阿南信義

悔い改めの必要性

027.jpg


悔い改めの必要性

2000年前イエス様が十字架に行かざるを得なかった背景に、ユダヤ民族がそれまでの歴史の中において、神様からの摂理を失敗してきた罪の悔い改めがなかったことがあげられます。

選民であるという自覚はあるものの、その一方で、神様の摂理を守り、勝利することができなかったことに対する反省、悔い改めはありませんでした。

それゆえ、洗礼ヨハネ、イエス様も「悔い改めよ、天国は近づいた」といわれました。

結局、再臨のときを迎えた、キリスト教も同じような失敗をすることとなりました。過去の先祖の問題を自分のこととして、反省し、悔い改めて、神様の心情圏に立つことができなかったことが、再臨主を牢獄へと追いやり、摂理を振り出しにもどしました。


真のお父様のみことば 1994年2月16日

 皆さんは、神の愛を体験して、一週間泣き続けたことがありますか。細胞がちぎれるほど神様の愛を感じたことがありますか。今までの皆さんは、体の欲望のままに生きてきました。これを悔い改めて、心(良心)の欲するままに生きるべきです。
 そのような生活をすれば、未来に何が起こるかを感ずることができます。心の欲するごとく行い、また未来を予知するためには、徹夜祈祷や朝晩、慟哭して祈らなければなりません。

 七〇歳、八〇歳になれば、体は弱くなりますが、涙の世界が深くなり大きくなっていきます。そのようにならなければ、神様の心情に通じないのです。

 今、私たちは過去を悔い改めるべきです。涙で悔い改めることにより、勝利者になることができるのです。イエス様は荒野で、「悔い改めよ、天国は近づいた」と語りました。この悔い改めが重要です。

 神様は長い期間、人間が心を変えることを待ち望んできました。皆さんが、心を変えれば、その時、神様が皆さんの心に臨むことでしょう。悔い改めなくして、神様は皆さんに臨むことはできないのです。先生は、誰かが先生の心情にタッチするような言葉を一言語れば泣き出してしまいます。私たちはエデンの園を失いました。その失ったエデンの園を復帰するために、どれほど涙を流してきたことでしょうか。

 先生は、今の時がどのような時かをよく知っています。時を知っているから、常に真剣なのです。私たちのみ旨はこれからです。これから神に仕えていかなければならないのです。

 私たちは氏族的メシヤとして、家庭、氏族、社会、国家、世界を復帰しなければなりません。その氏族的メシヤとは、国家や世界を復帰していく事始めなのです。氏族的メシヤになることが、先生の勝利を相続する唯一の道なのです。

 もしイエス様に従った弟子が、イエス様の親戚であったとすれば、彼らは逃げたでしょうか。イエス様は、自分の手のひらに、長い釘を打ちつけられました。その釘を打ちつけられたイエス様の心情でみ旨をやってきましたか。人類の救いのためにイエス様は死んだのです。自分の手のひらに釘を打ちつけられることによって、世界を救うことができるならば、そのような道を行こうと決意しなければならない時です。

以上。


キリスト教の失敗を蕩減する立場の家庭連合でしたが、こともあろうか、真のお父様を中心とする三代王権を追放するという形で、神様の摂理を破壊してしまいました。

とくに、家庭教会氏族メシヤ摂理を勝利させることをしてこなかった家庭連合の罪は大きく残されています。私たちはそのことを蕩減すべき責任があり、そのための悔い改めの心情と行動が今、願われていることを感じています。

そうしなければアジアの救いが遠のいて、しまいます。



よろしければクリックを

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村
スポンサーサイト



阿南信義
Posted by阿南信義

Comments 1

There are no comments yet.

miya

天国の事始め―

 「氏族的メシヤとは、国家や世界を復帰していく事始めなのです。」との御言が、あらためて心に留まりました。それは①最初に氏族メシヤ摂理があって、②次に国・世界を復帰する」という意味に理解します。「事始め」とは、「物事のはじまり。濫觴(らんしょう)」と辞典にあります。「濫觴」とは、「〔揚子江ほどの大河も、源流は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの小さな流れであるの意から〕物事の起こり。もと。起原。」という意味です。
 天国をつくるという物事には順序がある。その「事始め」=はじまり、濫觴(らんしょう)は「氏族メシヤ」であるといわれる、お父様の御言を心していきたいとおもいます。

2018/06/15 (Fri) 22:49