イエス様の真の食口となる
天の摂理に焦点を合わせることが最も重要なことと思い礼拝を準備しました。
真のお父様のみことば 「イエスの真の食口となろう」1957年10月18日
この御言をイエス様自身に照らして推察してみるとき、イエス様には当時どこにもお互いの心情を交わし合う、一人の親友もなかったということを知るのです。また国はあってもその国は自分の国ではなく、選ばれた民族があってもその民族が自分の民族ではなく、立てられた教会があってもこの教会が自分の教会ではなかったのです。自分を育てた家庭があってもその家庭が自分の家庭ではなく、自分と同居する兄弟があってもその兄弟が自分の兄弟ではなかったのです。
ですからこの御言をなされたその瞬間は、天を代身して歩んだ自身の事情をそのまま、この地上の弟子たちに受け継がせるための瞬間であったことを、皆さんは知らねばなりません。
また皆さんが知るべきことは「誰がキリストの真の食口になるだろうか」ということがイエス様が今日、皆さんに問うている内容であるのです。
地上に数多くの国があり、数多くの民族があり、数多くの家庭があり、数多くの人間がいたとしても、その中でイエス様の真の食口はいないのです。
それでは、イエス様が愛する弟子たちを、怨讐の懐に送られる目的が何であったのか。彼らを通してある教団を造るためではなく、彼らを通して選ばれたイスラエルの民を立てて国を造るためではなかったのです。まず愛する弟子たちを送り、天が喜ぶ食口、天のみ旨の通りに生活する天の真の食口を、求めようとされたのです。ですから、誰がキリストの食口になるかということが最も重要であることを、肝に銘じてください。
それでは、今イエス・キリストのまえに真の食口になるべき我々は、どうしなければならないか。皆さんは神のまえに現れた真の個人である独り子、即ち天の家庭に初めて現れた天の息子であるイエス様を、自身の生活圏内で侍って生きるイエス様の食口にならねばなりません。
こうして神のまえに、天の家庭圏内に第一人者として立てられたイエス・キリストの人生、即ちアボジの息子として、アボジの家で生きることができる基準を付与されたイエスキリストの生活が、正に我々の生活にならなければならないのです。
当時イエス様がこの地上に来られて、安らかに休める環境を造ってあげる真の食口を得られなかったことが歴史的な怨恨であり、今日終わりの日に皆さんが、このようなイエス様の心情を慰めてあげ、解いてあげるイエス様の真の食口にならねばならないのです。イエス様を自分の兄のように、兄さんのように家庭で侍って生きて、その方の悲しみを自分の悲しみとし、その方の切なさを自分の切なさとして感じ、彼を慰めることができ、その方の心配を自分の心配とし、代わって案じてあげることができる心情を持たなければなりません。もしも皆さんがこのような心情を持てなかったら、皆さんはイエス様の真の食口になることはできません。これを皆さんは、肝に銘じてください。
それで、今日まで数多くの聖徒たちはこのようなイエス様の為に証して、イエス様の為に闘い、イエス様の為に死んでいったのです。それゆえ今日、皆さんも復帰のみ旨を完成して行く過程において、皆さんを証してくれ、皆さんの為に闘ってくれ、死ぬことができる食口を持たねばなりません。もしも皆さんがこのような食口を持たなかったなら、天地のまえに怨讐の立場になるということを、知らねばなりません。
イエス様が地上に来られ、逝かれるようになった原因がどこにあったのか。ご自身の為に死ぬことのできる人間がいなかったからです。イエス様が地上において闘うようになった原因がどこにあったのか。ご自身の為に闘ってくれる人間がいなかったからです。またイエス様が自らを証しする原因がどこにあったのか。ご自身を証してくれる人間がいなかったからです。
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