阿南信義

審判の時にどう備えるべきか

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今、世界は新型コロナウイルスによるパニック状態に陥っていて、社会的経済的な混乱が生じています。中国武漢からその病原菌が燎原の火のごとく、瞬く間に全世界に広がっていることに対して、どうすることもできない状況で、人類は大きな試練の中にあります。

まさに神の審判の時をむかえているように思います。
その審判に備えるためにどうするべきか。人間の心理として、自分を守るために行動する人々の姿が多く見られます。


そもそもなぜ審判があるのかという根本問題を知ることが重要なことだと思います。その根本原因を知らない限り、襲ってくる審判を人類は克服することは不可能なことになるからです。

真のお父様が1958年12月21日に語られている中に、「審判」の根本問題についてのみことばがあります。

またどうすれば、「審判」をさけることができるかという方向性を示してくださっています。



真のお父様のみことば  「真を探してさまよう人類」1958.12.21

 悲しみが六千年前の神様の心情から始まったがゆえに、今日までの歴史は悲しみの歴史として残っていて、私たちには悲しみの実が生まれました。したがって、神様の心中にしみたその悲しみを解くまでは、今日の人類の悲しみは解消させることができないのです。

 積もった曲折は、積もったその場に行って蕩減復帰しなければならないのです。これが救いの摂理の鉄則です。これが鉄則というなら、今日の私たち人間には私自身を探して立てるために、なくしたその心情を探さなければならない歴史的な終末時代、すなわち終わりの日が来るというのです。

 では、終わりの日にはどのようになるのでしょうか。一つの心情の標準を定めておいて、その心情を基準として審判するようになるというのです。

 昔、エデンで追い出された人類始祖は、神様の心情を知らずに、自分を中心として悲しみました。ゆえに今は、私の体の悲しみと苦痛を忘れて、まず神様を悲しみと苦痛から解放してさしあげなければならないのです。そういう私にならずには、歴史的な怨恨を解き、乗り越えていくことができないのです。


堕落によって生じた悲しみと苦痛を解怨しなければならない終わりの日に処した私たちは、これから神様の心情を身代わりしなければなりません。六千年間悲しんでこられた神様に代わって悲しむことができなければなりません。六千年間苦痛を受けたその神様に代わって苦痛を受けなければならないのです。その神様に代わって打たれなければならない立場に置かれている人間なのです。ところがこのようなことを知らない人間なので、天は「審判」という名詞を掲げておいて、人間に対して涙を流しながら摂理していらっしゃるというのです。

 では、審判を避けることができる道とはどのような道でしょうか。私の体をつかんで泣くのではなく、自分自身の苦痛のゆえに泣くのでもありません。私を救うために私の苦痛よりもっと大きい苦痛をもってこられた、神様の苦痛を知らなければならないのです。私の悲しみよりもっと大きい神様の悲しみがあり、私の体のつらさよりももっと大きい神様のつらさがあったということを知らなければなりません。

 そうして私の一切を否定して、背後で歴史を動かしてこられた神様の心情にしみている、すべての苦痛を解怨してあげるのです。そのようなことに耐えることができる自分を探して、さまよわなければならない運命の中に処しているのが、今日の人類なのです。


 それゆえ、今は堕落の種族になったそのエデンの悲しみを退けて、エデンの喜びを獲得できる一つの群れがこの地上に現れなければならないのです。そういう群れが現れないとするなら、神様の六千年の復帰摂理は根本的に破滅の危機に処するはずです。


 イエス様の念願成就は、霊肉を合わせることのできる一つの理念世界で可能なのです。そのようになってこそ初めて、霊肉を備えた一つの父母が天地間に現れます。摂理の法度を通して見る時、一般的な歴史観が相対性をそろえた歴史観として、相対的に定立されるその日が人類歴史路程に必然的に来なければなりません。そのような理由で、今日人類が一方的な面だけを講ずるならば、「悲しみの世界で悩まなくてもよい」と言っても、そうせずにはいられなくなります。


 このように見る時、復帰の運命の道を歩いている私たち人類は何を探さなければならないのでしょうか。永遠に愛することができる私の真の体を探さなければならないし、この体の父母を探さなければならないのです。体の父母を探す前には心の父母、霊の父母が現れる道理がありません。なぜなら、天地の創造が外的なものからなされて出てきたためです。ゆえに皆さんが文を書く時にも、左側から書いていくのです。右から書いていかないのです。これも創造理念の存在方式を表現しているのです。


 今日、人間が苦痛の中で叫ぶうめき声はいつ終わるのでしょうか。神様の代わりに私の体を愛してくれることができる父母を探すその一日を迎えることなしには、人類の苦痛をこの地球上から除くことはできないのです。皆さんがどんなに優秀だったしても、皆さんは肉の真の父母をなくした人間です。真の父母が出てこない限り、真の子女はあり得ないのであり、まだこの世は罪悪の世の中であり、地獄の世の中であり、苦痛の世界に違いないのです。

 皆さんは、六千年歴史を代表する祭物です。したがって、六千年を代表する祭物になるためには、六千年間人間をして祭物を捧げるようにした神様の心情を知って現れなければならないのです。


 エデンの園でアダムとエバが堕落して、神様の愛の圏内から追い出される時、どうしましたか。彼らは、追い出される自分を悲しがりました。それが人類の涙の起源になり、苦痛と辛苦の起源になったのです。しかし、エデンの園にはそのようなアダムとエバだけがいたのではありません。神様はアダムとエバを追い出しながら、追い出される彼らの悲しみよりももっと大きい悲しみの心情をもたれたのです。

 それで皆さんは、神様の愛の圏内から追い出された種族であり、その子孫となりました。そのような人間は、自分を中心として悲しんでいますが、神様は追われ出ていく人間を見て、今日も悲しんでいらっしゃるのです。

 それでは、自分を中心として天を裏切り追い出された人間は、どのようにして復帰されますか。私の悲しみや、私の悔しさや、私が死のうが死ぬまいが、自分のすべてを否定して神様の悲しみと神様の苦痛と悔しさをつかんで、涙を流すことができる群れにならなければなりません。そうでなくては復帰されないのです。






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