御言葉を知って、そうなろうと思うのですが、しかし、康オモニはそんなアボニムの御言葉が出る以前から、すでにイエス様を愛する心情を持たれていました。当時、一般のクリスチャンにはそんな人が多かったと思いますが、アボニムは本来はそんな人を対象に伝道されたかったのでしょうね。

📖康賢實(カンヒョンシル)自敍傳(自叙伝)
https://yuun0726.muragon.com/entry/231.html

「私は聖書を生命視しその御言葉に従って正しく生きようと歯を食いしばって生活をしていました。そうしながら心の中では、「再び来ると約束された主はいつ来られるのだろうか?」という思いが火のように起こりました。

私はイエス様を本当に愛していたので、イエス様も私を必然的に愛して下さると信じました。その信仰は本当に絶対的でした。イエス様が来られる時が近づいたと考えたので、より心が懇切になりました。西暦2000年になる前に来られると聞いていたので、今、来られる時になったという思いになりました。月の明るい夜には縁側に座って月を見つめながら、「主よ、私は本当にあなたを愛します。私が愛するのと同じようにイエス様も私を愛されるでしょう?来られたら誰よりも一番最初に私に会って下さらないといけません。私に一番最初に会って下さると信じています」と祈祷しました。

そして神学校の授業が終われば路傍伝道をしました。普通の信者のようにある形式とかやり方に縛られて伝道するのではなく、私の血と肉と骨の中から湧き出る心情で叫びました。イエス様の事情と心情を体恤(たいじゅつ)した私は、「私が二千年前に生きておられたイエス様に慰労と所望(しょもう)の対象になるはずだから…」と、胸の中から痛哭(つうこく)の思いが湧き上がりました。「イエス様、私は不足ですが、私にはイエス様の切ない血が流れています。この地上に人類を救おうとする御旨が生きています」と叫びました。

当時は、主に会うためにいつも内的にも外的にも準備をしなければならないという考えが切実でした。イエス様が新郎として来られると言われたので、新婦の装いをしなければならない、内的にも外的にもイエス様を迎える準備をしながら暮らさなければならないという思いが心いっぱいに満ちていました。」

2023/03/02 (Thu) 06:56