阿南信義

イエス様の真の食口となろう

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マタイによる福音書第10章

 :16)わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。 :17)人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。 :18)またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。 :19)彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。 :20)語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。 :21)兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。 :22)またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 :23)一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう。 :24)弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。 :25)弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。 :26)だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。 :27)わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。 :28)また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。




みことば  1957.10.18イエス様の真の食口となろう

 このマタイ十章の御言は、み旨のための最後の覚悟を持って、またこの地上でサタンとの闘いを指導しなければならない重大なる使命を持つイエス様が、愛する弟子たちを初めて伝道に送られてなされた御言です。
 この御言を通して、我々はイエス様がきわめて悲しい心情のなかにも、弟子たちに対して無限の愛と愛着心を抱いておられたということを知るのです。反面イエス様が選ばれたイスラエル民族に、新しい福音の御言を伝えるために弟子たちを送ろうとするとき、去ってゆく弟子たちの心情と事情も哀れですが、送られるイエス様の心情と事情も、誰にも言うこともできない気の毒な立場であったことを、知らねばなりません。

 またイエス様は、億万サタンと闘わなければならない弟子たちが勝利して、アボジの栄光を歌うことを心から願い、あるいはその闘いの路程で倒れ、天に心配をかけるのではないかと案じてなされた御言であることを、皆さんは知らねばなりません。
 
弟子たちを伝道に送り出されたイエスの心情
 この御言は、イエス様の愛する弟子たちが最後の闘いを覚悟してゆく歩みですから、そこには必ず怨讐たちが現れることを知られ、その時に彼らと闘って勝ち、勝利の凱歌を歌い、彼らがアボジの息子・娘であることを証しする喜びの一時を迎えるよう心から祈願して、愛する弟子たちを励ます御言なのですが、今日皆さんはこの御言をその当時の使徒たちだけのための御言だと思ったら駄目です。即ち、この御言は今日キリスト教徒たちが闘ってゆくべき全人生の路程も暗示する御言であり、今まで長い歴史過程を経てきて、キリストのみ旨を中心に地上に勝利の基台を立てようとする万民に対してなされた御言なのです。

 我々がここに、このように語られたイエス様の心中を推し量って見るとき、去ってゆく使徒たちの信仰を案じられ、また使徒たちが深く信じて難しい環境に処してゆくことを感じられて、なされた御言であることを我々は知ることができるのです。それでイエス様は愛する弟子たちがサタンと闘い、勝利してアボジのまえに栄光を捧げることを願い、誰にも言うことができない悲壮な覚悟と心情で、弟子たちに語られたことを皆さんは知らねばなりません。

 また、ここに皆さんはイエス様が愛する弟子たちを送られて、あなたがたが行く所々にあなたがたを歓迎する者がいないと言われましたが、これは天の息子・娘になるために、天の道に従って行く者には、常に彼を窺(うかが)っているサタンがいることを知って語られたという事実を、知らねばなりません。

 さらに皆さんはイエス様が「あなたがたの行く道を塞ぐ者は、信じない異邦人でもなく選び立てられたイスラエルでもなく、信じているユダヤ教徒でもなく、家の中の食口だ」と語られたことを想起して見なければなりません。そして今日皆さんには、たとえ持っているものがなく、天のまえに捧げるものがなかったとしても、イエス様がなされた御言の意味を悟る人間になるなら、このような御言をなされたイエス様がどんな心情と覚悟と誓いの心で語ったかを、推察する人間にならねばなりません。

 この御言をイエス様自身に照らして推察してみるとき、イエス様には当時どこにもお互いの心情を交わし合う、一人の親友もなかったということを知るのです。また国はあってもその国は自分の国ではなく、選ばれた民族があってもその民族が自分の民族ではなく、立てられた教会があってもこの教会が自分の教会ではなかったのです。自分を育てた家庭があってもその家庭が自分の家庭ではなく、自分と同居する兄弟があってもその兄弟が自分の兄弟ではなかったのです。

 ですからこの御言をなされたその瞬間は、天を代身して歩んだ自身の事情をそのまま、この地上の弟子たちに受け継がせるための瞬間であったことを、皆さんは知らねばなりません。
 また皆さんが知るべきことは「誰がキリストの真の食口になるだろうか」ということがイエス様が今日、皆さんに問うている内容であるのです。

 地上に数多くの国があり、数多くの民族があり、数多くの家庭があり、数多くの人間がいたとしても、その中でイエス様の真の食口はいないのです。
 それでイエス様は今日までこのような人間を捜し求めておられることを、皆さんは知らねばなりません。
 それでは、イエス様が愛する弟子たちを、怨讐の懐に送られる目的が何であったのか。彼らを通してある教団を造るためではなく、彼らを通して選ばれたイスラエルの民を立てて国を造るためではなかったのです。まず愛する弟子たちを送り、天が喜ぶ食口、天のみ旨の通りに生活する天の真の食口を、求めようとされたのです。ですから、誰がキリストの食口になるかということが最も重要であることを、肝に銘じてください。

 それでは、今皆さんはどうしなければならないか。皆さんには持っているものがなく、知るものもなく、誇るものがないとしても、神が皆さん一個体に接するその時は、イエス様の真の食口であるとしなければなりません。即ち、神と共に永遠に同居する皆さんにならねばならず、神の栄光を現すことができる天の食口と神が認め、イエス様が認め、皆さん自身も認めることができる姿にならねばなりません。そんな人間が正にアボジが捜し求める人間であり、キリストが捜し求める人間であり、皆さんが希望とする人間であることを、知らねばなりません。








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Posted by阿南信義

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