国破れてもキリストを捨てず


 ―大分聖殿、フランシスコ大友宗麟公の命日墓参―

 戦国時代、宣教師フランシスコ・ザビエルが伝えたイエス・キリストの福音に接し、長い禅宗修行を経てキリシタン(クリスチャン)になった九州の守護大名・大友宗麟公(1530~1587)は、信仰世界においても日本を代表する人物であった。受洗(1578年)以後、薩摩国・島津氏との十年余に及ぶ激闘の末、国は敗れ、権威も失うが、キリストに対する絶対信仰を変えることはなかった。その一部始終を目撃した宣教師カブラルは、彼について「すべての騒乱の責任を自らの罪に帰す、善きキリシタンであり」、「ヨブのような」信仰者であった、と評している。

 異邦の国日本において、神とキリストへの絶対信仰の基準を立てた先人・大友宗麟公と、その配下の多くのキリシタン先祖たちの協助を受け、氏族的メシヤ摂理に取り組んできた大分聖殿(阿南信義教会長)は、宗麟公の432年目の命日にあたる6月28日、佐伯市堅田長谷上城の天徳寺(川野泰斉住職)にある宗麟公の墓碑を訪ねた。

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大分聖殿が、天徳寺に宗麟公の墓碑があると知ったのは昨年暮れ。同地方で禁教時代、宣教師を匿い信者らを世話した女性キリシタン「るいさ」の信仰を訪ね、追跡していくなかで、霊界から導かれるように示された。禁教令が敷かれた徳川時代、宗麟公臨終の地・津久見(つくみ)の墓地から密かに移し、隠された墓碑であった。

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2016年6月28日津久見市での命日墓参


昨年8月以降、2代王亨進様はアベル圏クリスチャン、洗礼ヨハネ人物を召命され、またアボニムの火を地上に投じる「聖霊の役事」摂理に着手された。日本のキリシタン霊界もそれらの恩恵に与り、連動し、協助しているのは間違いないようだ。
 この日は九州が梅雨入りした翌日、午前中から降り続いた雨も午後にはあがり、地元大分と長崎から参集した食口たち(12人)は天候にも導かれ、長い一直線の坂道参道を歩いて上った。風格のある山門をくぐると、川野住職が直々にお出迎え。食口の中には昨年12月に訪ねて以来、半年ぶりに再会する人もあり、懐かしくあいさつを交わした。
大友宗麟公の墓碑は本堂の右手、薬師堂裏側の歴代住職墓碑の最奥部にある。巧みに工夫された「かくれ」時代の宗麟公の墓前に、地元の食口と長崎からも持参したハマユウ、アジサイなどの花を供え、筆者(豊後キリシタン史研究会顧問)が宗麟の命日「6月28日」のこと、何故ここに宗麟の墓があるのかについて少しく説明。阿南教会長が宗麟公の事蹟や再臨摂理に結ばれたキリシタン史を偲び、感謝の祈祷を献げた。

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天徳寺の創建(開山)は、寺史によると「天正六年(1578)」。それは大友宗麟公が禅宗からキリスト教に改宗した記念すべき年である。また「大友宗麟のお骨を津久見(の墓地)より移し、埋葬するとの伝」がある。川野住職は宗麟公ゆかりの「湛慶作薬師仏」を祭る薬師堂、本堂に食口たちを案内され、象のかたちをした香炉、舶来の茶碗などを披露された。「かくれ」の時代を経て、こんにち臨済宗妙心寺派寺院として続いているが、キリシタン大友宗麟の痕跡を確かにとどめている。
サンクチュアリ食口たちと親しく接してくださった住職は最後、「何故か、わたしの寺は(他の寺院から冷遇され?)脇におかれることが多かった」と、もらされた。大友宗麟ゆかりの同寺は、キリシタン禁圧時代の宿命を負った寺院である。キリシタン霊人たちの神の御国建設への協助と、彼らの完成級の復活を願いたい。
 (2019/07/03 宮本次人記)



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