季節の中にある神様の心情

季節の中にある神様の心情
6月のある日にサンクチュアリ通信の編集責任者の方から連絡があり、その7月号への投稿を依頼されました。梅雨の季節でもあり、私の家の近くのあじさいがきれいなこともあって、下記のようなエッセイを寄稿しました。
今は、記録的な暑さが続く中ですが、その季節の中で感じる神様の心情をたずねてみたいと思います。

「雨の日のあじさいの花と伝道」
田舎の田んぼの中で農夫が雨にぬれながら、稲作の作業をしています。
そんな傍らで、あじさいの花が雨の中に美しく咲いています。
今はあじさいの季節です。
それを眺めながら、想いにふけっています。
太陽の光が差し込むことはないのに、雨が降るのにおかまいなしできれいな花を見せてくれます。
ふと、迫害の中でたえてこられたキリシタンの方々を連想しました。
どんな、雨の中でも、嵐の中でも信仰の炎を燃やしてこられたキリシタンの方々はまさに
雨の日のあじさいの花のようです。
成約時代、真のお父様は神様の涙をぬぐわれてこられました。
雨の日は、神様の涙を感じます。
新約のときは、神様の涙を知ることができなかったけれども、私はそれを知ることのできる恩恵を受けています。
多くのキリシタンは迫害と試練の雨しか知ることができませんでしたが、私は神様の滂沱の涙の雨を知ることができます。
だから、代わって、今の時代に花を咲かそうと思います。
雨の日に咲き誇るあじさいの花のごとくに。
家庭連合の友人たちはどうしているのだろうかと考えます。そしてともに涙し、闘った日々を思い起こします。
どんな試練があろうとも、勝利された真のお父様がおられたがゆえに、その苦労を超えてきた多くの友人たちです。成約時代の責任を担ってきた尊い神様の子女たちです。
今、アジアに冬の嵐の時代が来ようとしています。悲劇の幕開けがされようとしています。
北による、赤化統一の時が近づいてきました。その責任はどこにあるのか。あそこにあるというのは簡単です。
ひとつ言える事は私も神様のみ声を聞きながら、聞かない振りをしてきた責任があります。それは氏族的メシヤの使命を成就していないことです。その大きな罪が残されています。
今、アジアと国家の危機を克服するためにはその罪を蕩減することをまず、やるべきだと思います。
なぜなら、それが国家的エバの罪の蕩減としてあるからです。
あじさいの花を眺めると、小さな花が多く集まっていて、それがまたあちらこちらに色を変えながら咲き誇っています。
その姿は家庭教会のようです。
天国は家庭教会から始まるというのが天の原則です。それ以外はありません。氏族的メシヤの勝利がなくして、神様の王国はできないのが鉄則です。
人類にその道を与えんが為に、神様と真のお父様は血のにじむ熾烈な闘いを成されてこられました。そのために旧約、新約の時代において神様はもっとも愛するものたちを犠牲としていきました。
家庭連合の友人たちもそのことを忘れないでほしいと思います。
今のとき、アジアを中心として艱難の雨が降りそそぐ前に、成すべきことを勝利せねば永遠の悔いを残すことになりはしないかと案じています。
それゆえ歴史をかけた、氏族的メシヤ摂理の一刻も早い勝利を天は切に願っておられることを知る者として、完全燃焼していきたいと思います。
人類の悲しみ以上にそれを見ておられる神様の涙があることを知って、今、伝道実践することを徹底せねばと思います。
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