聖書の中のよき地にまかれた種として

聖書の中のよき地にまかれた種として
イエス様のたとえ話が聖書の中にあります。そのたとえ話を今のこのときに、あてはめ、神様の願いが何であるのか、どうすればいいのかを考えたいと思います。
マタイ福音書13章1節から9節
その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。 ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。 イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 耳のある者は聞くがよい」。
私は、このイエス様のたとえ話をこのように捉えました。
種まきは真のお父様、種はみことばで
道端に落ちたものは、はじめからみことばを受け入れようとしない人々。
土の薄い石地に落ちたものは、一時はみことばを信じながら、最後までついていくことのできなかった人々。
いばらの地におちたものは、真のお父様に反逆した韓氏オモニをいまだに信じている家庭連合のシックの方々。
よい地におちたものは、二代王様を信じてしたがっているサンクチュアリのシックの皆さま。
それでその種はみことばであると同時に真のお父様が世界的に勝利されて、弟子たちに与えられている「天国の鍵」であると思います。その「天国の鍵」で百倍、60倍、30倍になって氏族のメシヤとなり天国をつくることができるようになることを言っていると思います。
本来、イエス様の目的はみことばを伝えると同時に、天国の鍵を弟子たちに与えることでした。十字架に行くことが目的ではなく、イスラエルからローマに行かれて、世界的な勝利圏を獲得して、その勝利圏を弟子たちに授ける使命をもたれていました。その与える勝利圏が天国の鍵となっていたはずでした。
ところが十字架にいかれたがゆえに、その本物の天国の鍵は再臨のときまで与えることができませんでした。
真のお父様のみことば
イエス様が来るまで天国はありませんでした。イエス様は、天国の鍵をペテロに与えましたが、イエス様はどこへ行ったのでしょうか。彼は十字架へ行かれましたか。それとも真っ直ぐ天国に行きましたか。十字架へといかれましたね。天国の鍵はなんでしょうか。それはホーム・チャーチです。それ以外はありません。
ではペテロはどうすべきだったのでしょうか。今、私たちは、彼がその体的天国つまりホーム・チャーチを開くべきだったと言うことを知っています。そして、私たちの言葉で言う、環境を確保できるのです。その後に氏族の編成が成されます。イエス様が「あなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、地で解くことは天でも解かれるであろう」と示されたように、私たちも地上で天国を実現しない限り、霊界での天国も実現されません。1981.1.1
私たちはよい地にまかれて、真のお父様から種をいただいています。
百倍、60倍とすることのできる貴い環境と事情を神様から、準備していただいています。
その種の価値を今一度、確認することが必要と思います。
天国の鍵がいかに貴いものであるかの確信と自信によって、行動の基準が決定することになります。氏族メシヤ伝道は家庭教会プログラムが土台となっていますので、それを理解することによって、勝利は確実になると思います。
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