阿南信義

模範を打ち立てるべき地上時代



真のご父母様のみことば 1971年10月17日




宇宙の所有権と主管圏は地上で決定される

 人がダイヤモンドを貴び、金銀宝石を貴び、すべてを貴んだとしても、一人では幸福にはなれません。ですから人をダイヤモンド以上に貴く思いなさいということです。そうしてこそ神様の理想的な呼吸に合うのです。
 その世界に一度行ってみたいですか。どんなにこの大宇宙の果てが遠くても、東の果てから西の果てまで、あっという間に往来できる素性をもっているのが人間であるゆえに、「万物之衆惟人最貴(注:万物の中で人が最も貴いの意)」というのです。

 そういう世界の所有権と活動舞台の権限と特権の基準を、地上のこの生涯で決定するのです。この地上で私が苦労すること、食べたいものを食べず、着たいものを着ず、したいことをせず、耐えることを拡大することで、その何百倍、何万倍、何億千万倍喜ぶことができ、食べることができ、着ることができ、生きることのできる舞台が一時に展開するのです。

 そのような本然の世界に、実験の責任者としてだけではなく、全体を管理する責任者として登場することのできる喜びの一日が、私たちの人生の道の終わりの日にあることを考えると、死の道が悲しいでしょうか。その代わりに、準備をしなければならないのです。ですから忙しいのです。その準備をどのようにするのですか。その方法を知らなければならないのです。

 世界において今この時代に、このような問題を中心として問題視している人は統一教会の文先生のほかにはいません。いくら著名な博士が多くても、神学博士が多くても、この問題に関しては統一教会の文先生から指導を受けなければならないのです。それは決定的です。また絶対的です。

 では、模範を立てなければならない地上時代において、どんな模範を立てなければならないのでしょうか。この国の歴史に名を残したところで、どうなりますか。一つの本然の原則的な世界を標準にして、そこに合格できるようになるのが重要なのです。そのすべてのケースの規格に合うようにするには、今日孝子の中の孝子にならねばならず、忠臣の中の忠臣にならねばならず、烈女の中の烈女にならねばならないという言葉が出てくるのです。

 ですから天国に行こうとするならば、悲惨に生き、悲惨に行けというのです。人のために命を捨てろというのです。自分のためではなく、人のために、世界のために、天下のために命を捨てろというのです。そうすれば、この天下が大宇宙の主人として立ててくれるのです。

 それで統一教会に来れば、地上で良い暮らしをしようとはしません。ひどい暮らしをして、ひどく苦労して死んで道端に倒れ、犬もくわえていかないような死骸を残したとしても、いつかその場には花の咲く一日が来るのです。そうして結局、そこにはすべての偉大な人々が集まり、都を造ることでしょう。
 それで統一教会員を国のために、世界のためにうんざりするほどの苦労をさせて、孝子、忠臣にしようというのが先生の考えです。

 それゆえ、み旨のために孝子、忠臣の道理を尽くしなさいというのです。聖書を見れば、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)というのが第一の戒めだとあります。その次に、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(同二二・三九)とあります。あなたの隣り人というのは誰のことでしょうか。世界万民が私の隣り人であり、私の兄弟です。ですから、この話は世界万民のために心を尽くし、思いを尽して、命を捧げなさいということです。命を捧げれば尽くしたことになります。

 そうです、み旨のために一度死んでみようということです。どこで死にますか。各自が自分の死ぬ所を探さなければならないのです。一つの爆弾として生まれたならば、爆破するときにはきれいに岩に落ちなさい。どぶに落ちるなということです。「私たちは弾丸のごとく打ち放たれた爆弾だ。岩の上に落ちよう!」というのです。こういう決心をしたがゆえに、今日統一教会の文先生の行くべき道は、いまだ遠いのです。躊躇することはできません。

 あすの願いの実現者となり、その世界を管理する責任を負う人のいない歴史上で、私がそれを眺めて精誠を尽くして涙を流し、それに対して努力と精誠を、熱と誠を尽くしてこの標準の前に合った一つの帰一点、その一点を求めなければなりません。そのために、生命を惜しみなく捨てる覚悟をして行こうというのが、統一教会の先生がもっている主流的な思想です。ここでは、冒険が内外に連結されています。また、無慈悲な決闘戦を展開しなければならない場面を通り過ぎるのです。

 生命を尽くして成しても死なずに残る基台になったとすれば、これは人類歴史に模範となり、万民の幸福の基調となることでしょう。全天下が、それを和動の基点として大運動を展開するための軸となり得る立場で、神様を動かして人類の願いの基台をすべて結束できる立場に立って、私が動けば動き、私が静ずれば静ずるという宇宙史的な責任感を感じながら生きる男であるとするならば、決して「小さな男」と言えないのではないでしょうか。

 そうして、行きたがらない道へと追い立てるのです。自分のために生まれたと考えているのに、「人のために死ね」と言うなんて、行きたがる人がどこにいるでしょうか。ですから追い立てるのです。この道が個人を超え、家庭を超え、宗族を超え、民族を超え、国家を超えて、旗を掲げて天下に新しい国をもつということのできるような時代圏にまで私たちは行くのです。

 神様はそれを準備するために、イエス様を送るために、イスラエル民族を選民としてユダヤ教を立て、四千年間準備しててきたのですが、その道が閉ざされてしまったがゆえに摂理が延長して、今日このキリスト教を中心として、これを再び訪ねてきたのです。ここで実質的な決定は統一教会がすべきであるので、統一教会は普通の教会ではありません。


 皆さんがこの途方もない宇宙を主管し得る模範の基準を、この短い地上の生涯路程で立てることができるのです。では、それはいつ立てるのでしょうか。先生もそのような深刻な生活を今でもしており、残る余生が尽きるまでするのです。それで私が死ぬ日、「どんな立場に倒れたとしても、私はこれ以上できません。お父様、私の誠と熱を尽くしました」と言うことができるのです。過去を振り返ると、「これ以上に、このようにすればよかった」というような思いを残したくないのです。いつでも深刻な立場で、生涯を確かめつつ歩んでいるのです。それゆえ、神様は私を愛するのです。

 私が涙することがあれば、霊界に通じる何も知らない人々に涙を流させ、私が苦痛な立場に立つことを案じて、思いもかけない人にその苦痛を分担させる事実を見て、「神様が私を離れているのではなくて、私のためにいらっしゃるのだ」と考えては、きょうもあすも感謝して、余生を大切に迎えようとするのが先生の人生観です。このような思想の前に、皆さんは自分勝手に生活をしてはなりません。天倫が願う歴史的な基準を中心として犠牲となり、霊界にいる私たちの先祖が、私があの世に行くときに隊列を備えて諸手を挙げて歓迎するか、讒訴するかという問題を考えると、聖賢君子が諸手を挙げて、「ようこそいらっしゃいました」と歓迎するその日のために、今準備する道を急がなければならないということを皆さんが知らなければなりません。

 皆さんも先生と同様に、この地上でそのような途方もない宇宙的な基盤を磨くべきことを知って、残る余生を真に価値あるものとして送らなければなりません。ですから年を取った人は、青春時代をただ逃してしまったことを恨めしく感じなければなりません。恨めしく感じなければならないのです。この体が汚されていない純潔な純情が燃え上がる思春期、若い青少年の時期をこのような立場で神様の前に立つことができず、正常な道を行けないということがどれほど恨めしいでしょうか。このようなことを考えれば、その道を行くことのできなかったこの体に賎待とむちが臨み、蔑視と苦役の道が臨んだとしても、それを当然のものとして受けなければならない運命の道と知って、厳粛についていくべき路程が統一教会の道であり、人生の道であるということを皆さんは知らなければなりません。 

それをみな犠牲にさせる恨みがあっても、模範を立てていくべきだというその基準が、鉄石のように残っているということを銘記して、皆さんは今後、どんな終結が結ばれるかを考えてみなければなりません。複雑多端な世界情勢の中で、国家の運命が動搖する国家情勢の中で、あすの願いとあすの希望を中心としたみ旨の前において、私はどんな道を行くべきかという問題を置いて、誰よりも深刻でなければならないのです。誰にでも与えて余りある心をもっていかずしては、正常なみ旨の軌道に乗っているとみなすことができない、ということを皆さんは知らなければなりません。






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