阿南信義

神人思想の完成

清平の開拓4
天宙清平の建設現場



神人思想の完成


真のご父母様のみことば



1990年月19日

 きょうお話しするみ言の題目は、「神人思想の完成」です。神様と人の思想の完成ということです。

宇宙の根本
 一つの「思想」になるには、体系的な内容をもった観を備えなければなりません。個人思想とか民族思想とか世界思想とか、あるいはこのごろの宇宙思想などを挙げてみると、その概念が漠然と離れているのではなく、個人と社会と国家と世界は連関性をもっているのです。このように体系的な関連性をもった一つの観をもつようになるとき、「思想」と言います。

 学者たちは今まで、神様に対しては大慨関心をもってきませんでした。大多数の学者は、帰納的な方法を通して原因を追求する学問的研究をしているために、神様を認めるということは極めて難しいことです。研究していけばいくほど、それが確実になるのではなく、あいまいになるのです。物質界あるいは実存性を認めて探求するのでなく、観念や考える中で認識を通して認めなければならないので、これは最も難しいといえば難しい問題だといえます。

 しかし、宗教人は違います。宗教人は反対に、演繹的方法を通して「神様は存在する」と認め、それを中心としてすべてを観察して解決していくのです。

 ではこの宇宙の根本に入っていき、神様が存在するならば、神様はどのように存在しているのかというのです。こういう根本的なことが問題になるのです。人間は人格をもっています。知情意をもった価値的基盤の上に人格が構成されています。それでは、その神様自体も私たち人間と何らかの関係があるとすれば、必ず知情意の人格的な神様であるに違いありません。このような原因的な存在であることを、私たちは認めざるを得ません。
 ここで神様のもつ思想と人間の思想が二つでなく、分離できない一つのものとして帰結しなければなりません。そうしてこそ、人間世界の理想実現が可能であるだろうし、また神様自体が人間を通して追求しようとするその目的も完結するのです。


神様に絶対的に必要なもの
 今日の既成教会の信仰者は、「神様は公義の審判主である」と考えています。では本質的で理想的なその道を探していくのに、公義の審判主としての権力を行使しながら暮らすことが神様の願うことでしょうか。違います。究極に行って、絶対的な神様自体も絶対屈服できるその何かがあるとすればどれほどうれしいでしょうか。そのように考えるようになります。絶対的な神様自体も絶対的に屈服でき、絶対的に好むことのできる何かがあるというときは、神様自身もどれほどうれしいだろうかというのです。

 自分の現在の立場を固着させるのではなく、移動し、ついていきながら、そこに和合しながら自分自身を同化させようとする、そのようにできる面がなければ、神様自身は作用できません。何かを行使するためには、神様自体も喜べるものがなければならないのです。絶対的に好むことのできるものがあって、それと共にやりとりできるところにおいてのみ喜びを感じられるのです。一人では駄目なのです。

 このように考えてみると、神様自体が極めて喜べる絶対的なものがあるとすれば、それは何でしょうか。正に愛なのです。神様にも真の愛が必要です。


神様と愛
 では、神様自体は私たち人間のように耳、目、口、鼻を備えたそのような方でしょうか。それは、私たちがそうだと認めることができます。なぜでしょうか。私たちは第一の存在ではなくて、第二の存在です。第一の存在は原因的存在で、私たちは結果的存在なのですが、結果的存在の私たちが五官をもっているので、神様自体も私たちには測定できないけれど、五官的内容をもっていると見るのです。

 このように考えてみると、神様自体が絶対好むことのできるものが愛ならば、原因的存在が絶対好むことが愛ならば、人間自体も愛を中心として絶対好むことができるそのような気質がなければなりません。そうしてこそ神様と人間の関係において、作用や統合、あるいは融合が起こり得るというのです。そうすると、神様も御自身を中心として絶対的主体になることよりも、神様自体が絶対視できる一つの主体を探そうとするのです。それは何でしょうか。それは絶対的な愛です。

 神様自体も私たち人間と同様に良心があり、体があります。では神様自体において、体と心が何によって一つになるのでしょうか。物質を中心として、お金が恋しくて一つになるのでしょうか。知識が恋しくて一つになるのでしょうか。そのようなものは理想になれません。

 神様自体の体と心が完全統一を成し遂げることができるという時は、それは絶対的な主体性をもったということです。絶対者、神様なるその方も絶対視できる、価値ある内容を中心として一つになるようになれば、それは何でしょうか。絶対的な神様の体と心自体もそこに順応できる内容とは、正に愛です。愛を中心として体と心が一つになるというのです。

 では、皆さんが五官をもっているように、神様も五官をもっているならば、その五官で何をするのでしょうか。愛を探していくのです。絶対的に愛することのできる愛の対象があれば、神様の目は完全に覚まされるでしょう。完全に幸福な目になるでしょう。また、そのようになれば、聞くことも最高の理想的なことになるでしょうし、においをかいだり、味を見たり、触ってみる触感などというすべての五官が理想的なものになるでしょう。

 神様の五官が絶対的に統一されるその基準は、真の愛です。真の愛があるという時は、神様の目がそこに集中し、神様の臭覚、神様の聴覚、神様の味覚、神様の触覚など全部がそこに集約されるのです。神様自体も愛を絶対視したい心があるというのです。神様自体も永遠に絶対的な愛に仕えて、愛と共に暮らしたいという概念がないときは、暮らす楽しみがないのです。

 このように考えてみると、原因的存在である神様も結果的存在である私たち人間と同様に体と心があるのですが、その体と心の統一は真の愛によってなされるというのです。体と心が一つになったその喜びは、私たちの外的五官の喜びを増してくれるでしょう。また内的な五官があるならば、内的な五官の喜びを満たしてくれる要素にもなるのです。


神様の理想
 では神様の理想とは何でしょうか。愛を中心として統一された、体と心が喜べる絶対的な立場、絶対的な理想を追求することです。
 愛というものは一人ではできません。必ず相手がなければなりません。神様にとってその相手が、正に人間なのです。現代の神学思想においては、創造主は神聖なものから出発し、被造物は俗なるものから出発したと見ています。しかし、そのように見てはいけません。神様が人間を造る時、いたずらで造ったのではありません。深刻に、自らのすべての精力をみな投入したというのです。

 このように考えてみると、被造物をなぜ造ったのかというとき、根本に行って愛ゆえに造ったというのです。愛の完成のための展開体として、一つの母体を完成できる性稟を展開させたのと同じ構成体が被造世界です。
 鉱物世界もそうではないでしょうか。プラス・イオンとマイナス・イオンが一つになるには、ある原則があります。元素を中心として化学室で研究する人は、どんなに立派な教授だといっても、元素が合わないものはどんなに力を加え、どのようにしても一つにはできません。けれども、自然に相手になるときは、「一つになるな」と言っても自然に一つになるのです。


神様と人間が願う理想基準
 
 では、神様の願う最高の理想的基準は何でしょうか。愛を中心として相対理想を成し遂げることです。神様が万物を創造した時、その創造は何を基盤としたのでしょうか。神様自身が愛の主体だというのです。神様自身が生命の主体だというのです。それを肉では感じることができないけれども、皆さんが霊界に対する体験があれば分かるでしょう。神様自身も愛と生命と血統をもっているというのです。

 では神様の愛と神様の生命と神様の血統を一時に衝動させることができて、一時に激動させることができて、一時に最高に同化させることのできる力とは何なのかというと、権力でもなく知識でもありません。それは真の愛の力です。
 今日堕落した人間の世の中は、皆さんが御存じのように現世の何をもってしても収拾できません。主人がいないというのです。世の中は故障した世界です。その何かが誤っています。誤ったそこにも、その誤った中にも根源的な内容が一つ残っているというのです。それが何かといえば、父母の愛です。


真の愛とは
 神様が愛の主体ならば、その主体がもっている愛は相手のための愛です。今まで神様と人間の理想が実現されませんでした。それが現実の実践の場で実現していたなら、神様と対等な資格を備えた偉大な人物が出てきたでしょう。

 ところが今日、人間の世の中は、故障した世の中です。何かが間違っているというのです。その内容が何なのか今までは分かりませんでしたが、何かが間違ったのです。故障しましたが、根源的な一つ残った内容が何かといえば、父母が子のためになす愛なのです。これが人間世界において、天の世界と関係を結べる、残った最後の思想です。それが父母が子のためになす愛だというのです。父母が子を愛する愛は、無条件的な愛です。与えても与えても忘れてしまう愛、愛しても愛しても忘れてしまう愛、これが父母の愛なのです。そうではないですか。

 父母が子に対していつ何々を買ってあげたなどと手帳に書いておいて、総計を出し、子が成長してから利子をつけてもらおうと思いますか。そうはしません。自分のすべてを投入するのです。体と心を投入しても惜しくありません。自分のすべてをそこに投入しても惜しくないというのです。

 そういう力がどこから来たかというのです。根源的な内容にそのような力がなければ、出てくることはないのです。それが一世代だけではありません。数千、数万世代の人類歴史を経てきながらも変わらない愛の作用が続いてきたのです。そのようにしてきた動機の存在が、正に神様なのです。

 その愛が真の愛です。人間世界で見つけることのできる、父母が息子のために本当に愛する、その愛です。それは与えて忘れてしまう愛です。千回、万回与えても忘れてしまう愛です。投入してもまた投入したいのです。それゆえ、青少年が思春期時代に愛する相手に会うようになれば、自分の全部をあげてもまたあげたいのです。すべてはたいてあげても、また与えたいのです。根源的な愛が芽生えるようになれば、そのような作用をするようになるのです。

 そのような作用が人間の世の中に根としてまだ消えないで残っているために、神様が天を訪ねていけるように磁石のように方向を悟らせるので、良心はいつもより善良で、より良く、より真実なことを追求するのです。本来の根源的なその作用が絶えずあるので、そのような作用が続くのです。

 このように考えてみると、神様が真の愛の対象としてすべての被造世界を造る時、その根本的な精神は神様御自身を一〇〇パーセント以上投入することでした。そのような精神的起源から、思想的起源から被造世界を造ったというのです。

 信仰者は祈る時、「天のお父様!」と言います。それは先祖の時から信じてきて、習慣的に言っている言葉ではありません。「お父様」という言葉は、血統が連結すると同時に生命が連結していて、愛が連結しているというのです。これはどの時代も同じです。数千、数万代が過ぎても、親子の関係には血統が連結していて、生命が連結していて、愛が連結しているのです。


神様の思想
 では、神様の思想とはいったい何でしょうか。神様は愛の主体であり、生命の主体であり、血統の主体なるお方です。神様が絶対的なお方であるがゆえに、私に伝授されたその愛も絶対的です。私に伝授された生命も、たった一つです。誰にも侵犯できません。神様が引き継がさせてくださった血統も、ただ一つです。宇宙全体と対応して対置できるこういう驚くべき一つの価値的内容を、自分自身がもっているというのです。愛の力がどれほど偉大かというのです。

 そして、皆さんの中にある生命は誰に似ていますか。全権的な神様に似ています。皆さんの中にある血統が誰に似ていますか。神様です。血統は神様の命の綱を調整できます。それゆえ皆さんが血を見れば、はっと驚くでしょう。それは根本からわき出てくる、ある源泉があるためです。
 では、人類始祖は、神様が喜べる男性と女性になりましたか。なれなかったというのです。私たちの人類始祖が神様の愛を受け継ぎ、神様の生命を受け継ぎ、神様の血統を受け継ぐべき親子関係の立場をなぜ失ってしまったのかというのです。これは深刻な問題です。
 
 創造自体は愛のためのものです。その愛自体は一〇〇パーセント、一〇〇〇パーセント投入しなければならないのです。知識の王としていらっしゃる神様が、理論的なすべての結果がどうであるということをみな打診できるその方が、天地創造の起源に対して人間がどんな論理で抗議し、反駁するだろうということを御存じである神様が、そこに引っ掛かるようになされたのでしょうか。

 知識の王なる神様は、創造当時に愛の対象を創造するために一〇〇パーセント、一二〇パーセントを投入しました。御自身のすべてを完全に投入なさいました。聖書では、「神様が言葉で創造された」と言うのですが、その話は骨と肉、すべての精髄を投入したということです。

 そのようにすることによって、神様は完全に高気圧的な立場に立っていて、完全に真空状態に、真空度何百度の真空状態に入っていくのです。その相手の前に最高の高気圧圏をつくってやろうというのです。すると循環運動をするようになります。二つが循環するには、中央を通じて循環しなければなりません。直線で運動しては、共存圏というものがなくなります。

 このように、神様は一〇〇パーセント以上投入したのです。それで真空状態になることによって、自然循環するのです。神様は、「私が絶対者だから、君たちは絶対的に服従しなさい!」と言う方ではありません。その愛の内容は、完全投入です。「ため」に生きるところから出発したのであって、「ため」に生きなさいというところからは出発しませんでした。この「ため」に生きなさいという概念を、誰がもってきたのかというのです。これが問題です。


宇宙の作用
 先生は今まで、どのようにして発展してきましたか。先生はサタンをよく知っています。皆さんはサタンが何か知らないでしょう。また、神様を誰よりも先生はよく知っています。歴史始まって以来神様を誰よりもよく知り、サタンを誰よりもよく知っている人は先生しかいません。サタンの秘密、神様の秘密をすべて知っています。誰かがこれを発見する前まで、人間世界には解放がありません。

 堕落しなければ、どのようになったのでしょうか。この体が神様の家です。コリント人への第一の手紙第三章を見れば、「あなたの体が聖殿になったことが分からないのか」というみ言があります。聖殿です。堕落していない本然の真の愛を通じて、心と体が完全に一つになり得るその立場に立ったなら、体と心が完全に共鳴するのです。共鳴、知っているでしょう。周波数が同じになれば、片方を鳴らすと他の片方も一緒に鳴る、共鳴体になるのです。

 この体が共鳴体になるのは、お金では駄目です。権力でも駄目です。知識でも駄目です。真の愛がなければなりません。真の愛は、鳴るようになれば永遠に共鳴するのです。それで釈迦は、「天上天下唯我独尊」と言いました。真の愛の境地に入ってみると、体と心が共鳴するその焦点の間に入っていくと、天地がみな見えるのです。その境地に入っていくと、一つの焦点の中で神様が一番奥にいらっしゃるというのです。


神人の理想完成の立場
 こうして四大宗教が統一宗教として連合すべき時であるにもかかわらず、自分の宗派を中心に流れていっています。これでは歴史性に対置する主体性をもてません。世界が一つになるべきなのに、闘ってもいいのかというのです。そのような意味で、先生が統一宗教を主張することは偉大な発言です。ですから、これらを合わせなければなりません。何を中心として合わせなければならないのでしょうか。本然の愛、本然の生命、本然の血筋を中心としてしなければなりません。

 それは誰の力でもってでしょうか。神様とアダムの力をもってです。神様の愛とアダムの真の愛、神様の真の生命とアダムの真の生命、神様の真の血統とアダムの真の血統を通して接ぎ木をすることで、すべて終わるのです。
 根は神様とアダムの根なのですが、ここに悪魔の根を入れたのです。ですから、それを切ってしまい、真の父母の本然の真の愛と、真の生命と、真の血統を中心とした枝を接ぎ木することによって、本然の世界の基準で和するのです。

 天地を見分けていける最後の人間として、「神人思想の完成」の立場を、何でもって手にできるのでしょうか。そうするには愛がなければならず、真の生命が汚されてはなりません。浮気をしてはならないのです。万世の人類に純潔な血筋を残し、神様の愛が垂直線で通じることのできる完成した個人、家庭、氏族、一国を夢見ながら成し遂げなければなりません。万国がそういう立場に立ってこそ、地上天国と天上天国の合徳時代が来るのです。

 それで各自の心の中に生活の中心の神様、すべての再創造に協助できる神様として侍ることができるように忠告するのです。「ため」に生きる愛においては統一的原理が展開します。アダムとエバが神様を互いに自分のものにしようとすればけんかが起こりますが、「私が神様をまず自分のものにしようとするのはあなたのためなのであり、私が家庭の貴いものを手にしようとするのは、私たち家庭のためなのである」と言うようになれば、睦まじくなるのです。同じなのです。

 皆さんが世界において、「この宇宙で一番貴いもの、真の愛、真の生命、真の血統を私たちがまず自分のものにしなければなりません。それらを私たちがまず手にするのは、世界のためにである」と言えば、世界の人がみな歓迎するというのです。「ため」に生きる愛を中心としてこそ、神様も統一点を合わせることができるのです。

 皆さんが国と世界を生かそうと一つになって「ため」に生きるようになれば、できないことがありません。ですから、「ため」に生きる皆さんになって、ぜひ皆さんの千万代の後孫を中心として、称賛を受けられる皆さんになることを繰り返しお願いしながらみ言を終わります。



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