原理学習の姿勢とその重要性
先日の15日、こちらの聖殿では、原理講義を行いました。14名参加しました。
その講義をする度に必要性重要性を感じております。それは現実世界が非原理の世界であるため、どうしてもその影響を受けてしまい、原理的判断が薄れていくようになるからです。
①原理学習は自己を再創造することができる。
②地上のシックが原理を学ぶことを通して霊界の人々が再臨復活できる。
③原理が分からずに責任を果たすことができなかったので、原理を学ぶことを通して責任を成就することができる。摂理的使命を全うするためには原理のみことばを体恤する必要がある。

真のお父様のみことば 原理大修練会開講式における御言1967.6.17
もう一言は、この原理を研究するにおきまして、重大なことは、これがただ勉強するという観念でここに参席してはいけない。創造原理から堕落原理、あるいは復帰の路程を、ずうっと講義する間におきましては、それは講義する人の講義ではない。講義されている君たちの講義である。また、先生から賜ったその言葉じゃなくして、君たちが直接解決すべき言葉である。
だから、その原理を探すための立場を君たちが先に立っておるという観念ですね。この人間の重大な問題を解決せんがために非常に悩み悩んで、どうにもこうにもできない、その泣くような立場に立って、こういう重大な問題を天から、あるいは君たちの祈りから、その解決されるその瞬間に臨席するというような気持ちが何よりも必要である。そういう基準が、自分の悩みの涙の中でこれを解決した時のその喜び、天に対しての感謝、自分ながらの嬉しさを感じるようなその気持を原理講義の中で、いかに体験するかということが何よりも重大な問題である。
もし、アダムの家庭のことを聞くというと、そのアダムの家庭は過ぎ去った昔の我々の先祖の家庭じゃない。それが復帰という、蕩減条件ということを立たせるには、それは再臨の基準を我々自分ながらその基準に立って、そういうあらゆる蕩減を現在の平面圏に蕩減条件を立たせなければ完全復帰はできない。それを誰がやるか。自分がやる。だから、アダムの家庭のすべての原理の内容は、自分がやるべき、やらなければならない重大な自分のことである。
だから自分のことを、すべてのものが、あらゆる存在が、もしくは天自身ながらも、神御自身ながらも、先生共ながらも、ここで講義しておる先生ながらも、みんな合わせて自分のやるべき仕事に対して、責任に対して勉強する………。だからこの時間がいかに重大な時間であるか。ここにおいて善なる基準を立てなければ君たちはその基準を中心として、完全なるアダムの家庭なら家庭の基準を復帰することはできない。はっきりした完全基準を中心として自分の原理的限界を解決しないというと、事実責任を持ってそれ行動に移して、その目的完遂するということは全然不可能であるわけなのです。
それで、こういう立場に立っている君たちと思いまして、すべての原理は自分たちの難問題を解決する催しである。天から最高、最上の恵みとして下さる催しの時間であるということを、つくづく感じながら、この講義に臨席して下さることを切に願うのであります。

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