歴史的な悲運の峠を我々は越えよう

2020.5.19 みことば訓読日曜礼拝
マタイによる福音書第23章
:27)偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 :28)このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。 :29)偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、 :30)『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。 :31)このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。 :32)あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。 :33)へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。 :34)それだから、わたしは、預言者、知者、律法学者たちをあなたがたにつかわすが、そのうちのある者を殺し、また十字架につけ、そのある者を会堂でむち打ち、また町から町へと迫害して行くであろう。 :35)こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。 :36)よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。
みことば 1958.1.19 「歴史的な悲運の峠を我々は越えよう」
皆さんと漸次、考えてみる御言の題目は「歴史的な悲運の峠を我々は越えよう」です。こんな題目で暫くの間、お話しします。
今日この世の中に数多くの人々が生きているとしても、彼らの前には越えるに越えられない悲運の運命の道があるということを、皆さんはよく知っているのです。
キリスト教思想から見ても、終わりの日には審判というものがあるのです。それで多くのキリスト教徒たちは、どのようにこの死の峠を越えるかを案じて今まで生きてきたことを、皆さんはよく知っているのです。
現在生きている自分を推し量って見るとき、自身も分からない悲しみの運命の中にあるということを、自ら認めれば認めるほど深刻な問題が自身の前途に、あるいは周囲に、あるいは心と体に、まとい付いていることを感じるのです。
こんな悲運の環境を跳ね返してゆく使命が今日の我々にあり、これが残る人生の使命なのです。こんな悲しみの環境を踏み越えて上がってゆく、その一日が皆さんの前にあってこそ、皆さんは過ぎた日の悲運の歴史を踏み越えて行けるのであり、これを踏み越えてこそ新しい一日の、希望の園を迎えることができるのです。
このような時点にある我々が、過去の歴史を回顧して見るとき、皆さんが今迎えているこの悲運の峠や環境が、ただ皆さんだけが迎えている悲運の環境ではありません。六〇〇〇年という長い歳月を経てきて、我々の先祖たちもやはり悲運の路程を経てきたことを、皆さんは知らねばなりません。
それでは歴史を探って見て、皆さんは先祖たちが悲運の立場を避けられなかったと同時に、人間と創造主の間の関係においても悲運の立場を避けられない場にあったことを、感じなければなりません。皆さんは自身を中心に歴史性を代身して、あるいは創造理念を代身して、こんな切迫した心情を感じると同時にある一日、歴史を代身して勝利したという喜びの日を持たねばなりません。でなければ今日の人間社会において、幸福とか希望とか理念が、みな途絶えてしまうのです。
こんな歴史過程を経てきた人間ですから、神は人間の精神と生活に垂れ下がっている悲運の幕、歴史を通して流れている悲運の幕を、どのようにして開くかという責任を感じてこられたのです。道を求める修道の人たちも、人間のためにこの問題を解決しようという責任感を抱いてきたのです。今まで存在してきた数多くの宗教が、未解決の課題を残したとするなら、この問題を解決しなければならない使命を残したのです。
人間に残っているこんな悲運の障壁を除くために、天が動員されていることを皆さんは知っています。この悲運の運命を打開するために天が動員されると同時に、あの世の霊界が動員されているということを、皆さんは知らねばなりません。さらには地上の人間たちも動員されているのです。
悲運の障壁を踏み越える歴史的な一時を捜し求める人間が、この時を求められないために、今日我々が再びこの悲運の歴史を引き継いでいるのです。それゆえ我々は今、団結してこのすべての悲運の障壁を踏み越えなければなりません。これを踏み越えなかったら、皆さんの後孫たちもやはり悲運の障壁を越えなければならず、先祖たちが歩んできた死の道、悲しみの道、涙の道を免れえないことを、皆さんは知らねばなりません。
これを考えてみるとき、今日皆さん自身は、単純な存在ではないことを知るのです。皆さん自身には天上の哀願が懸かっており、人類の哀願が染みているのです。さらには皆さんは過去・現在・未来の、哀願全体を解決すべき張本人の立場に立っているのです。
皆さんが一日の生活で、あるいは一代の人生で、このすべての悲運の障壁を開拓して越えなかったとしたら、皆さんを望み見てきた歴史的な所望、あるいは摂理的な所望、あるいは天的な所望、皆さん一人を望み見て、悲運の障壁を越えようとした霊界の所望が、崩れてしまうのです。これを考えてみるとき、皆さんは個人ではないということを悟らねばなりません。
今日多くの人がいますが、果たして神の悲運と天使の悲運と、未来人類の悲運の心情まで代身して、我々を妨げている見えざるサタンと悪の群れに対抗して闘う責任者が、どれほどいるかを考えてみなければなりません。
これを考えてみるとき、今日我々だけがこんな立場に出逢うのではなく、今まで神の摂理に対してきた数多くの先烈たちも、同じ立場、同じ環境において自身の人生を放棄しても、この一つの問題を解決するために闘ってきたことを知るのです。皆さんはこれを骨身に染みて、感じなければならないのです。
ノアの悲惨な運命
皆さんが旧約時代を振り返って、ノアをご覧なさい。ノアは神様が人間始祖が悲惨な運命を残して以後、一六〇〇年の間苦労して、数多くの人々の間から初めて捜しだした一人だったのです。このノアは、どんな存在でしたか? 彼は当時の数多くの人類を代表して天の悲運の心情を感じる心情を持つべき存在であり、当時の人々が感じる悲運の心情を代身して、神を慰めてあげるべき立場に立ったノアだったのです。
こんな立場にあったノア、一六〇〇年の歴史的な使命を背負ったノアは、人間のためや天のためにこの悲運の障壁を除き、歴史以来誰もが感じてみなかった悲運の場、踏まれ、嘲弄され、追われる悔しい場において闘ったのです。このようなノアの人生を、皆さんは忘れてはなりません。
それではノアの生活のまえに現れたものが何ですか? 蕩減の原則を立てるための神の復帰摂理たれとノアのまえには、一六〇〇年を経て望んだ哀しい悲運の事情を代身する箱舟が現れたのです。ノアが対した箱舟は、歴史的な悲運を代身する一つの存在なのです。 一六〇〇年の悲運の峠を越えるべき使命を感じたゆえに責任を任した神と、この責任を背負ったノアが一つの心情になったのです。歴史的的な蕩減条件として任せられた箱舟であることをノアは知っていたので、一二〇年間ひどい悲運の生活とイバラの道を歩んだことを、皆さんは知らねばなりません。
一二〇年の後にこの地を水で審判することを予告されたノアは、この日からありったけの精誠を尽くして箱舟を造り始めたのです。ところで一年でもなく、一二〇年という長い期間を耐えて船を造ったのですが、船を造るノアの心情は、自分の家庭のために造るのではないのです。自分の後孫のために造るという心情でもなかったのです。また、その当時の悪なる世の中のために造るという心情は、さらになかったのです。むしろこの箱舟を造ることは、神のみ旨一つを成就するために造るという心情だったのです。このように神の哀しみと、一六〇〇〇年の間経てきた数多くの先知先烈たちの哀しみを抱いて、黙々と闘ったノアの姿を、皆さんは回顧して見なければなりません。
これを考えてみるとき我々は、過去に神のみ旨を受けた先祖たちが悲しい道を行ったのですが、こんな環境に面したノアは、悲しく難しい環境が押し寄せれば押し寄せるほど、この環境を押し分けて踏み上がるために、内的に心身が無限の闘争をなしていったことを知らねばなりません。
このような闘いが一二〇年というもの、続いたのです。誰一人同情してくれない中で、ノアは神のみ旨一つを立てるために忠誠を尽くし、義を守っていったのです。これを考えてみるとき、ノアの心情は実に一六〇〇年以後、いかなる先祖たちも感じてみなかった悲しみの心情であることを知るのです。
こんな過程を経た後に初めて天が成されるのであって、時が満ちて神の約束が成就する一日、悲運の怨恨を解くことができる審判の役事が起こったのです。
ノアがこのように大きな摂理の使命を背負えば背負うほど、彼は安楽に生活することが出来ないのです。喜ばしく平安な生活をすることが出来ないのです。体は苦痛を受け、心が苦痛を受け、罪悪の環境から迫害を受けたのです。このように、誰一人味方する者もない難しい峠をすべて越えた後に、天が味方になってくれるのであり、一二〇年の迫害と悲しみと口にも言えない悲運の運命を経た後に初めて神は友として、ノアの慰労者として、ノアの悲運を解怨してくれる責任者として現れたことを、皆さんは知らねばなりません。
しかしノアは約束が成就する時までの過程では、内的な生活や外的な生活において、身を寄せる場もないほどの悲運の環境で身悶えて、無慈悲な闘争をしなければならなかったことを、皆さんは知らねばなりません。内的な悲運の障壁があるかとおもえば、外的は悲運の障壁もあるということを、ノア自身は知らなかったのです。神の摂理のみ旨は、外的な箱舟を造ることによって、すべて終わるのではなかったのです。箱舟を造った後で、神の審判の行事があり、それ以後には復帰された園で、新しい家庭を建設しなければならない立場があったのです。このように箱舟ですべてが終わると思っていたのに、外的な箱舟の峠を越えた後には、内的な悲運の峠が残っていたということを、ノア自身は知らなかったのです。結局その日の失敗によって、ノア家庭は倒れたのでした。
我々の行く道
神は長い歴史を経てきて、人間たちに対してすべての事に耐えてこられた、真の父母であることを知らねばなりません。またその次には、イエス様はどんなお方か。イエス様が「わたしは新郎であり、あなたがたは新婦」と語られましたが、このような新郎・新婦、即ち天的な情(愛)の問題を解決する宗教が、最後の峠を越えることができるのです。こんな意味において、キリスト教が中心宗教なのです。
そしてイエス様は「わたしは神と一体である。わたしは神の独り子」とされました。さらにはイエス様は人類に向かって「わたしは新郎であり、あなたがたは新婦」とされました。天は長い歳月の間、こんな基準を中心に世界的な悲運の障壁を越えることを願っていたのですが、このような事を担う祖先の立場にあったお方が、イエス様だったのです。
今皆さんは、どうしなければならないか。皆さんは二〇〇〇年の間、新郎の悲運の心情を抱いてこられたイエス様の心情と、数多くの先知先烈たちの抱いた悲運の心情を抱く人々にならなければなりません。そのような人間であってこそ、神の子女であるとすることができ、イエス様のまえに、一人の兄弟姉妹といえるのです。
皆さんがこんな人間になろうとすれば、サタンが皆さんを攻撃するのです。これがサタンの攻撃目標なのです。しかし新しい主義や理念、新しい宗教、新しい中心人物が出て、これに当たってくれればサタンの攻撃までも退けるのです。そのようになればサタンが襲って来ません。そこには再び革命と変換がないのです。その時に初めて永遠の理念が展開されるのです。
皆さんは天国に行くという考えを持ってはいけません。地上に天国を建設するという考えをしなければなりません。そして天国を建設する前に、皆さん自身がまず天国人にならねばなりません。そんな天国人になるには、アボジの心はわが心、わが心はアボジの心、と自分に言えるほどアボジと心情一体にならなければなりません。それで地上でアボジの心を代身し、主様と先祖たちの心を代身しなければなりません。それでこそ歴史的なすべての問題を解決することが出来るのです。
霊界が動員されて、歴史的な悲運の障壁を越えて行こうとしているのですが、地上に生きている我々も、この事をすべき使命があるのです。我々がこのような使命感を持って、歴史的な最後の悲運の障壁を蹴とばして行くなら、我々は神の悲運の心情と、歴史的な悲運の心情と、現実に残っている悲運の心情と、未来に染みている悲運の心情を知って、我々に立ちふさがる真の父母の怨讐、真の子女の怨讐、真の新郎・新婦の怨讐に対して、敵愾心を持たねばなりません。こんな敵愾心に燃える息子・娘でなければ、最後の審判の峠を越えることが出来ません。
歴史的な使命、時代的な使命、未来のみ旨を立てるべき使命のまえにおかれている皆さんは、現在どんな時代に立っているのか? 皆さんは時に対する問題を知らねばなりません。これからは、宇宙主義時代が来るのです。遠からずして、誰もが持たない天に対する心情と、サタンに対する敵愾心を持つお方が来て、この世界を回復するのです。この時、このお方に侍り、協力しなければならない使命が、キリスト教にあるのです。
一日を生きるのもアボジのみ旨の為に生き、生涯の路程を歩んで行くのもアボジのみ旨の為に歩んで行かねばなりません。
そして皆さんは、先祖たちが歩んで行った路程を、経なければなりません。我々は今、荒野に出たイスラエル民族と同じです。
モ-セとイスラエル民族が荒野で追われ、苦難に逢い、イエス様が教会から排斥され、家庭から不信されたのですが、皆さんもこんな悲しく、悔しい場を経なければなりません。ではあっても、落胆しないでください。皆さんがこんな悔しい場においてやるべき事があったら、歴史的に苦難を受けたアボジの心情を体恤して、主の哀しみがわが哀しみであり、先祖たちの苦痛が自分の苦痛であると考えて、千年万年、このみ旨の為に変わらずに団結して、サタンに対して敵愾心を抱かなければなりません。
そのような青年男女を天は今、要求しているのです。牧師・長老にみ旨を任せるのではないのです。彼らが責任を果たせなければ執事たち、執事たちが駄目なら青年たちがやらなければなりません。それで教団と民族を生かすなら、立ち上がらなければなりません。このように天的な悲運に染みた真の青年たちを、天は捜し求めてきたのです。
民族を代身して我々にこんな使命を任されたなら、我々はアボジの怨恨の心情を感じ、アボジの悲しみをわが胸に抱き、怨讐に向かって進撃する精兵にならねばなりません。そのためには皆さんは、皆さんの生活と理念を、統一させなければなりません。天の哀しみと、イエス様の哀しみと、先祖たちの哀しみと、後孫たちの哀しみを解怨するために闘わねばなりません。
今、悲運の歴史が皆さんに近づいています。それゆえ皆さんは心を尽くし、み旨を尽くし、自身のすべてを捧げ、自身が冷遇され、悔しさを味わったとしても、イエス様を代身して、民族と世界のまえに祭物になるという覚悟をして、自ら手を挙げて天のまえに誓わなければなりません。

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