阿南信義

メシヤのための基台を立てる目的

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メシアのための基台を立てる目的

真のお父様のみことば 1971年8月28日



 我々の原理では、信仰基台を立てた土台の上で、実体基台を立てなければならないと言っています。そして、実体基台を立てるようになれば、メシアのための基台が立てられるようになるのです。

 それでは、メシアのための基台を立てるのは何故でしょうか。私が初めて真なる位置を探し求めるためであり、体と心が一つになりうる起源を迎えるためであり、分かれてしまった天地が統一されうる起源を探し求めるためです。ここで、すべてのことが決定されるのです。

 私個人が完成できなかった歴史的な恨みを解き所願成就するために、神様がなしえなかった摂理の御旨を成就させるために、失われた歴史を探すために闘っている現代で、勝利を固く誓うために、暗澹たる未来を希望の未来に変えさせるために必要なのです。このようなことは全部、メシアを中心として、新しい出発をすることができるのです。その出発の基点に置くことのできるものは、一人の人によって決定されるのです。我々は一人の人によって始まる、そこに、一つとなることのできる道を探し求めなければなりません。

 そこで一つとなるためには、どうしなければならないのでしょうか。ここに、メシアという方がいます。(板書されながらお話しされる。) その方の体があり、その方の心があります。また、私の体があり、私の心があります。ここから見れば、メシアは神様と一つとなっています。その方はより強いプラスの立場に立った主体です。そのような主体の因縁によって、心と体があります。

 その心は強い心です。どれほど強いのでしょうか。世界人類の心を全部合わせたものよりも強いのです。その心がどれほど強いのでしょうか。この世界のすべての悪なる勢力が統合して攻撃しても、後退しないくらい強いのです。この世のどのような力を持って占領しようとしても、占領できないほど強いのです。メシアの心は、そのようなプラス的な内容を持っているのです。

 それでは、その心を中心として、体はどのようになっているのでしょうか。相反する立場にあるのではなく、一つとなりうる立場にあるのです。いつでも一つとなっています。心と体が完全に一つとなることによって、新しい私が成立するのです。そうなれば、皆さんは初めて「私」という人格が造成されるのです。心と体、この二つが一つになったとき、新しい「私」が形成されるのです。すべての事物は、このような内容を中心として発展するのです。

 より大きなものが生じるためには、小さなプラスとマイナスが兼ね合い、その二つが一つの価値をなし、プラス的形態を整えなければなりません。そのようになるとき、また他の相対的マイナス的形態と一つとなって大きく発展していくのです。このように見るとき、目的を否定しては発展がありえないのです。ここから、弁証法的唯物論が壊れていくのです。

 このように見るとき、メシアの体と心は一つになっています。ところが、我々人間を見ると、元来、人間の体と心が一つとならなければならないのに、どのようになっているのかといえば、これがメシアとは違って、逆さまになったのです。堕落した人間なので、体がプラスとなったのです。心が体に負けてしまったのです。「それは違う。私の心はいつも体に勝つ」と言う人がいれば、手を挙げてみなさい。ここに問題点があるのです。今まで、この体が主体となって心を引っ張ってきました。そのために戦争があり、闘争があるのです。

 本来は心がプラスであるにもかかわらず、体がまたほかのプラスのような主体的な立場で、今まで心を引っ張ってきたのです。このようなところには、戦争が止むことがないのです。プラスとプラスは相反するのです。和合をすることのできる道がないのです。それ故に、問題となるのです。復帰しようというのは、心に強いプラス的な主体性を与えようということです。そうして、体がマイナスとなるときは正常な人間になるのです。

 ですから、これを替えなければなりません。あなたは私となり、私はあなたとならなければなりません。心と体が一つとならなければなりません。体が動機となってはなりません。心を中心として、私があなたになり、あなたが私にならなければなりません。ところが、今までは、そのようになりえませんでした。

 それでは、心と体を一つにするためには、どのようにしなければならないのでしょうか。体を弱化させなければなりません。それで、宗教はこのような教理を主張しているのです。宗教は心を強くし、体を弱くする作戦をするのです。この二つの作戦をするのです。万一、摂理過程にこのような歴史路程がなければ、神様はおられると言うことができません。堕落した人間を神様が救済しようとされる歴史的な証拠としての実体が宗教なのです。

 宗教の教えは、「心を中心として体を打て」と言います。それでは、体を打って何をするのでしょうか。心を主体に立てるのです。心が主体にならなければならないのです。それでその主体を中心として体が一つとなっても、これがプラスとなるのではありません。来られる主と一つとならなければなりません。そうして、主がプラスとなり、人間がマイナスとなって接するのです。これが皆さんが言う、「メシアのための基台」なのです。「メシアのための基台」は、そのようにして成されるようになっています。






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