阿南信義

神様の祝福の最大の願いとは

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こちらでは毎週の礼拝をみことばを訓読しながらやるようにしています。真のお父様のみことばは深く難解な部分も多くありますので、何回も読み返して心情を理解するように努めています。
みことばの一句一句を明確化して、背後の天の心情を相続することが重要と思います。真のお父様のみことばを基準とする礼拝は誰でも行うことができ、人間的な知恵が必要ないのである面、簡単に行うことができます。







 みことば 神様の祝福の最大の願いとは何か  1960.4.24
堕落以前、私たちの先祖は、万物の主人公としての資格を与えられました。神様から「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、……すべての生き物とを治めよ」(創世記一・二八)という祝福を受けたのです。

 そういう祝福が昔、私たちの先祖に与えられたのに、今日までこの地には、神様のその祝福どおりにすべての天地を主管した者がいなかったのです。もしその祝福が成されたとするなら、この世界は嘆息の世界にならなかったでしょうし、苦痛の世界にならなかったでしょうし、人類は恨みの世界でさまよわなかったことでしょう。

 ところがその祝福が成されなかったがゆえに、今日まで人間は悲惨な歴史路程をさまよってきました。どのような歴史をさぐってみても、そこには悲しみと苦痛の事情がつづられているということを私たちはあまりにもよく知っています。このように人類歴史は、神様の祝福を成し遂げてきた過程ではなかったのです。

 これを見るとき、人は幸せな立場を失って、幸せでない立場に落ちたというのです。あなた方も、幸せな立場でなく、幸せでない立場に処しているのです。私たちは、幸福な立場で生きているのでなく、不幸な立場で生きているというのです。平和の世界で生きているのでなく、その反対の世界で生きているということを否定する道がありません。

 人類歴史は、人間だけで動かしてきた歴史ではありません。私たち人間が、ある目標をもって、ある計画のもとに引っ張ってきた歴史ではないのです。時期と時期、時代と時代、世紀と世紀を経てきながら多くの革命もありましたが、その革命理念により何十年あるいは何百年で成された世界は、みな消えてしまいました。それは人類歴史が、人間の見た夢によって成される歴史ではなく、人間のいかなる創造的な計画のもとでも成される歴史ではないためです。

 人類歴史は、大天倫の目標と計画のもとで、一つの理念的な目的地に向かって進んでいく歴史です。このように人類歴史には、苦難の歴史過程をたどり、自然な形態の世界を展開させようとする天のプログラムが含まれているのです。歴史にこういうプログラムがないとするなら、神様は存在しないはずです。

 私たちは、堕落しないアダムとエバを祝福なさった神様の祝福の恵みを懐かしく思うことができなければなりません。神様が堕落しないアダムとエバを立てて手を取って祝福なさったとするなら、祝福なさった神様のその手は、どこへ行ったのでしょうか! 祝福なさったその祝福の権限は、どこへ行ったのでしょうか! 祝福とは楽しくて幸せな因縁の条件であるはずですが、その条件を中心として見つめてこられた世界理念は、どこへ行ったのでしょうか!みなどこかへ行ってしまったというのです。

 ですから天は、人間中心のこの世界を収拾して、遠くの見解の世界を近い見解の世界へ、遠くの感覚の世界を直接的な感覚の世界へ引き込むのです。外的な世界を内的な心情の世界と結びつけて、「私」という一つの存在価値と全体価値の絆を謳歌することができる世界へ連結させるために、その目的のもとで歴史は回り、曲がりくねりながらこの世界を成してきたことを知らなければならないのです。

 ふっと見てみると、目的なく流れる歴史のようですが、過ぎてみればある目的意識のもとで一つ一つのことが処理されてきたことが分かります。このようなことを見るときに、全歴史は私たちが知ることのできないある目的意識、絶対的な計画によって動く歴史であることが分かります。

 私たちは、創造主の大理念を中心としたプログラムによって、開拓者の使命をもっています。しかし私たちの先知先烈、聖賢、賢哲が先にこの使命を継承して分担してきました。このように、そういう大目的世界を成し遂げるために人類が動員されただけでなく、天も動員されてきたのです。

 それでは、神様の最大の願いとは何でしょうか。神様が喜んで心情全体を掲げて祝福することができる、その願いとは何でしょうか。これが問題になるのです。神様の祝福の最大の願いとは何でしょうか。きょう皆さんと共に考えてみようと思う問題は、正にこれです。


 今日私たちは国の中で生きていますが、国でない国で生きています。社会の中で生きていますが、社会でない社会で生きています。家庭の中で生きていますが、家庭でない家庭で生きています。イエス様はおっしゃいました。「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイ一〇・三四)と。創造主の理念のもとでは容認されない否定的な地になったので、ここに革命を起こすためにイエス様がいらっしゃったというのです。

 では、私たちの出発の起源はどこでしょうか。私たちはどこから出発したのでしょうか。私たちは神様の愛の懐から出発したのではなく、神様が悲しみの涙をぽたぽた落とす立場から出発したのです。そのような人間なので、苦痛を受けてやるせない立場に立ち、殺しに遭い、号泣して絶望する立場に立つようになったのです。

 道義の道は、苦痛を当然として行く道であり、失望の道を正当化させて行く道であり、絶望の立場で希望をもって進んでいく道です。なぜですか。人間は反逆者であるために、反逆の種を蒔いたすべてを蕩減しなければならないのです。報いを受けなければならない人間であるので、蕩減を受けなければならないのです。

 では、今後世界を支配できる民族は、いかなる民族でしょうか。悲しみを甘んじて受ける民族、苦痛を甘んじて受ける民族、悔しさを当然として受ける民族、そうしながらも天をつかむ民族が世界を支配するのです。

 ゆえに昔からずっと善の道に従ってきた人々は、心では喜びと幸福の世界を望みましたが、実際の生活では苦痛の道を歩みました。「苦痛よ来い。お前に私の願いを取られるものか!悲しみよ来い。お前が私の喜楽を抑えられるものか! 死よ来い。勝利の一日、栄光の一日を願う理念の世界観を奪われるものか!」という覚悟のもとで歩んできた道が、聖賢、賢哲たちの道であり、キリスト教の歴史なのです。怨讐から受ける手の苦痛、怨讐から受ける足の苦痛、怨讐から受ける横腹の苦痛をイエス様は当然として受けられました。歴史は、このようなイエス様と同じ群れを通して収拾されてくるのです。

 天は、どうして人間をそういう環境に立てて役事なさるしかないのでしょうか。それは、世界が既にサタン圏内に入っているためです。この世界を支配しているのはサタンです。それで天は、先頭に立って人類を指導することができませんでした。今日まで後ろから役事してこられたのです。

 終わりの日になれば、悪はふさがってしまうのが原則です。この歴史は、世界的な舞台に向かって出発したので、その終わりも世界的な舞台で成されます。悪は転がることで始まったので、終わりの日まで転がってきているのです。六千年間そのように転がってきました。しかし、悪は必ず途絶えるようになっています。悪の軌道は正常な軌道ではないために、ある時、必ず脱線するのです。その時が終わりの日です。終わりの日には切れるのです。

 これを知っている天は、この悪の世界を正面から防止しようとしはなかったのです。このように転がってくる悪の世界のもとで、落伍者を収拾してこられたのです。これが天の歴史です。悲しいことです。全天地をサタンにみな奪われた天は、生き生きとして凛々しい者たちを収拾するのではなく、悪に向かって駆け足をしている死亡世界の権勢の後ろで、絶望して落ちる落伍者を収拾してこられるのです。これがまた、宗教の使命です。

 ですからこの世で落伍したり、大きな絶望に打ちひしがれたり、失敗をしたり、その何かに衝撃を受けて頼ることができなくなったとき、大多数の人々は道義の道を訪ねます。悲しいことがあるというなら、これ以上悲しいことはありません。
 人間が堕落しなければ天はその直系の子女を通して、この世界を自由に主管することができたのです。ところが人間が堕落して、サタンがこの世界を主管するようになったその日から、天は落伍者をつかんで頼む立場になったのです。それゆえに天を信じる人々は、愚かな人々だと非難を受けています。

 しかし、無知で無力で何も分別できないこの者たちが、天を信じて礎石になってきています。洞穴に石を詰め入れて、また入れて、埋めて、また埋めて、その洞穴が平坦になるまで、この地の数多くの落伍者が道義の世界で祭物になってきたのです。

 天は世の中の落伍者を収拾して、この地のどのような者にも負けない個人を立てるために、無限に努力されました。このようにして立てた人が、アブラハムであり、ヤコブであり、モーセであり、イエス様なのです。ヤコブは家庭を、モーセは民族を、イエス様は世界を収拾するための代表者だったのです。個人を立てて家庭を収拾し、社会と国家、世界を収拾しなければならないために、その代表者として遣わされた方がイエス・キリストです。

 イエス様が来られて逝ったその日から今日まで、キリスト教はイエス様が再び来られるという再臨思想を抱いてきました。では、今後この地に再び来られる主は、いかなる使命をもって来られるでしょうか。世界を収拾する代表者の使命をもって来られるはずです。それで天は、愚かな人から橋渡しをし、肩と肩を連結させて、体と体を連結させて、この天地のどこの誰にも負けない一つの理念的な代表者を前面に立てるために役事してこられたのです。

 過去には、おばあさんたちがたくさん動員され、真心を尽くしました。また婦人たちが、多くの真心を尽くしました。他の見方をすれば、今日までの宗教は婦人たちの宗教でした。男性たちの宗教ではなかったのです。か弱い女性たちが悲しみに満ちた心情で真心を尽くして積み上げた土台の上に、今日のような世界的な宗教の形態を備えるようになりました。このようにして、これがだんだん社会全体に伝播され、世界を動かすことができる民主陣営を建設するようになったのです。

 では、終わりの日とはいかなる時でしょうか。この世界を収拾しなければならない時です。したがってこの世界を収拾できる祝福を受けた代表者、祝福を受けた群れが出てこなければならないのです。イエス様はこの地に来られて「私は息子であり、神様のひとり子」と言われ、「私は新郎であり、あなた方は新婦」と言われました。しかしこのみ言どおり「あなたは天地を代表した私の新婦だ」と認められた人は、この地に一人もいなかったのです。

 今日全世界に散らばっている数多くのキリスト教信者は、みな自称新婦だと豪語していますが、天が「あなたは間違いなく天地を代表した新婦だ」と公認した人がいないというのです。さらには神様を「お父様」と呼んではいますが、神様から「あなたは本当に私の愛する息子、娘だ」という祝福を受けた人は、一人もいなかったのです。


 六千年間訪ねてこられた神様の最高の目的とは何でしょうか。天主権の国を建てたのち、その民に対し忠臣の道理を教えてあげることが神様の願いです。しかし、天国ではこういう人が忠臣であるからこのように行け、と教えてくれる何ものもありません。こうしてこのようにすれば、間違いなく天の忠臣になると教えてくれないというのです。天が立てようとする国はこのようなので、怨讐をこのように屈服させなければならない、と教えてはくれません。

 今日私たちは、忠臣の教訓を受けましたか。受けられませんでした。天の家庭はこうであるので、神様を代表する真の父母に侍る真の孝子、孝女になろうとするならこのようにしなければならないという、孝子、孝女の教訓を受けましたか。受けることができませんでした。さらには「君はこのようにすれば、私の愛する新婦だと天地の前に宣布できる」という新郎新婦の教訓を受けましたか。受けることができませんでした。聖書でも、こういうことを教えてくれなかったのです。

 行かなければならない道がこのような道なので、生死を意に介さずこういう道を行かなければならないのです。これが堕落した人間の運命です。ですから、私たちは喜々としてきょうを楽しむことができません。そのようなことができる人生ではありません。私たちがうれしがってきょうの時間を送ってしまえば、私たちの子孫がげんこつを振って地を打ち、審判台を恐れて嘆くのです。それが心配ならば、一時の安らかな立場を避けて、「天上の心情がどこにあるのか」と言って、それを知るためにあえがなければならないのです。

 心情を通じてこそ行くことができる所が、天国です。イエス様も楽園に行っています。楽園は、天国への列車を待つ待合室です。地上で心情問題を完結することができずに逝ったので、再び来てその責任を完結しなければならないのです。そうしてこそ、楽園の門を撤廃できるのです。それで天国の門を開けてこそ、サタン世界が屈服します。

 地上で心の天国を完成できない者は、天上の天国を成し遂げることができません。地上で心情的な永遠なる安息の福地を探すことができない人は、天上の永遠なる福地を探すことができないのです。皆さんは、そのような心情的な安息の福地を探すことができませんでした。
 その福地を探すことができないまま、孤児のようにあえいでいます。それで神様の心情を掲げて見るとき、皆さんの心情には位置がありません。位置がないので価値もないのです。価値のない存在の前に、世界がどのように縁を結びますか。

 ですから真の烈男、烈女として、真の孝子、孝女、真の忠男、忠女として、天の心情を代表して生涯の理念を楽しむことができる群れが出て、彼らがこの地に善の息子、娘を繁殖しなければならないのです。エデンの園でアダムとエバを祝福してあげたのは、サタン世界で罪悪の子女を繁殖しなさいということでしたか。違います。忠臣の節義、孝子、孝女の節義、烈女の節義をもった息子、娘を繁殖しなさいということでした。そのように生まれる第二の忠臣と孝子、孝女を神様は恋しがります。そのような息子と娘が出てこなければ、この地は永遠にサタンのものになります。

 こうすることができる息子と娘がこの地上に現れてこそ、天地がひっくり返るのです。そのような所がこの地上に生じるなら、そこは今後世界の中心地になるはずであり、そのような民族が現れるならその民族は今後世界を支配するはずです。

 これから私たちは、涙を流さなければなりません。その心情を体恤できないなら、涙を流さなければならないのです。その心情を体恤できないなら、夜を明かして祈祷しなければなりません。断食をしながらでも祈祷しなければならないのです。そのような心情をもった者だけが、最後の勝利を収めるでしょうし、最後の審判で残るのです。そのような皆さんになるならば、神様は皆さんを通して安息の場を築くでしょうし、世界は皆さんによって動くでしょう。

 天の忠臣になろうとするなら、天の恨みを晴らさなければなりません。孝子になろうとするなら、父母の怨讐がいてはならないので、怨讐をなくさなければなりません。烈女も同じです。この恨みを晴らす日まで、永遠なる命を懸けて覚悟していき、闘わなければ、皆さんは堕落の恨めしい峠を越えることができないのです。この峠を越えて初めて、神様がすべての悲しい心情を解いて、皆さんに「六千年間待ち焦がれた忠臣よ、孝子よ、烈女よ」と言いながら、両手を挙げて祝福してくださるでしょうし、三位神は安息することができるのです。このように心情基準が解決される前には安息することができないというのです。
 こういうことを知って、今日この地上にいる皆さん自体が、どれほど貴い立場にいるのかを感じることを願います。








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