天国の義を地上の生活において現す一人の人間がいない
毎週、日曜日には礼拝を、水曜日にはみことば講義をやることにしています。昨日は日曜礼拝をズームで中継して行いました。お父様のみことばを訓読しての礼拝です。その礼拝のたびにそのみことばをどれだけ読み込んで、心情的に神様の心情圏で語っているかと自問自答するときに、不足な心情であると申し訳なさをいつも感じています。
みことばには力があり、愛があり希望を与えてくれます。現実の世界が暗黒の時代を迎えようとしているこのような時こそ、みことばを伝える使命が氏族的メシヤにあることを感じています。
みことば訓読礼拝は、みことばそのままを伝えることができ、だれでも行うことができる礼拝だと思います。自分でどういう内容にするかといった余計な考えは必要ないので、ある点では簡単にできます。
これから予想できない患難の時代において、多くの氏族的メシヤが世界に向かってみことばを発信することで、天の声が人類に届きかその試練をこえることができるようになると思っています。
みことば 1957.10.13 「御国とその義を捜し立てよう」
ところでその当時、このようなイエス様の心情を知り、神の真の息子・娘として、民族のまえに追われ、排斥されたイエス様を見て悲しんだ人間があったでしょうか? 一人としていなかったのです。もしもこのような人間が一人でもいたなら、彼は四〇〇〇年歴史を代身して、驚くべき証しの使命を果たしたのです。与えることを願うイエス様の切ない愛の心情を代身する人間がいたなら、新婦の立場でイエス様に侍り、神のみ旨を成してゆくことができたのです。
ところでこのように与えたい愛の園、天国の義を地上の生活において現す一人の人間がいないので、神は今日皆さんに所望の御国を求め、所望のその義を求めている哀しい立場におられるのです。ですから今日皆さんは、どうせこのみ旨を成して行かなければならないのです。
皆さんは世界に広がっている数多くのクリスチャンたちが団結したとして、このみ旨が成るのではないということを知らねばなりません。神の本質的な愛に百%符号することができ、与えるがために切ないイエス様の心情に通じる一人の新婦になれるか、否かが問題なのです。イエス様はご自身が実践された犠牲と奉仕の生活を代身する、一人の存在を捜し求めておられるのです。またこのような存在はイエス様のみならず、神も捜し求めておられることを、皆さんは肝に銘じなければなりません。
宇宙に対する神の摂理が終わらない限り、地上でこんな存在になるために、ある基準を必ず立てなければならないのです。もしも皆さんが、この一つの基準を立てなければ、イエス様が切ない心情で「あなたがたはすべてのものを捨て、ただ御国とその義を求めなさい」とされた御言の目的と、皆さんとは何らの関係もなくなってしまうのです。

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