蘇る信仰ー礼拝
5月21日、こちらの聖殿で一組の青年の祝福式を行いました。
アダムとエバの堕落によって、神様の心情は張り裂け、悲しみのどん底に落とされました。その悲しみの神様をどのようにして解放して差し上げることができるか。
神様の心情は祝福を与えたい心情であり、人間の責任においてその祝福を受けることであることを知っています。悲惨な神様の心情を解放して差し上げることのできる方法は祝福である、そのことを再確認した一日でした。
天聖経 地上生活と霊界 649ページ
皆さん、考えてみなさい。神様がおられますか。(はい)。神様には時間があるでしょうか、ないでしょうか。(ありません)。なぜありませんか。時間がなければ、永遠に終わると同時に永遠に始まるという、そういう言葉ではないですか。過去も、現在も、未来も、同じだということです。そのようになっても、嫌であり得ない作用を引き起こすことができる、神様が安息され得る本来の基礎とは何でしょうか。そのようなことが問題になります。
それは何でしょうか。全知全能であられる能力をもって可能でしょうか。駄目なのです。神様の知恵、全知全能、分からないことがないことをもってしては、駄目だということです。何にもならないのです。愛の力だけが可能なのです。神様も、「愛」と言えば「そうか!」と言うのです。それ以外は、神様に必要ではないのです。
我々は結局、どこへ行くのでしょうか。霊界です。「死後の世界」と言いますが、死後の世界ではありません。なぜ、死後の世界になり得ないのでしょうか。愛と関係している世界であるためです。愛と関係している世界であるために、死後の世界ではありません。真なる愛を中心として出発したものであるために、自分が真なる愛の立場に立つようになるときは、今ここが霊界です。それゆえ、愛は偉大なのです。
球形運動をしてこそ、上下、前後、左右が和合することができます。縦は縦で、横は横になって和合ができなければ、上下、前後、左右全体が和合できないのです。統一が繰り広げられません。愛だけが統一することができるのです。
天聖経 651ページ
皆さんの第一の父母は、皆さんを生んでくれた父母ですが、第二の父母は地球です。この地です。皆さんは地から、皆さんの体が大きくなれるよう、その要素を供給してもらうのです。地が体の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母に入るのが死ぬことです。第三の父母に行くには、そのまま入るのではありません。第三の父母に帰るには、本来の父母だった神様の形に似なければなりません。

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アダムとエバの堕落によって、神様の心情は張り裂け、悲しみのどん底に落とされました。その悲しみの神様をどのようにして解放して差し上げることができるか。
神様の心情は祝福を与えたい心情であり、人間の責任においてその祝福を受けることであることを知っています。悲惨な神様の心情を解放して差し上げることのできる方法は祝福である、そのことを再確認した一日でした。
天聖経 地上生活と霊界 649ページ
皆さん、考えてみなさい。神様がおられますか。(はい)。神様には時間があるでしょうか、ないでしょうか。(ありません)。なぜありませんか。時間がなければ、永遠に終わると同時に永遠に始まるという、そういう言葉ではないですか。過去も、現在も、未来も、同じだということです。そのようになっても、嫌であり得ない作用を引き起こすことができる、神様が安息され得る本来の基礎とは何でしょうか。そのようなことが問題になります。
それは何でしょうか。全知全能であられる能力をもって可能でしょうか。駄目なのです。神様の知恵、全知全能、分からないことがないことをもってしては、駄目だということです。何にもならないのです。愛の力だけが可能なのです。神様も、「愛」と言えば「そうか!」と言うのです。それ以外は、神様に必要ではないのです。
我々は結局、どこへ行くのでしょうか。霊界です。「死後の世界」と言いますが、死後の世界ではありません。なぜ、死後の世界になり得ないのでしょうか。愛と関係している世界であるためです。愛と関係している世界であるために、死後の世界ではありません。真なる愛を中心として出発したものであるために、自分が真なる愛の立場に立つようになるときは、今ここが霊界です。それゆえ、愛は偉大なのです。
球形運動をしてこそ、上下、前後、左右が和合することができます。縦は縦で、横は横になって和合ができなければ、上下、前後、左右全体が和合できないのです。統一が繰り広げられません。愛だけが統一することができるのです。
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皆さんの第一の父母は、皆さんを生んでくれた父母ですが、第二の父母は地球です。この地です。皆さんは地から、皆さんの体が大きくなれるよう、その要素を供給してもらうのです。地が体の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母に入るのが死ぬことです。第三の父母に行くには、そのまま入るのではありません。第三の父母に帰るには、本来の父母だった神様の形に似なければなりません。

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