人間はなぜ対立と闘争をするのか

堕落観念をもつ‐礼拝
ヘーゲルの弁証法では事物は対立と闘争からなって発展するというような理念です。それはどこから来ているのかという根源は人間の良心と肉心の葛藤と闘争からきています。
それは堕落してしまっている人間の姿であると我々は原理から判断しています。堕落した人間をもとにして思想構築したのがヘーゲルの弁証法であり、そこから共産主義唯物論は出発しています。
それはサタンの思想であるといえます。対立と闘争を煽ぎながら、自己を正当化させ、地獄を拡大しようとするサタンの戦略であることを知らなければなりません。
なぜ人間は対立し闘争するようになるのか。結局は堕落していてサタンの支配を受ける立場であるので、その影響を受けている状態で、サタンの思想を実践しているのが現実の世界といえます。
真のお父様が堕落観念を持ちなさいと言われます。その堕落観念をもつことで本然の観念に立つようになります。そのためにみことばを訓読し、祈祷生活、11条生活をすることを重要視することになります。
神様は授受法の理念です。そこには対立と闘争のない世界です。愛によると調和と統一によって平和がもたらされます。
神様の中に闘争と対立の思想はありません。
サタンは自分だけが正しく、相手が悪いと言って、闘争するようになり、神様は自分の責任であるとして相手をゆるすという愛の思想を持っておられて、堕落した人間の復帰に責任をもっておられます。
共産主義は闘争による暴力の革命で世界の半分を支配してきて、さらに拡大しようとしています。その本質を見抜いて、罠にかからないようにし、真の愛の革命を起こさねばなりません。それが伝道だと思います。
真のお父様のみことば 「信仰の三子女と本然の家庭基盤」1983.5.13
ヘーゲル弁証法は間違っている。ヘーゲルは弁証法における「闘争」という観念をどこから引き出してきたのか。人間の心の中に深く入ってみれば、良心と肉心は闘っている。そこで闘争観念が元々からあるというように考えられてきたのである。
だから、神が創造した世界そのものに闘争があると曲解されてきた。それは堕落観念が分からなかったからで、根本的問題である。 人間の本心を深く探ってみれば、人間は相反する二つの性質でもって対立しているというように考えられてきた。ですから、そういう二つの要素が組み合わされた人間の、良心的な基準と肉心的な基準に対応しながら、歴史が発展してきたという観念がすぐ生まれるのです。
それゆえ、ヘーゲルにおいては「堕落観念」を生み出すことができなかった。これは、根本的問題である。堕落した結果としての人間自体を分析してみれば、相反する二大性質で結合している。それが、そもそも神の創造の原則だと思うから、宇宙はそうなったとする根本的原論を立てるようになった。
そういうふうに考えてみた場合、今の共産主義思想は現在のすべての事象を弁証法理論による歴史的発展の中で主張する。現実の一切を上部構造と下部構造に分立させ、論争、対決の相対圏を立たせて解決し、発展させようという戦闘的な理論を引き出している。発展するには、以前のものを破壊しなくてはならないという理論が必要になってくる。そもそも、ヘーゲルの弁証法は、その基準を堕落しなかった人間の立場から考えた。
しかし、事実はそうではない。堕落した人間であったから、良心と肉心の対立、闘争が始まったのである。もともと、人間の中には矛盾した性質はなかった。 そういう面から見た場合に、我々は、本源の基準に一致する現実的な運動というものが絶対必要である。ヘーゲルは、「生活の場」が矛盾をはらんでいると見た。それが平常なものであって、宗教は異常なものだと思うようになったのである。そうではありません。
ヘーゲルの考えは間違っている。堕落した結果の人間を中心として、堕落前の本然の人間の出発基準において考えた点が間違っていたのである。 我々がここで強調しなければならないことは、堕落観念を早く宣布することである。我々人間自体の中で、良心と肉心とが相争って闘っている。その二つの力の拡大が、世界の分立体として、民主主義世界と共産主義世界、唯心、唯物の世界として現れている。その結実として収穫期に向かって進んでいるのが、末世紀(終末時代)の時代思潮の現象である。はっきりしているんだよ。

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