阿南信義

自分を信じよう

お父様狭山2



1972年4月真のお父様は日本に来られて、世界統一十字軍を結成されました。
1960年からの3次7年路程の長成期最後のときに、日本を復興させ、世界に向かうための摂理でした。

日本全国から600名のシックが集まって、真のお父様の直接主管の中での14日間の修練会が守山修練所で始まり、そこから全国に向けて伝道復興隊の十字軍が出発しました。

以下に紹介するみことばはその時のみ言です。
みことばは永遠であり、絶対的です。

真のお父様のみことば

自分を信じよう
1972年5月 守山修練所


 人を頼りとするな。あなた達がいかなる難しい事があったとしても人を頼りとしてそれを決めるんじゃなくして自分を頼りとせよ。自分を信じる人間となれ。特に信仰生活において、蕩減路程において、いつも問題になるのは、自分が自分を信ずることができない。だから自分が自分を信じられない者は、神自身が信じることができない。

 自分が自分を信ずるには、良心の指示する、命令する全てのことをなして、余りある人間にならなければいけない。人に頼ったり、人に何か望みをもって願ったりする、そういうような立場には完全蕩減復帰というものはありません。

 だから、蕩減の路程は、自分が自分と対決して、自分が自分を信ずるような立場に立って行く所に蕩減の道は生まれてくる。そういうふうに自分が自分を信ずるような結果は、個人より、家庭より、何段階まで発展させていくとううそれは、神様がいつでも共にいてくれる、それが問題である。

 だから、人に頼って、何か相談してやったということでは、神様がいつでも共にいてくれる、それが問題である。

 だから、人に頼って、何か相談してやったということでは蕩減の道は進展致しません。

 アベルというものは、神はいつも最後の直前に達する時には、いつも孤独な立場に立たせる。それが原則である。自分以外には何もありません。自分ただ一人である。原理はそうである。全ての所におおわれてたった一人しかありません、という所にそれは蕩減の結果が生まれてくる。

 だから、自分が自分を放棄してしまったら、地上の基台は完全になくなってしまうから自分が自分を信じられる立場で、いかなることがあってもその立場を譲ってしまうとか、人に頼ってしまうとか、こういうふうになった場合には、完全なる自分として越えるべき蕩減の道を越えることはできません。

 神に導かれている確信

 そういうような時がたつに従って、時が切迫してくるに従って、これ真剣な自分のものじゃないか。自分の本心と神のみ旨といつも対話するように祈る冥想の中にいつも神に導かれるその本筋道は必ず、自分に対して逃れずにやったならば、神は必ず、いかなる方法でもってしても教えてくれる。あるいは夢とか、あるいは人を通してでも、あるいは動物を通してでも、暗示作用してでもわかるようになっている。そういうような生活態度を体験していけば、それは間違いなく蕩減の道を辿って発展して行くことができる。これを忘れてはならないということをあなた達に言っておきたい。

 世の中もそうですよ。自分が大きい成功をするか、しないかという問題は、人と相談して決めていくんじゃない。真剣になって、自分が全ての生命をかけて自分の生涯をかけて、あるいは自分の家族一家の全ての運命をかけて、真剣なる立場に立って、そして決めて、成功した場場合には、それはその一家の成功になる。

 最後までこの道を行こう

 それと同じように蕩減の道は、絶対相談しては出来ない。なぜかというと堕落が相談の因縁によって堕落してきた。アダム・エバでもそうだし、エバと天使長も共に話し合い、共に相対的にそれをのりこえていく道だから、最後には、自分が自分を絶対視して、信頼する立場において、それを決定して、のり越えなければいけないというのが原理の神ですよ。それだけあなた達は覚えてもらいたい。

 色々と活動するには、いろいろなことがあるであろう。そういう立場において、あるいは、故郷とか、あるいは父母に対して情的や、環境的にも思い出されるんだね。それから開拓の先頭に立っていると環境が自分の思うように行かない。それが、全てがその不自由な立場に追い込まれる。そうなると、ただちに昔を振りかえり、自分の家を振りかえりながら、これを比べあうんだね。そういうところにあなた達の行く道において、非常な副作用をきたすようになるんだよ。

 一旦、家を出て来る時、自分なりに決心して出て来た人はそれは最後まで行ってみることだね。最後迄行ってみること。あるいは、こちらへ来る時は、自分の知恵によって決定したんじゃなくして誰かの進めによって、まあ、行ってみようとして来た人も、新しく出発する時には、自分が決意して、全ての動機は自分がなしていくんだという確信のもとで、行く所も、自分の将来、自分の全ての蕩減の道を果たす為に行く。

 いつも自分と神との関係、縦的関係は許されるんだけれども、横的関係は許しません。何か難しいことがあった場合には、あるいは故郷なり、自分の共に来た友達に、ああ、これは難しい、そういうふうに言うんじゃありませんよ。そういうことあった場合には必ず、祈りの中で自分の生涯をかかげ、過去、あるいは現在と比べ比較検討して、これは正しいというふうに決ったその方向に進んでいく所に我々の発展があるということを覚えて貰いたい。

 先ず自分で解決の道を捜す

 自分が自分を信ずる、そういう立場に立てない者が、神に頼ることができない。神自体も信じて何事もまかせることができない。自分はどうでもいいんだけれども神だけ認めればいい。そうはいきません。自分が自分を信ずるような立場に立たない者は、神もいりませんよ。神がいかに信じられるか。自分が自分を信じられない立場に立ったら、基台がないこととなる。基台がないことになるんだから基台のない者を神様は、絶対なる主体の神様は、そういう者を相手にすることはできません。だから自分がこういう者であるというならば、それは絶対自分の信ずるような基台に立ったという確信をもってやっていく所に、神はいつでもそこに援助してくれるということを覚えて貰いたい。

 そういうふうにして、今一月、あるいは一年ずーと、信仰生活をやっていれば、神は必ず援助してくれる。先生だってそうだよ。今でも、そうだよ。

 先生だって友達おりません。生涯何か難しい問題を父母がおるとしても、父母に相談することができなければ、あるいは自分の友達がおるとして友達に相談することもできなければ、あるいは先生がおるとしても先生に相談することができません。それは全て天使長圏の仲間になっておるというんだね。だから真剣に一人で解決していく道である。自分が自分のものを決定していくという者になったならば、神はその人を必ず導いてくれる。

 もしも、それでもこれが、いよいよ解決できないという場合には、自分の仲間同志に相談する。自分が信頼しているあの責任者に真剣な立場で相談する。

 相談するその時、あんた達は、もしも団長なら団長に対して相談する時には、こういう考でやれ。もしも、団長と相談してそれが、ある答が下された場合には、その答は、それは神より、下されたその答であるというように思ってやれ。それがその地区長が、巡回師が間違っておったとしてもそういうような信念でもってそれを為していくならば間違った立場で答えても、その信念を中心として神は、その方向にその結果をきたすように援助することができるんだね。あなた達が相談したにも拘らず、どうかわからないというようにそう思ってはいけないよ。だから信ずる。

 アダム・エバは信仰の中心、信仰が立っていなかった。それが問題である。だからあなた達も絶対的信仰でそれをおし通して行けば、サタンが利用するとしても、サタンの言葉と思わず、神様が教えてくれたというようにして、最後までおし進めていくとサタンの欲望の基準をのり越えた場合、神様はその信仰を中心として創造しても成してくれるというんだね。先生はそういう信仰生活をやってきたよ。

 真剣な祈りを

 誰か真剣なる立場に答えてやった場合に、その課題は、主体はどうでもいい。神から教えられたということを信じて、そして最後迄、それを守って、闘い続ければ、サタンが80%、の目的基準で教えてくれたとすれば、90%、100%という基準までおし続けていけば、神様がそれは取り扱って成功させるようにしてくれるんだね。

 すぐに相談するのは、良くありませんよ。何かあったらすぐ、これは重大な問題として地区長とか巡回師に走って行って話すんじゃありませんよ。

 まずもって神に祈るんだね。特にあんた達が、身体を清めて、断食しながら三日以上祈ればね。これ教えるようになっているよ。あるいは、先生が教えてやる。しかし、直接教えてやることはできない。それは蕩減の条件がひっかかるから、象徴的、あるいは形象的に教える。そういう経験において分別する体質にしておかなければならない。そういうような統計的、科学的結果に立つようにしながら、ああ、こういう時は、こういうようになって来た。だから何が現象現われてきた場合には、それに対して、さあ、その結果がどういうふうになるんだろうと研究する心が必要だよ。

 それを見れば、人によって皆な違うよ。人によって違うんだから自分は、ああいうことがあった場合には、こういうような結果をきたした、それを体験した立場で、それを分っているならば、こういうようにみられたとするなら、これを研究せず、直接行動に移すことができるよ。そういうのを、ずうっと統計的に、結果を探求するような、そういう生活態度が必我である。そうできれば神と、アダム・エバが堕落したのは、最後に神と相談しなかったから。もしもエバが最後に堕落をしない前に神様の前に行って、「神様、天のお父様、天使長がこういうことをいうのでありますけれどもいかがですか。」もしも相談した場合には、神は、これは主管することができるよ。だからアダムもそうだよ。堕落したエバが善悪知る木の果を取って食べよ、と勧めるに従って、神を中心として最後の決裁を決めるというアダムの立場だったら、いくらエバがそういうことを言ったって、神の前に相談した場合には、その堕落についてこれが最後にのり越える時の重要な位粟であるということをあなた達に記憶してもらいたいよ。そういう意味において真剣に祈る。

 だから何事を為すにもそういう蕩減だと思って真剣にやる。その仕事の中に自分が蕩減を越えるかもわからないんだから、全ては真剣にやる。人が見ようとも見なくてもそれは関係ない。世の中には、十人の人が働けば監督者がいて、やるか、やらないかと監督するんだけれども我々においては必要はない。監督される方が、かえって気持が悪い。それで人が見ても、見なくても神と一対一によって報告しながら、一歩一歩前進する価値を自分なりに積み重ねていくというような生活態度が必要ですよ。そうように行く者は、決して堕落とか、あるいは絶望とかそういう立場に絶対落ちない。

先生が経験によって、霊界の原理原則によってこれは間違いかいということを知らせておきましからこのことだけは忘れないで、守ってもらいたい。

 だから、自分が自分を、より以上信ずるような者に、もしも神様が期待するより以上自分を信ずる者になった場合には、神様は、今迄自分を召して、祝福しようとしたそれより以上の基準に、祝福されることができるよ。この基準が如何に重大であるかということをあんた達は理解するように信仰生活において、体恤するように先生は、たのみながら、簡単であるけれどもこれで終ろうと思います。

 自分が自分を信ずる、自分が自分を信じられない者は、神様自体も信ずることができない。更に、最後には相談してのり越えるんじゃないよ。自分がするんだよ。

 自分が中心にならなければならないということをはっきり記憶しておかなければならない


以上。

ありがとうございました。


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