僕の王様になることは神様に通じる
雨の東京に来ています。宿を探しながら、さまよっているとビルの下でひっそりと野宿している方々がいます。ふとその人たちの方が神様に近いのではないかと。
真のお父様のみことば 「故郷に帰りましょう」1978.9.22
ですから僕の道をいくのです。朝早く出かけて、夜遅く帰ってくるような、女中の中の女中になれというのです。僕の王様になれというのです。それが神様に通ずるのです。素晴らしいことですね。
神様になれと言われればむずかしいのですが、僕の王様になれば、神様の立場に通じるのです。汗し、涙して、不平を言ってはいけません。希望をもって、黙々として、三年路程を通過していけば、先生の言うとおりにやれば、必ず勝利できます。それは、みんなを占領します。実に素晴らしいことです。三六〇軒を訪問しても、最初は「統一教会、この野郎!」とつばをかけられたり、いろいろあるでしょう。でも黙々とやるのです。
一つの峠を越えたら、また蕩減の峠がむかえにきます。待つのです。個人が青年が反対し、町内会長が反対し、市長が反対し、全体が反対します。そのためには、祈りとともに霊的サタンを屈服させるのです。そうすれば必ず実体的にも屈服してきます。そういう現象が必ずおこってきます。そうしてあなたたちにどういうことがおこってくるか、ということをみんな教えてくれるようになります。
そうでなければ、あなたたちは霊界を開拓する道を発見することは絶対できません。そこに感謝しえる自分にならなければ、神様がいます、という体恤は絶対にできません。その蕩減条件の絶頂に達すれば、良くやった、と必ず賞賛を授けます。

東京新宿は雨でした
「僕の王様になれば、神様の立場に通じるのです」というみことばから何のための伝道であるのかを改めて教えられています。
ややもすれば自分の中にみことばを伝えないといけない、韓オモニの不信や家庭連合の間違いを伝えないといけないという思いがでてきます。しかし伝道の目的は神様の立場に立たない限り果たすことはできませんし、相手は自然に屈服することはできません。
どれだけ僕の王様となっているかという観点から、周りを見てみるとそうなっていない自分の姿が多くあります。地域の人々に対してそうすることができているか、今までの友人たちに対してそうなっているのか、氏族に対してはどうか、聖殿シックに対してどうなのかと反省するばかりです。
「僕の王様になれ」と1978年の9月、神川村で真のお父様から直接伺っている自分でありながらも・・・。
その気持ちを持って、1月25日までの期間を集中したいと思います。
みことば「故郷に帰りましょう」1978.9.22

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