阿南信義

ペンシルベニアを想い起こすとき


10月にペンシルベニアの鉄杖自由祝祭に参加して、日本に戻ってきて、あっという間に一か月経ってしまいました。その時に参加して得た心情、天からの恵みを忘れないようにしなければと思いつつ、時間がたつとどうしても薄れていくようになるのを反省するものです。

私は訪米するときに、色々と準備をしますが、一番神経を使っているのは持参する「みことば」です。真のお父様のどのみことばを持っていこうかと考え、悩む時間がとても嬉しい時間です。長い飛行機の時間があるので訓読の時間としています。実体の本を持って行っても機内では隣の方に迷惑になります。機内は暗くしているので電灯をつけられません。

それでデータのファイルをアイパットに入れて持って行きました。それを機内の時間、また宿泊するところで時間があるときに、繰り返し訓読することにしました。
10月の訪米のときに準備したみことばのファイルは「天の心情を誰が知っていたか」「天勝日のみことば」「第4回天勝日のみことば」「家庭教会は天国基地」「人間の生と霊魂の世界」の5篇のみことばでした。それを今回の訪米の期間4回ほど繰り返し訓読しました。

それを選んだ理由は、最近伝道が進んでおらず、どうするべきかを神様に祈り尋ねたいという心情にかられ、ペンシルベニアで祈るにふさわしい自分の心情を準備せねばと思わされたからです。

10月13日の昼、康真のお母様のお墓の前で祈る時間が与えられ、多くの心情を教えられたことがあり、忘れることができません。それを思い返し、実体化するために再度みことばにかえりたいと思います。




真のお父様のみことば 「誰が天の心情を知っていたか」1960.1.17

これから私たちは、歴史が血に染まった歴史であることを知らなければなりません。涙が数千万回流されてきたみ言であることを知らなければなりません。私が立っているこの地を探すために、この人類を探すためにそうであったのです。この人類の背中には先祖の血のあとが残っています。この人類の額あるいは服のすそには、先祖の血の涙がにじんでいます。これを見ることができる人とならなければなりません。

 先祖たちは涙を流しながら死んで当然ですが、生まれながらにして神様の息子であり、生きながらも神様の息子であり、死んでから復活したとしても神様の息子であったその息子の涙と血のあとが、私たちの体に染まっているのです。教えたいと願ったイエス様の心情を、この時代に生きる私たちが知ることのできる権限を与えられたとしたなら、その栄光を何で報いますか。

 神様は、知らせるために六千年間も苦労なさり、イエス様を送られ、先祖を犠牲とされましたが、無意味で無価値で無感覚な全人類を集めておいて知らせるその一言の言葉は、数千万の善なる人々が首をしめられ、血を流した祭壇のみ言であるというのです。

 その一言のみ言には、死刑場で消えていく数千数万の善なる人々に、知らせてあげることのできなかった神様の曲折が葬られているのです。皆さんが創造原理から復帰原理まで全体のみ言を受けるようになるとき、そのみ言の一言一言には、血の涙が絡まっているというのです。それを探すために苦労した人は差し置いてでも、歴代の先祖たちの血の涙とため息が、切々と入り乱れていたのです。

 それを探すために、いかなる道も甘受してきた人がいるとすれば、彼が歩んだ路程には一言のみ言を探し出すためにも血の涙を流す事情が込められており、呪いと恨みがあふれる歩みをいとわず歩んできたのです。

 その一言のみ言のもとには血涙が漂っており、死のうめき声が自分を催促していることを感じる者であってこそ、歴史的な神様の心情を知ることができ、歴史的な神様の事情を知ることができ、神様が願って探してこられた息子の面目を保つことができるのです。そうなるならば六千年後に生まれた息子だといっても、心情を中心としては六千年前の自分でもあり、心情を中心としては四千年前の自分でもあり、心情を中心としては二千年前のイエス様と同じであり得るということなのです。

 私たちはこのみ言を通過しなければなりません。み言を通過するにおいては、血の筋が伸びて流れ、涙の道が遮られています。それをいとわずに行かなければなりません。そのみ言を通過し、実体に侍らなければならないので、傷を負って十字架にかけられ、死の境地にある実体を迎えることができる悲壮な覚悟をもたなければなりません。このみ言をもって立ち上がったときに、天の裏切り者であるとして、良くない烙印を押されたとしても、あるいは裏切られ、露のように消えてしまうようなことがあるとしても、「私は血のにじんだそのみ言とともに死んでいく」と言うことができる気概のある人々とならなければなりません。

 み言を失ったことが堕落なので、み言を捜さなければなりません。み言を見つけたのちには、何をすべきでしょうか。み言を見つけたのちには実体を復帰しなければならないのです。実体に侍るには、事情が通じなければなりません。事情を通じさせようとするとき、どのようにすべきでしょうか。心情がつながらなければなりません。

 今までの救いの摂理歴史は、み言を通過する歴史でした。それゆえ、人類は真理のみ言を探してさまよってきました。真理を見つけたのちには、実体を通過しなければなりません。この実体を通過できない恨が残っているがゆえに、この地に実体の主人公である一人の方が来られるのを願うのです。これが再臨思想というものです。

 実体通過の恩賜を受けたのちには、新婦の装いをして、新郎新婦の因縁を結び、心情の門を通過していってこそ、神様の相続者になることができます。み言をもってしては相続を受けることはできません。肉身だけもってしては相続を受けられないのです。実体がみ言の化身となって、神様の心情を通過したという合格証をもらってこそ、天上天下の大主宰であられる神様の息子、娘となることができるのです。


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みことば「誰が天の心情を知っていたか」


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Posted by阿南信義

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