阿南信義

精誠の革命を捧げるとき



二代王様は10月14日を重要視されて、鉄の杖祝祭を挙行されました。ご存知のように10月14日は真のお父様の以北出監記念の日です。興南強制労働収容所からの解放の日です。その日を中心として革命を起こされています。私たちもまた二代王様を中心とした神の王国の精誠の革命を起こさねばと思います。

それで、真のお父様が興南強制労働収容所に行かれれるようになった背景を明確に知って、教訓化することが必要と考えます。家庭連合(旧統一教会)が摂理からはずれ、失敗したのは神様が準備された背景を忘れ、真のお父様が通過された心情を理解しなかったからといえます。




真のお父様のみことば  1971年12月27日 ワシントン
 東海岸地方で起きた霊的な運動には、また他の後継者がいました。その名前は李龍道氏であり、彼は牧師でした。彼は人々に多くの聖霊の火をつけたのです。そのようなことをなすことによって、天は霊的な働き手を一つにまとめようとされたのです。

 霊的な運動も二種類の形態に分かれました。すなわち、一つは内的であり、もう一つは外的なものでした。李牧師を中心として、「新イエス教会」が始まりました。その時、これら二つの教会、すなわち「腹中教」と「新イエス教会」を統一しなさいという天からの教えがあったのです。

 それで西側の集団が一つになるために、東側の集団がある所へ行ったのですが、東側の集団は彼らを受け入れてくれなかったのです。そのため、これら二つの集団の統一が失敗することにより、神様は一つの新しい運動、新しい分野の開拓者を必要とされたのです。

 それで神様は、ご自身の指示を受け入れることのできる、また別の一人の人物を得ることを願われたのでした。それは金(百文)氏でした。その後李牧師は亡くなり、彼の霊が金氏の所に来て、霊的に自分の使命を引き継がせたのです。この金氏から新しい集団が生まれたのです。

 それを成長過程の観点から見れば、初めの路程は蘇生段階であり、李(龍道)氏は長成段階、そして金(百文)氏は完成段階であったのです。すなわち、李牧師は長成の位置にあったのであり、それは、イエス様と同じ位置でした。彼は1933年に33歳(数え年)で亡くなりました。韓国の解放は1945年にありました。その間に12年があったのです。

 このことによって皆さんは、天が主の為の道を準備されることを、どれほど願われたかということを知ることができます。神様は日本人の圧制に耐え抜くようにと、そのように早くから始められたのです。このような環境の中で、先生は自分の道を準備し始めたのです。

 許婦人を中心とした、その西側の集団は、解放後に再臨主を待っていました。彼らは、来られる主は、新婦がいなければならず、そのかたは家庭を成すために来られるのだということを知っていました。それで彼らは、すべてのものを準備したのです。新婦と家庭を成立させることのできる環境を準備して、12弟子と70門徒を選んだのです。彼らは平壌で一番よい家を買いました。よい家を買って主の為に準備をしたのです。その当時、先生は南韓にいたのです。

 復帰摂理から見る時、自分をヤハウェ(エホバ)の妻として宣言する一人の女性がいなければなりません。この女性を探さずしては、摂理を成就することができません。それで先生は南韓で、そのような一人の女性を探すためにあらゆる宗教団体と、有名な牧師たちを訪問しました。そして解放後、三か月たった1945年10月に金(百文)氏に会ったのです。先生は、彼に大きな使命があるということが分かったので、彼に会ったのです。

 その当時、彼はプロテスタントの修道院を一つ持っていました。彼は、天から一つの修道院(イスラエル)を所有しなさいというみ言を天から聞いたのです。それで先生は、その集団を探しに行って、彼に会い、彼と共に六か月の間そこにとどまったのです。

 その期間、神様はさまざまな方法で役事されました。そこには、金氏に従った多くの女性がいました。先生がそこに行くまでは、彼女たちは金氏に従えという啓示を受けていました。ところが、先生がそこに行った後に、彼女たちは金氏ではなく、先生に従いなさいという啓示を受けたのです。その当時、先生はまだ原理を語りませんでした。イエス様が洗礼ヨハネから祝福を受けたように、先生は金氏からすべてのことを相続するように予定されていたのです。

 六か月後、金氏は天から啓示を受けて、彼は先生の頭に自分の手を置いて、全世界のソロモン王の栄光が先生に臨むように祝福したのです。しかし、その当時、先生は話をしませんでした。先生は僕のようなことをしていたのです。自ら、座った場所を清掃するなど、あらゆることをみなしました。先生は一番下の位置にいたのです。先生が金氏に会ったのは、大きな意味を持っていました。

 先生はその当時、とても熱心に祈祷しました。もし、金氏が天から先生にそのような祝福をしてあげなさいと聞いたならば、彼は先生のすべてのことを理解するために、先生に質問をしなければならなかったのです。それが彼の五パーセントの責任分担だったのです。

 ところが、その時、以前彼に従っていた篤実な追従者たちが、先生に従ったのです。彼もそれを知って、それをよく思いませんでした。とにかく先生は、彼から祝福を受けて、彼が持っていたものを相続したのです。

 先生が金氏から祝福を受けた後に、先生はアンナ(新約聖書に出てくる、メシヤを待望した預言者)のような一人の年老いた女性を探さなければなりませんでした。その女性は、自分自身をヤハウェ(エホバ)の妻であると主張する女性でなければなりませんでした。その当時、南韓と北韓の間を往来する人たちはたくさんいたのですが、先生は北韓に自分がヤハウェ(エホバ)の妻であると主張する一人の女性がいるということを突き止めました。

 しかし、蕩減復帰の原理に従って、先生を待って準備しているその集団に、先生は会いにいくことができませんでした。イエス様が亡くなられた理由は、彼がその新婦を持つことができなかったためです。イエス様を迎える新婦が準備されなかったためだったのです。それが、彼の死の原因だったのです。

 それゆえに再臨主が来られる時、その準備された集団は新婦の位置で準備したものを持って、彼らが訪ねていかなければならないのです。もし、その準備された集団の指導者であった女性(許婦人)が、主がおられる所を知るために神様に祈祷したならば、神様が彼女にその場所を教えてあげたことでしょう。天は彼女にその場所を教えてあげることができたのです。それで先生は、彼らが来る時まで待っていたのであり、先生から彼らがいる所へ行くことはできなかったのです。

 その間に、先生はアンナのような女性に出会うようになりました。その女性は、時には天の側で働き、時には中間の立場で働くという、両面の業をなしていました。しかし、サタン側ではありませんでした。

 年を取った多くの女性に会った後、先生は許婦人に人を送り、先生の集団がどのようなものであるかを祈祷してみなさいと言いました。しかし、その時、許婦人は一つの大きな徴候を期待したのであって、一人の若い男性には期待すらしなかったのです。先生は、特別な人ではなく、普通の人を送ったのです。その人に会った彼女は、彼が大きな使命を帯びているということを悟ることができませんでした。それで彼女は、彼を送り返したのです。

 その後先生は、一人の若い女性をその集団に送りましたが、その集団から何も反応はありませんでした。その時、許婦人は、彼女の集団の幹部たちが一つの場所に集まった時、また別の啓示を受けました。それは、春香が監獄で彼女の夫に出会ったように、彼らが主に出会うだろうというものでした。彼女は「おまえは、春香が監獄で彼女の夫に出会ったように、主にお会いするだろう」というみ言を聞いたのです。

 その当時、北韓は共産主義者たちによって占領されていました。そして共産主義者たちは、この集団が人々からたくさんの寄付金を集めて、よい服をつくり、よい家を買ったということを突き止めました。それで彼らは、この集団を宗教的詐欺集団として告発しました。彼らは、すべての幹部たちを監獄に放り込んだのです。そしてさらに、先生もその集団と関連していると告発されたのです。実際に、先生はいかなる関連もなかったのですが、同じように告発され、収監されたのです。

 先生が収監されたその部屋には、許婦人のもとでその集団を率いていた一人の男性がいました。その人が先生と同じ部屋にいたのです。その日は1946年8月11日でした。その集団の幹部たちは、共産主義者たちによって、とても過酷な拷問を受けました。共産主義者たちは、許婦人に、「もしあなたが啓示を受ける時に、お腹が痙攣を起こすということを否定するならば、解放されるだろう」と言いました。

 当時の金日成は宗教を迫害し、すべての宗教を抹殺させようとしました。そして、許婦人の弟が激しい拷問によって亡くなりました。さらに、許婦人も同じく激しい拷問を受けて、彼女の服はほとんど破れてしまいました。
 さらに、先生も共産主義者たちによって拷問を受けました。そして、11月21日に釈放されました。その時先生は、血をあまりにも流したのでほとんど死んだ状態でした。それで先生に従っていた人たちは、先生が死にそうだと思ったのです。しかし、先生が再び生き返ったことは、一つの奇跡であったのです。

 先生が、許婦人に次ぐ立場の人の部屋に入っていった時は夜の11時でした。その日の夜、その人は、先生に関する一つの啓示を受けました。先生がその部屋に入っていった時、彼らは眠っていました。先生には以前、そのような経験があり、それでそのような環境にとても慣れていたのです。先生は便所の隣で眠ったのです。

 その部屋の中には、多くの囚人たちがいました。翌日の朝、監房長(許婦人の集団の指導者)が言いました。その部屋の規則は、一番遅く入ってきた者が、一番悪い(よくない)場所で寝るということです。しかし、その監房長は、立ち上がって他の人たちに、この新しく来られたかたは特別なかたであるので、自分の隣に座るようにしてくれと言ったのです。

 先生がその人の隣に座った時、彼は先生に敬拝をしました。先生がなぜ敬拝をするのかと尋ねると、彼は昨晩、一つの啓示を受けたと答えたのです。彼は啓示で先生に敬拝をする許婦人を見て、彼女が「今、私がお会いしたかったその人に出会った」と言ったので、先生の顔を見ると、先生がその人であったというのです。

 それで、その日の朝先生は、彼に「私はあなたが体験してきたすべてのことを理解できるので、私にあなたが体験したすべてのことを話しなさい」と言いました。それで彼は、彼の集団で起きたすべてのことを話し始めました。先生は、すべての復帰の原理をすべて理解できましたが、その人たちには分からなかったのです。

 しかし、彼らがそれほどまでに準備してきたために、先生は彼らが、どれほど苦労したかを理解することができました。さらに先生は、共産主義者たちが、もし彼らが天から啓示を受けたことを否認したならば、彼らを釈放するであろうということを知りました。それで先生は彼に「もしあなたが共産主義者たちの前で、あなたが経験してきたすべての事実を否認しさえすれば、私がすべての責任を持つ」と言ったのです。

 さらに、先生は彼に「もし、許婦人がうそを言って、彼女が体験したことをすべて否認すれば、一人の若者がすべての責任を持つということを許婦人に伝えなさい」と話したのです。先生はその言葉を許婦人に伝達するように彼に頼みました。昼食の時間に、食事が配給された時、その若者は許婦人に話をしました。それで彼は、先生が話したすべてのことを彼女に話したのです。
 許婦人は、春香が監獄で彼女の夫に出会ったように、彼女が主にお会いするであろうということを、天から啓示を受けたのだと言いました。彼女が言うには、「私は誰も見なかった。だから私はあなたの言葉に従うことができない」と言ったのです。しかし、その監房長は、否認したがゆえに釈放されました。

 その人が釈放された後に、許婦人の夫が先生の部屋に来ました。先生は彼女の夫にも、その若者に話したことと同じ内容の話をしました。しかし彼女の夫は、自分の妻に従うと言い、先生の言葉を受け入れようとはしなかったのです。
 最後に先生は一通の手紙を書きました。手紙を書けば、別の効果があるだろうと考えたからです。それは9月18日の朝でした。先生は、食事の時にご飯を配達する人に、その手紙を許婦人に渡してくれるように頼みました。

 彼女はその手紙を読んで、破ってしまおうとしたのですが、共産党の監視員に見つかってしまったのです。それは、その手紙を渡してくれた人が、看守に知らせたためでした。先生は「この紙切れに書いた人は天の使命を持った人である。あなたは祈祷してそれがどんな人なのかを知らなければならない。もし、あなたが啓示を受けたすべてのことを否認すれば、あなたは釈放されるであろう」と書いたのです。

 その紙切れは看守に発覚してしまいました。それで先生は拷問を受けたのです。それは1946年9月18日、午後2時のことでした。その時、先生は南韓にいる米軍のスパイとして告発され、ソ連の調査官によって尋問を受けたのですが、無罪だということが判明したのです。そして、11月21日の午後に解放されました。先生が詳しいことを話そうとすれば、もっと時間が必要です。許婦人と彼女の追従者たちは、否認しませんでした。そのため、1950年に韓国動乱が起きた時、彼らはすべて虐殺されたのです。

 その集団の失敗ゆえに、先生は別の人々を探さなければなりませんでした。先生は、条件的な数を求めることのできる時まで、そこで歩まなければならなかったのです。監獄から釈放された後に、先生は他の集団と関係を結び、その人たちを導きました。先生が教会運動をするや否や、食口の数が増加したのです。

 しかしその当時、北韓の政府の政策は、すべての宗教を抹殺しようとするものでした。そして既成教会の牧師たちは、彼らの教会の多くの信徒たちが先生の所に来たために、先生を告発したのです。それで先生は、三度目の投獄となったのです。その日は1948年2月22日でした。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村
スポンサーサイト



阿南信義
Posted by阿南信義

Comments 0

There are no comments yet.