阿南信義

強く雄々しくあって、失った福地を回復しようー礼拝

真のお父様のみことば 
「強く雄々しくあって、失った福地を回復しよう」 1957年6月23日


 神様が嘆いていらっしゃるので、神様によって創造された全被造物も喜ぼうとしても喜ぶことができません。創造の中心が悲しんでいらっしゃるために、すべての被造物も悲しまずにはいられないのです。

 それでは、み旨を起こして、万民を通してそのみ旨が成就されることを願う神様が摂理する、その目的とは何でしょうか。独り悲しみ、嘆いていらっしゃる御自身の、その悲しみと嘆きを取り除いてくれる人を探すことです。これが復帰摂理の帰一点なのです。

 神様の嘆きを解怨してさしあげることのできる一人の人物、言い換えれば、六千年の果てしなく長い歳月の間神様を嘆かせてきた、人間始祖から始まる人類の罪悪歴史を食い止め、それを清算して神様の嘆きを取り除くことのできる、その一人の人物を探してきたのです。このように歴史を代表した本然の一人の人物を探し出すことが、復帰摂理の目的であるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 皆さんが神様の前に立つとき、贖罪の恵みにあずかりたい心をもつことも必要です。あるいは、家庭と民族と世界の問題をめぐって贖罪の恵みを求めることも必要でしょう。しかし私たちは、自分の悲しみと嘆きを「解怨してください」とすがって哀願する段階を越え、神様の胸中に深くしみ込んだ、創造ののちに人間の過ちによって抱かされた怨恨を、解いてさしあげたいという訴えが必要であることを知らなければなりません。




 ノアの家族は、洪水審判で贖罪されたので感謝の生活をしなければならなかったのですが、習慣的な生活を繰り返しました。ですから、天倫に対して立ち上がった私たちも同様に、こういう過ちを犯しやすいのですが、私たちは自らの習慣的生活を繰り返す人になってはいけません。

 自分と家族を救ってくださった神様に、いつも新たに接するノアとなり、全人類がそのような心をもつようになる日を願いながら、父の心情を直視して立ち上がったノアになっていたなら、また神様の前に絶対的信仰を立てるノアの家庭になっていたなら、第二の堕落を成立させるような過ちは犯さなかったことでしょう。


 それでは、モーセに接するイスラエル民族は、どのような心情をもつべきだったのでしょうか。彼らは、神様が数千年間苦労し、また先祖たちが数千年間努力し、何もかも与え、何もかも犠牲にして探し出され、立てられた一人の中心人物がモーセであるということが分からなければならなかったのです。イスラエル民族は、神様がすべてを犠牲にし、その代価として探し出されたのがモーセであるということが分かりませんでした。それゆえ荒野で、六十万の民衆が倒れるようになったのです。

 もしイスラエル民族が、国家と世界を代表して立てられたモーセ個人の価値を民族全体の価値として、あるいは人類全体と同等の価値として感じ、彼と一つになっていたなら、その民族は荒野で倒れはしなかったでしょう。

 モーセ以後、数千年の歴史を経ながら預言者たちがこの地上に送られた目的、また世界を代表してイエス・キリストがこの地上に来られた目的とは何かといえば、神様の御苦労と嘆きを代わりに負うことであり、人間と万物の嘆きを代わりに負うことであったのです。ところで、どこの誰が、イエス様が万民を代表して現れた条件的な方であることを知っていたでしょうか。イエス様が、四千年間嘆いてこられた神様に代わって、サタンに対して勝利の条件を立てる方だということを誰も知らなかったのです。

 それでは、今日あなた方が求めるべきこととは何でしょうか。神様の嘆きと人間の嘆き、そして万物の嘆きを解怨してあげられる、その一人のお方を求めなければなりません。そうして皆さんがその方と一体の関係を結ばなければならないのです。もしそういう者になれなければ、皆さんから希望も、神様の栄光も見いだすことはできません。

 このような使命をもって来られた方がイエス様だったのに、神様が四千年の間苦労して選んでおいたイスラエル民族、ユダヤ教団は、どうしたのでしょうか。神様の名前を呼びながら、「神様のためだ」と言う彼らが、来られたメシヤ、天と地にたまった嘆きを解怨する一つの中心を不信して、その方の前に罪悪の反旗を翻した事実を皆さんは知らなければなりません。

 イエス様が来られるまでの悲しい歴史と、この悲しい歴史を解怨しなければならない天倫の内容を知っていた民だとするなら、イエス様を十字架にかけはしなかったのです。また、イエス様が十字架にかけられるようになったときに、右側の強盗がイエス様を神様の息子として証すのではなく、そばで仕えていた聖徒たちがイエス様を証して助けなければならなかったのです。ところが、当時そのような責任を果たした弟子がいなかったために、今日私たちがそのような責任を果たさなければならないのです。

 今日まで神様は、人間の嘆きを解怨し得る一人の方をこの地に送るために苦労され、人間はそういう方が現れることを望んできました。これが、神様の摂理歴史であると同時に人類歴史なのです。


 それでは、荒野路程にあったイスラエルの六十万の民衆が、モーセと一つになれなかった怨恨の条件とは何だったのでしょうか。それは、イスラエル民族の中に、怨讐の懐で暮らしていたエジプトでの生活を懐かしがる群れが現れて、モーセの行く道を遮り、天倫の道を遮ったことだったのです。

 初め、モーセを先頭にしてイスラエル六十万の大衆がアマレクと戦う時には、モーセが手を挙げればイスラエル民族が勝ち、モーセが手を下ろせばイスラエル民族が敗れるようになり、モーセと人々は一体の関係を成しましたが、あとで変わってしまったのです。


 歴史的に考察してみれば、神様のみ旨を掲げて歩んでいく人は、まず見えないサタンとの闘いがあり、次に見えるサタンとの闘いがあります。その次には物質の困窮を通じた闘いがあるのです。そのためにイエス様にも、パンで試練を受ける個人的な試練があり、次に聖殿を中心とした環境的な試練があり、また山頂に立てられ世界をめぐっての象徴的な試練があったのです。このようなことが、闘いがなければならない原則のもとで現れるようになりました。

 それでは、神様のみ旨を掲げて歩んでいたモーセは、いかなる心をもっていたのでしょうか。彼も神様のみ旨を掲げるために怨讐と闘うことができる心、そして荒野に出ては、アマレク族と戦うことができる心、飢えと闘うことができる心、死を覚悟して堂々と出ていく勇気がありました。

 モーセは、パロ宮中生活四十年、ミデヤン荒野四十年、合計八十年間をサタンと闘い、自分自身と闘い、飢えと闘いました。そういう闘いに勝利したとき、神様はモーセを召命されたのです。

 このような道を行った者はモーセだけではありません。イエス様もそのような道を行かれたのです。そのため、イエス様御自身においても、サタンとの対決を象徴するサタンの試練がありました。まず自分自身を克服するために、自分自身を一つの供え物にして飢えと闘った四十日の断食期間がありました。その次には物質の条件を越えるために、「石をパンにかえよ」という試練がありました。

 なぜイエス様がこういう過程を経なければならないかというと、人間が堕落したことにより神様を失い、息子、娘の威信を失い、万物を失ったために、これらを再び捜し出すための条件が必要だったからです。

 そのため、今日聖徒たちが歩む路程にも、個人や民族、国家、世界を問わず、悪の世界を代表するサタンからの試練があります。また、神様の息子、娘の栄光ではなく、十字架の路程が残っています。その次には万物を失ったために、飢えの苦難を経なければならないのです。

 それでは、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。終わりの日に来られる主は、六千年間神様を嘆かせた条件を取り除き、数多くの聖徒たちの信仰の目的を達成するために来られるということを知らなければなりません。そして、イスラエル民族が最初にモーセを迎えたときに、自分たちの所有するものをすべて捨てて出発したように、荒野に出ても自分たちのすべてのものを忘れて、モーセだけを信じて従っていたなら、彼らとモーセは分かれるようにはならなかったのです。

 今日、理想の園を望みながら再臨のその日を迎えるために準備している私たちが、まずもって備えるべきものがあるとすれば、それは何でしょうか。それは、来られる主は、六千年の間神様が苦労し、先祖たちが苦労したその結実として探し出される方である、ということを肝に銘じることです。

 その方がもし、この地に来られたならば、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。喜んで世の中のすべてをその方に捧げ、その方だけを歴史を代表する存在として、罪悪の歴史を終結させ得る存在として、神様の代身として、侍ることのできる心を備えなければなりません。

 世界のキリスト教徒たちがそういう心をもたないならば、神様が数千年間苦労して立てられたモーセが荒野で倒れることによって怨恨が残るようになったのと、同じ結果になるというのです。したがって私たちは、再び来られる主のために苦労することができる者にならなければなりません。

 このような立場に置かれている今日の私たちは、カナン福地を望みながら歩んでいたモーセが死んだのちに、彼の後継者として立てられたヨシュアとカレブの使命を、歴史的な立場で引き継いでいるということを肝に銘じなければなりません。すなわち、イスラエル六十万の大衆を率いてカナンの地に入っていくことによって、数千年間この地にこびりついた神様の怨恨を解いてさしあげ得る祭物的な条件をもって立ち上がった、ヨシュアのような人にならなければならないのです。

 今日、私たちがヨシュアとカレブと同じような決心と覚悟をもたなければ、荒野で流浪しているイスラエル民族を収拾してカナン福地に入っていくことはできず、聖殿理想を完成することはできないのです。皆さんはこれから、神様の愛と怨恨を知ったことによって、祈る目的が変わらなければなりません。

 また、神様がモーセと不信するイスラエル六十万の民衆を荒野で一掃し、ヨシュアとカレブを立て二世たちを連れて再びカナンに向かわせた、その心情を知る者とならなければなりません。

 皆さんは今いかなる段階に到達しているかというと、先祖たちが苦難を受けて歩んできた六千年の歴史を踏み台として、審判の旗を高らかに掲げるべき立場に到達し、また、イスラエル民族に向かって「ヨルダン川を渡っていこう」と号令をかけたヨシュアとカレブの使命を代行しなければならない位置に来ているのです。


それでは、私たちがそういう責任と使命を引き受けようとするならば、神様は私たちに何を強調されるでしょうか。神様が荒野でモーセの使命を引き継いだヨシュアに、「強く雄々しくあれ」と言われたのと同じように、私たちにも「強く雄々しくあれ」と強調なさるはずです。これから私たちは、世界的カナン福地を見つめ、そこに入っていくことを願いながら荒野にいるという事実を知り、ヨシュアとカレブのような心と体にならなければなりません。

 すると今日、世界的なキリスト教徒たちはどのように生きなければならないでしょうか。ヨシュアとカレブのような存在が現れて、この地上のキリスト教を導いていくことを天の前に訴えなければならないのです。中心を失い混沌と混乱を起こしているこの荒野時代で、これを収拾していく方向を提示できるヨシュアとカレブのような存在が現れなければならない時になったのです。このことを今日、キリスト教徒たちははっきりと悟らなければなりません。ここでは、自らの教派が問題ではありません。私たちはそのことを知らなければなりません。

 ヨハネの黙示録第十一章では、二本のオリーブの木に対する預言をしています。これは何を意味しているのでしょうか。世界的なカナン復帰の路程を出発するのに先立ち、ヨシュアとカレブのような存在が現れることを予告しているのです。モーセの代わりに現れたヨシュアとカレブがユダヤ民族を導いてカナンの地に入っていったのと同じように、今日にもイエス・キリストの福音をもったヨシュアとカレブのような人たちが現れて、神様の民を率いて世界的なカナン福地、新しい希望のカナン福地に向かうようになるでしょう。


 またヨシュアとカレブに従ってカナンに入っていった群れが、カナン七族を滅ぼしたように、皆さんにはサタンを滅ぼさなければならない責任があるのです。そういう天の勇士になり、そのような路程を歩むべき責任が、皆さんにあることを肝に銘じなければなりません。

 そして、新しいみ言を主張するヨシュアとカレブがこの地のどこに現れようとも、人々の心の扉を開いて、み言を聞かせ、天のために生きられるようにする私たちにならなければなりません。
 ヨシュアとカレブの行く道は、冒険の道でした。彼らが歩いた道は、難しい開拓の道であり、闘いの道でした。行く先々で開拓者の使命を果たさなければならない、厳しい道でした。時には個人的に、あるいは環境的にぶつかってくる試練と闘わなければならない路程が、彼らにはあったのです。


モーセがイスラエル民族を率いてカナン福地に向かって出発しようとする時、パロ王がモーセを殺そうとし、イスラエル民族の中にもモーセを不信して反対する人が多かったのと同じように、ヨシュアとカレブの時にもそのようなことがありました。このようなことをよく御存じの神様は、ヨシュアとカレブに「強く雄々しくあれ」と語られたのです。「強く雄々しくあれ」、このみ言は何を意味しているのでしょうか。それは、「人間的なすべての条件を乗り越えなさい」という意味です。

 それで、イエス様も三大試練を通して、人間的なすべての条件を乗り越えて勝利されました。したがって、二千年が過ぎた今日の皆さんも、人間的なすべての条件を乗り越えていく途上において、強く雄々しくなければなりません。

 ヨシュアは個人の闘いの路程から最後の瞬間まで、勝利の路程を歩まなければならないモーセの代わりの立場に立てられたために、神様は彼に「強く雄々しくあれ」というみ言とともに「対する個人を怨讐と思い、対する民族を怨讐と思い、対する土地を怨讐の土地だと思え」という忠告のみ言を語られたのです。

 今日、ヨシュアのような立場に立つ私たちであろうとするなら、私たちにも行く先々で個人的な怨讐があることでしょう。環境も私たちを打ってくるでしょう。民族も、国家も私たちを打つでしょう。しかし、選ばれた私たちが団結し、死ぬ覚悟で最後まで闘う第二のヨシュアとなり、死ぬ覚悟でイエス・キリストに従い、世界のキリスト教に責任を負うことができる聖徒たちになるならば、私たちは目の前に展開するいかなる闘いの道も乗り越えることができます。それゆえに神様は、私たちが強く雄々しくあることを願っていらっしゃるのです。


それでは今日、四千年歴史を代表したイエス様が残した真理のみ言を信じている聖徒たちは、これから先、どのようしなければならないでしょうか。サタンの鉄条網の中に捕らわれている人類を救うことができる、天の勇士としての姿を備えた息子、娘とならなければなりません。また、神様のみ旨を正しく悟り、昔イスラエル民族が神様のみ旨を悟ることができず、荒野でサタンの餌食になった二の舞いを踏む人になってはなりません。

 皆さんは、モーセが神様の前に再び立つ時まで荒野で四十年の間精誠を尽くした、その志操を信仰の根としなければならないし、イスラエルを代表して八十日間神様に取りすがり訴えた、その粘り強く強靭なモーセの性稟を見習わなければなりません。また、第二イスラエル選民圏を代表し、世界カナン復帰の理想を成就しなければならない再臨の宗族であるということを知らなければなりません。

 こういうことを考えて、「お父様! 六千年の摂理過程に現れた全体の闘いが私の身に現れるとしても、私は乗り越えていきます」と誓っていくことができなければなりません。それだけでなく、六千年の間に天のみ旨を立てるため死の峠を越えてきた先知先烈たちの代わりとなり、この地を支配しているサタンの群れに向かって、「私は爆弾だ。お前たちの胸を爆発させてやるぞ!」と叫ぶことができる者にならなければなりません。

 このような観点から私たちは、神様がヨシュアに「強く雄々しくあれ」と語られたみ言を私たちの教訓としなければなりません。イスラエル民族がそのみ言の意味を悟ることができなかっために、カナンの地に入ってからも十二支派を中心として再蕩減の歴史を経なければならなかったのです。そのために、今日の私たちがそういうヨシュア的な責任を果たすことができないならば、天国理念を建設するためにこの地にやって来られる主も、皆さんと共に受難の道を行くしかありません。


 ですから、皆さんは天のみ旨に向けて行くにおいて個人から家庭、社会、民族、国家に至るまですべてを聖別し、この世的な部分はみんな捨て、天のものとしてすべて置き換えていかなければなりません。すなわち、私の世俗的な部分を捨てて天の私を取り戻さなければならないし、家庭の世俗的な部分を捨てて天の家庭を取り戻さなければならないし、宗族の世俗的な部分を捨てて天の宗族を取り戻さなければなりません。民族の世俗的な部分を捨てて天の民族を取り戻さなければならないし、国家の世俗的な部分を捨てて天の国家を取り戻さなければならないのです。そういうものを取り戻すために皆さんは強く雄々しい心で、力を尽くし思いを尽くして前進しなければなりません。

 そういう者ならば、個人を取り戻す際に個人が倒れても感謝でき、民族、国家を取り戻す際に民族、国家が倒れても感謝できる志操をもった天の息子、娘になれるでしょう。

 今日私たちは、このような覚悟で個人に対して闘うことができ、家庭、国家、世界に対して闘うことができ、この地上のサタンに対して「退け!」と言うことのできる勇猛心を備えていかなければなりません。

 天に向かった志操をもち、生涯路程の終わりまで進んでいく者がいるならば、彼は死んでも復活してその福地に現れて栄光を享受するでしょうし、もし死ななければ第二イスラエルとして許された福地の園に住むことができるでしょう。これをきょう、皆さんが肝に銘じるように願います。



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