大患難のとき、神様の所有となる

みことば
「神様の所有と人間の所有」1958.11.9
私たち人間の堕落によって被造物は主人を失いました。万物もそうであり、私たち自身もそのような立場に置かれています。堕落することによって人間は神様に絶対的に所有されることができず、また、万物とこの世界を絶対的に所有することができずにいます。そして今日まで、絶対者であられる神様も、造った万物を自信をもって主管することができずにいらっしゃるというこの悲しい事実を私たちは知らなければなりません。
それゆえ、今までの歴史路程は、一人の主人の前に所有されるための路程であったというのです。時代を超え世紀を超えて、今日までその目的を成し遂げるために、波瀾と曲折の闘争歴史を経てきたという事実を私たちは念頭に置かなければなりません。
神様は救援摂理という標語を立てて、御自身に従おうとする人に対し、「この世のものをみなもって私のために生きなさい」と言うことはできなかったのです。このような神様の悲痛な事情を私たちは感じなければなりません。人を万物の主管者の立場に立てるべき神様でありながら、所有しているものをみなもって御自身に従いなさいと勧告することのできない神様の事情を、私たちは感じなければなりません。
イエス様がこの地に来られた目的は何だったのでしょうか。神様が所有できる国、神様が所有できる人、神様が所有できる万物を回復するためでした。またイエス様が主張した主義とはどのような主義だったのでしょうか。イエス様の主義は「自己を犠牲にし、民族と世界と宇宙のために奉仕しよう」という主義でした。宇宙のために多く奉仕し、多く犠牲になった人はその宇宙の主人公となるのです。
それでは、私たちが神様に所有されるためには、どうすればよいのでしょうか。神様のために涙をたくさん流さなければなりません。神様の悲しみを自分の悲しみとし、神様に代わってその苦労を担った分、神様の所有となり、神様の代わりにサタンの讒訴を受けた分、神様の所有となるのです。したがって皆さんが行い、忠誠を尽くした分だけ、神様に所有されるのです。
歴史は今日の私たちに警鐘を鳴らしています。過ぎし日の先知先烈(預言者と義人)の歩みは、私たちの生活に働きかけ、その精神は私たちの思潮を背後から調整しています。ここから離脱する人は、天法によって大手術を受ける時が必ず来るのです。
それでは、神様がその地を取り戻し、地の人を取り戻して、天のものとされたのちにはどうなるのでしょうか。神様の生命を自分のものとして誇ることのできる日を迎えなければなりません。神様の理念と、愛の全宇宙と、人類の前に誇ることのできる日を迎えなければなりません。
イエス様も福音のみ言を強調し、安息の重要性を強調しながら二千年、摂理歴史の曲折の中で戦いの歴史を抱いてきましたが、勝利の栄光の一日を迎えて父の前に誇り、万民と共に安息しようとされたことはありませんでした。このように神様とイエス様が安息できない立場にいらっしゃるので、私たちも安息することができないのです。
それゆえ、安息の日の前には戦争が起こり、安息の日の前には苦痛があり、安息の日の前には死があるのです。これを覚悟して越えて初めて、私たちは安息を味わうことができるのです。イエス様が十字架ののちに安息の一面を感じたのも、そのような道をたどったのちのことでした。
それでは、今、私たちは何を所有すべきなのでしょうか。安息の園、幸福の園、善の園、愛の園、理想の園を所有しなければなりません。しかしこれを所有する前に、私たちはまずサタンに打たれ、天にも打たれなければならないのです。イエス様も、サタンと天に打たれました。ユダヤ教のパリサイ人がイエス様を追い立てたのと同時に、ローマ人たちも追い立てました。その次には、イエス様が十字架で亡くなる時、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・四六)と切実に祈祷されたことを考えると、神様からも捨てられたのです。
終わりの日には大患難が来るといわれています。この時には自己を中心として所有しようという思いが強い者、自己を中心として楽に生きようと行動する者は、強く打たれることでしょう。これが大患難です。しかし人間にこれを経させて覚醒し、大審判を通過させようという神様であられることを思うと、私たちは神様に感謝しなければなりません。
もしこれがないとすれば、真のために生き、真のために死のうとする人は哀れです。したがって死の墓で残る群れが、安息の園の主人公になるのです。
今、この時代は神様の再創造理念を成就すべき天宙時代です。このような時に、新しい安息の園をつくる天の勇士となるためには、まず、サタンが干渉できる要素をすべて出してしまわなければなりません。そして天国にあるすべてのものを神様の前に集め、神様を慰労してさしあげなければなりません。そのためには、天のために歩まれたイエス様や、六千年の間み旨のために行った人が歩んだ道以上の困難な道が皆さんの前に横たわっていたとしても、勇ましく歩んでいくことのできる心情をもたなければならないのです。
イエス様はどうして地獄を主管することができたのでしょうか。もし、善なる面でだけ神様のみ旨に責任をもち、神様のために亡くなったとすれば、天国は主管できても地獄を主管することはできません。イエス様は悪なる環境の中でも自らの節義と気概を守り、天的な基準を立てたがゆえに、地獄までも主管できる基準に立ったのです。
神様は、サタンをも神様の仕事をしたという基準に立たせるために、六千年間耐えてこられました。皆さんが、悪を中心として動いてきた人をみな、善で屈服させる日が大審判の日なのです。そういう立場に立って神様に誇ることができる人は、大審判を越え、神様の所有となることでしょう。
皆さんは来たるべきその一時を迎えるにふさわしい心的基準ができているでしょうか。そのためには、皆さん自身がまず神様のものにならなければなりません。私の主観も神様のものであり、私の生命も神様のものでなければなりません。さらには、家庭や社会をはじめ、私たちがもっているすべてが神様のものとならなければならないのです。
それでは今日、終わりの日に置かれた私たちはどうすればよいのでしょうか。「そういう父の悲痛な事情、曲折の心を私たちに知らしめ給え」と切に願うべきです。そしてさらには、自分のすべてを捧げてまでも蕩減の道を行かなければなりません。これが終わりの日の聖徒が行くべき道です。そのような所を探し求めて先に越え、勝利すべき、世界的な運命の道に置かれた私たちなのです。
聖書では終わりの日には七年の大患難が来ると預言されています。今後試練と試験を嫌って避ける者は、天国へ行くのは難しいでしょう。しかしこのような時を喜んで、「どうか来たらしめ給え。たとえ私の生命が途絶えることがあったとしても、七年の大患難を越えさせ給え」と言うことができる息子、娘が現れることを神様には願っていらっしゃるのです。
そうなれば六千年歴史をはじめとして、天国と神様の心情まで所有する者になることができるのです。そうして私たちが話して要求すれば、いつでも神様が応じてくださるような所有的な存在、すなわち神様に代わる絶対価値的存在として立つことができるのです。
そうなって初めて、父は私たちのことを誇り、私たちは苦労された父の前に謹んで敬拝を捧げ、慰めてさしあげることのできる日が来るのです。

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