御国とその義を捜し立てる
サタンの三大試練に屈した韓氏オモニによって神の摂理を外れた第三イスラエルは世界的な大試練を人類にもたらすことになりました。神が予定した第三イスラエルがサタンに敗北し、屈服したことは神様の悲しみでしかありません。
実際、毎日多くの人々の命が武漢コロナによって失われています。また大恐慌の時代に突入しようとしています。全世界的に人間の尊い命が失われ、万物が失われていくという悲惨な状態となりました。
しかしながら神様は次の摂理をすでに始めておられます。
それは神様の希望であり、人類の希望となる神様の摂理であることを知ることが重要なことだと思います。
それはサタンの三大試練をすでに勝利されておられるお方がおられるということです。お父様はイエス様のサタンからの三大試練の意義をご存じでした。ご自身が勝利の道を歩まれてこられておられるがゆえに、その秘密を明らかにすることができました。そしてそれをすべて相続され、代身者として立たれておられるお方が亨進二代王様です。
聖殿聖徒が二代王様と一つとなって御国を成就するとき、人類に希望をもたらすことができます。
みことば 1957.10.13 「 御国とその義を捜し立てよう」
神の愛を受けることができる道
それでは、皆さんがどのようにすれば、神の真の愛を受けることができるのか。前にもお話したように、皆さん自らが越えるための犠牲の道、奉仕の道に出て行くとき、初めて神の愛を受けることを、皆さんが肝に銘じるように願います。
地上の人間をこのような道に率いてゆくべき立場のイエス様には、その当時の地上の人間の中で誰もが他を愛し、他の為に生きようとする人間がなく、むしろ自分の為に生きることを望み、愛を受けることだけを願う人間ばかりだったので、対する人間すべてが気の毒な対象としてのみ映ったのです。このように神のみ旨を地上に成すために、犠牲と奉仕で神の愛を与える一人の存在を捜し求められなかったことが、イエス様にはもっとも大きな痛みであり、悲しみであったことを、皆さんは知らねばなりません。
イエス様は見せようとしても見ず、手に取らせても分からない無知な人々に接して、哀しまれたのです。それでイエス様は彼らに「何を食べ、何を飲もうか、何を着ようかと思いわずらうな」と言われたのです。これは自身の生活を否定せよという御言であり、すべての環境を否定せよという御言なのです。
イエス様はこれが人間が生きてゆくために、持つべき必然的な条件であることを知らないで、こんな御言を語られたのではなかったのです。堕落した人間はこのような道を踏み越えてこそ、所望の一日を迎えられることを知っておられたので、何を食べるか何を飲もうか、何を着るかを心配しないで、まず御国とその義を求めよと言われたのです。まず御国とその義を成す人間は、この自然的な法度圏内において、万物を主管することができ、自然にこのような万物に対する心配は、する必要がなくなるので言われた御言なのです。 イエス様が地上に来られて、サタンから幾つかの試みを受けました。四〇日断食期間にまず、食べることで試みを受けました。サタンがイエス様の前に現れ、石をパンに変えてみなさい、と言ったのです。これは飢えている人々には喜ばしい報せです。しかしイエス様はこれを否定し、ご自身が食べる事のために来たのではないことを表されました。ただ神の御言を主張することによって、人間が生きてゆく実際生活圏内でのすべての条件を、サタンのまえに失わなかった立場を立てたのでした。
その時まで人間は、物質を中心とする闘争の歴史を経てきたのですが、イエス様がサタンの第一次的な試みに勝利することによって、このような物質を中心とする闘争の歴史を終結させたことを、皆さんは知らねばなりません。
それでは、その次にイエス様はどんな試みを受けたのでしょうか。イエス様はサタンに引かれて聖殿の頂上に立ったのですが、そこで「あなたが神の息子なら飛び下りてみなさい」(マタイ四:六)という試みを受けたのでした。
イスラエル民族とユダヤ教を、指導する宗教理念を持って現れたイエス様に「飛び下りてみよ」というこの言葉は、どんな意味でしょうか? これはユダヤ教的な習慣と、彼らの主張のまえに屈伏して、彼らの指導者の立場を放棄しなさいということです。しかしイエス様はここでサタンの試みに陥ることなく、勝利されたのです。
その次に、どんな試みがありましたか? サタンはイエス様を極めて高い山の頂上に登らせ、天下万国とその栄光を見せて「もしもわたしに膝まづいて敬礼するなら、このすべてのものをあなたにあげよう」(マタイ四:九)と言ったのです。しかしイエス様はここで、宇宙的な理念を持って神の国、即ち天国を建設するという神のみ旨を立てるために、サタンのこのような要求を払い除けたのです。
イエスの三大試練勝利の意義と聖徒の使命
それではこのような事実は、何を意味しているものか? この地上に新しい天地、即ち天国を建設することができる理念を持つイエス様ですから、そのみ旨を現す実現過程において、このような歴史的な不信のすべての条件を蕩減して、復帰したという象徴的な条件を立てなければならないのです。
ですから終わりの日を迎えている今日の皆さんにも、物質的条件を中心とした闘争が起こるようになるのです。ところで今日すべての人間が、このような物質的な闘争において勝利できずに敗北してしまったら、地上は自然に暗黒の世界に変わるのです。それゆえ今日皆さんは、このような物質的な闘争を踏み越えて、イエス様の天国の理念を受けて行かねばならず、さらには全体がキリスト教徒と力を合わせ、神の国をこの地上に建設しなければならないのです。
言い換えれば、イエス様が昔、イスラエルの全体的な価値に譬えることができるユダヤ教団と一つになり、世界を復帰しなければならない使命があったように、今日の全世界のキリスト教徒にも、世界を代表する民主主義の理念と、またその民主主義の理念の基本になっているキリスト教の理念を中心にして、一つに団結して、神の国を地上に建設しなければならない使命があるということを、知らねばなりません。
そして皆さんは昔、イエス様がサタンのすべての試みを押し退けて勝利されたように、皆さんもそのような過程を経るということを知らねばなりません。ですから終わりの日になれば、物質的な闘争の過程を越え、次に宗教的な闘争の過程を越えなければならないのです。ここにおいて分裂と矛盾、闘争を解決して通じる宗教が出現するのです。このような時代を象徴することが、イエス様が受けた試みであったのです。
イエス様がどんな逆境の場、死の場であっても変わらぬご自身の姿を現されたように、皆さんもイエス様のそんな人格に似なければなりません。また終わりの日にある今日のクリスチャンたちは、イエス様の世界的な心情理念を捜し立てるために、過去に好んだあるものに執着してはなりません。また皆さんは歴史的な使命を持って地上に来られたイエス様の、その人生路程に符号する路程に立っているのですから、皆さんのまえには歴史的な闘いの一時があるということを知らねばなりません。
今まで世界的な栄光を受けてきたサタンが、最後の闘いに敗北して神の息子・娘のまえに屈伏し、敬礼する時が必ず来なければならないのです。
ですから、このようにサタンを屈伏させて神のみ旨のみを現すことができる一日が、どうかすぐに来て、またこのような事をやれる一人の人間が、出なければならないのです。ところでもしもこんな一存在が現れなかったら、イエス様がまず御国とその義を求めて叫んだそのみ旨が、この地上に成されていないことを、皆さんは肝に銘じるよう願います。 それでは、皆さんが生きているこの時は、どんな時でしょうか? 皆さんは今、物質の試みを経て、神のみ旨を成してゆくときに生きているのです。即ち、物質が人間のみならず、地上のある主義主張を越えていって、さらには神様までも屈伏させようとする時に、我々は生きているのです。ところでこのような時が、正に終わりの日であることを皆さんは知らねばなりません。


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