聖殿氏族メシヤ連絡会 大分聖殿

氏族的メシヤの任務がどれだけ重大ですか。宗教の実であると同時に来られる再臨主、父母の権限の名義と内容を受け継いだことを知らなければなりません。 みことば

阿南信義

密使と祖国ー礼拝

真のお父様のみことば
「密使と祖国」 1970年2月16日のみことば


復帰摂理歴史と天の密使

 今日この堕落した世界の歴史発展がそうであるように、神様の摂理路程も同様です。この摂理路程は、サタン世界と方向が同じで内容が通じる立場ではなく、方向も内容もすべて反対です。こういう立場から見るとき、新しい基点と、新しい体制を備えて影響を及ぼし得る環境を再建するのは、どれだけ難しいことでしょうか。

 歴史を経て、影響を及ぼすことのできるある一基準を成すまでには、表すことができない内的な闘争の時期があります。その内的な闘争が、時代的なすべての要人と、国家の為政者たちの前に影響を及ぼすことのできる基盤をもつようになるとき、その国家全体を新しい分野で革新することができます。もし狭い範囲に影響を及ぼすようになるならば、一つの村ができるでしょうし、一つの家庭もできるでしょうし、さらには一つの個人もできることでしょう。

 復帰摂理について見るとき、今まで神様がこのような革新運動を悪の世界に提示しましたが、その影響が社会と国家にすぐに及んだことはありませんでした。いつも個人がまずその影響を受け、そのあとに家庭を糾合する運動をして、今まで歴史を発展させてきました。これが今日摂理史において、個人が歩んでいかなければならない伝統的な路程です。

 このように個人を通じて家庭から氏族、宗族、民族、国家、世界基準まで達した宗教世界を見てみると、どんな宗教でも闘争の歴史をつづってきたということを知ることができます。




 そのような歴史をつづってくるのに、公然と現れて戦ったのではなく、自分自身を隠しながら環境に追われたり、または制約された環境を抜け出すことができない立場で発展的な要因を利用できないまま、一つの公的な姿勢を備えてきました。

 このような事実を考えるとき、責任を担った摂理的な責任者の立場は、いつも自由な体ではないのです。自分を表すことのできる立場になく、自己主張できる立場になく、自分の行動をむやみにできる立場にないというのです。

 自分本来のすべての行動の要件を隠して、その社会環境と対する人々の前に、現実の社会環境よりもより有益な与件を新しく提示しなければなりません。その人々と何としてでも関係を結んで、心が通じる立場に立って、自分の本心と連結させて発展してきたのが復帰摂理歴史路程です。

過去の歴史的な先祖を顧みると、彼らはどんな時でも密使の立場、すなわち、自分の正体を現すことができずに隠す立場にいました。そういう環境で、自らの踏み台を開拓するために限りなく努力していった人々です。


それで皆さんが今、み旨を中心として覚悟しなければならないこととは、「神様から密使の特命を受けている私の体だ」ということです。それゆえ、自分自身が行動一つ間違うことによってその環境に及ぼす影響は、自分一人だけに限られることでなく、祖国という広大で途方もない内容に連結するという事実を知らなければなりません。

 今日私たち責任者、すなわち核心の要員であり、精鋭の要員だと言える人たちの中で、果たして祖国の主権回復のための天の特使の使命を成すために召命を受けて、担った責任を現地で果たす一存在だと自認できる人たちが、どれくらいいるでしょうか。

 そのためには、密使の使命時代を経なければなりません。密使の使命が完結されるとき、言い換えればその環境で証されて、その環境が自分を信奉し、自分を信じて、自分と相談できる立場に立つようになるとき、初めて天に代わる特使の使命を果たすことができるというのです。しかし、その環境が自分を信じない立場で、自分の権威と自分の国家ならば国家の権威を先立たせて、その環境に出れば出るほど反発が加重されて、排斥の矢が飛んでくることでしょう。

 ですから、皆さんが今後どのような心をもって地域に行かなければならないでしょうか。新しい密使の使命を受けるためにここに召命されたという事実を知って、内的に深く誓わなければなりません。そうして自分の地域に行って、密使の使命を完結しなければなりません。環境を開拓して、自分が絶対的な権限を成し遂げるようになるとき、そこで地域の人たちと共に初めて天の特使の使命を果たすことができるのです。今まで責任者たちが密使の使命時代を忘れて、特使の使命を成そうとしたので、私たちが発展するにおいて多くの迫害を受けてきたのです。

密使の使命を担う過程においては、特使の使命よりもより厳粛で二重三重に心の中で誓いながら、自分の正体がその環境に露出しないように努力しなければならないのです。
 それで彼らの前に利益を与えることのできる一つの条件を提示することによって、彼らが自分の前に順応できる基盤をつくらなければなりません。直接的な作戦よりも、間接的な作戦を起こさなければならないのです。すなわち、個体を検討して連結する戦いをしなければならないというのです。そういう作戦を展開したのちには、彼らを自分と共に生死を分かつことのできる基準まで引き上げなければなりません。そういう立場で自分の信ずるところを打ち明けて、共同の目的を達成することが密使として果たさなければならない責任なのです。

 皆さんは、この民族が私たちを信任しているその基準に満足するのでなく、ここで神様がまだ明かすことができない内的な心情の事情が多いことを知って、これを発展させ、展開しなければならないのです。こういう密使の使命分野を、まだ経ていない私たち自身であるということを忘れてはなりません。

 私たちは、スパイの生活をするように、その環境で一言であっても同化されてはなりません。行動するにおいても同化されてはなりません。時をおいてその環境で、またその部落ならば部落、地域ならば地域など、全体の前に何かを残してあげることができ、利益となる多くの問題を提示する人として認められなければならないのです。密使として責任を負わなければならない使命分野以上の基準を立てなければなりません。そのような立場で命令し、決意し、約束して、新しい運動を展開しなければならないのです。

 今日天のために行く人たちは、派遣された密使です。個々人において大きい小さい、広い狭い、高い低いの差はあるかもしれませんが、各自が置かれている生活自体は、密使の生活を離れてはならないのです。ここには、いつも生死の脅威が介在しています。まかり間違えば永遠な生命の問題が左右される、こういう立場に置かれるようになるのです。

 それゆえ永遠な生命を支えることができ、永遠な生命を保護してくれる私たちの祖国を探すという観念が、その環境より何百倍も強くなければ密使の生活をすることができないのです。その祖国の栄光を見つめる心をもって、祖国の恨みを解いたときに、全万民が喜ぶということを考えなければなりません。そして新しい歴史を創建して祖国の主権復帰の一日を迎えるその時に、自らの功労が表れることを考えながら、現在の立場を無視することができなければなりません。

 そのような心が先立たなくては、密使の使命を遂行することができないというのです。言い換えれば、祖国の主権復帰のための望みが現実の望みより千倍、万倍強まる心になってこそ、今日の生命を取り替える恨みがあっても、それを克服して密使の使命を遂行することができるのです。

こういう立場で皆さんが、これから新しい時代を迎えて、いかなる姿勢を備えなければならないでしょうか。祖国の主権復帰のための信念が、何よりも高く胸の中に燃えなければなりません。

 言い換えれば、六千年間神様が待ち焦がれた祖国を建設する騎手となって、先駆けて立った精鋭部隊の一員として開拓者になるという、この途方もない使命に責任を負った自負心を感じなければなりません。過ぎ去った多くの人たちが手にすることを望みましたが、もとうとしてももつことができなかった、一つしかなく、この一時しかない特権的な使命を担ったという厳粛な責任感をもたなければならないのです。

 ですから食べて、寝て、行って、来るすべての生活が、祖国創建のためのものでなければなりません。神様から特別に派遣された密使として凛々しく、格好良く、「この使命を遂行する」と言って立ち上がってくれることを神様がどれほど待ち焦がれていらっしゃるでしょうか。私たちは国家の足場を備え、全体の内容を提示して、一度も繰り広げることができなかった天のみ旨、祖国を立てることができるという志を立てなければなりません。今までそのみ旨を一度も立てられなかったというのです。

こういう問題について考えると、皆さんに付与されたことが祖国のための密使の使命ではなく、自分が成功するための使命だと思っているならば、皆さんは滅びるのです。このような観念を皆さんが感じて、皆さんの血に、皆さんの肉に刻まなければなりません。先生は、現れることを嫌います。なぜですか。まだ越えなければならない峠が幾重にも重なり残っていて、歴史上で最後の峠を越えることができずに死んだ先祖がいることを知っているからです。

 黙って自分自ら心的基盤に深い根を下ろして、春を待たなければなりません。春が来れば一斉に生い茂って育つことのできる根深い生の価値のために、また自らの力量をみ旨に導入させるために、何よりも時間を投入し、努力を投入しなければなりません。

 そうせずに自身が現れることを望むことは、あたかも根がない木と同じです。根がなく植えられた木は、そのまま枯れてしまうのです。このような問題を中心として、皆さんは再度自分を分析し、批判しなければならないのです。

今や皆さんは、新しい密使なのです。神様から新しい命令を受けて、新しい世界の前に立った皆さんです。これから皆さんは深刻でなければなりません。威信をもって村の人たちに対してはなりません。皆さんの生死の問題が掛かっており、今までの世界の問題が掛かっているのです。

 ですから、深刻な心で新しい運命と共に私の基盤を固めて、密使の任務を全うしなければなりません。サタン世界に、崩れることのない基盤を固めるために、自分の身の振り方に気をつけなければならないのです。それにもかかわらず、昔のままの習慣で、新しい命令などしようがしまいが私のしたいとおりにするという心では、神様のみ旨を成し遂げることはできません。

 新しい服と古い服は違います。新しい命令と昔の命令は違うのです。新しい現在の視点と過去の視点はお互いに違うのです。過去の段階と現在の段階とは大きく違うのです。これが発展的な段階だというのです。新しい自覚と新しい気分と新しい決意で、新しい環境の基盤を備えずには、新しいみ旨を成し遂げることができないのです。

今まで六千年の復帰摂理歴史では、数多くの事情とともに先知先烈たちが犠牲になっていきました。このように血の祭壇を連結させてきたものを、この瞬間に恨みを晴らすことができるのでしょうか。それとも、恨みをもっと積もらせるのでしょうか。このような問題を扱っている深刻な立場に、私たちがいるのです。ですから、神様が同情することのできる心の姿勢、神様が同情することのできる生活姿勢、神様が同情することのできる公平で義理固い姿勢を備えなければならないということを、皆さんは知らなければなりません。

 密使は、いつも祖国のために生きる人です。本然の主権者が神様であられるので、「お父様、これからこのようにしていてください」という生活、それ自体とならなければなりません。私たちはこれからどうなるか分からない立場にあるので、私が死んでも父と共に死に、追い込まれても父と共に追い込まれ、追われても父と共に追われ、戦っても父と共に戦うという心が、密使の生活圏内から離れてはならないのです。

 秘密があれば、心を整理してその主権者の前に報告しなければならない責任を負っている人が、密使です。それゆえ、そのような心をもっていくところにおいて、死の道を十峠越えたとするならば、十峠以上の実を結ばなければなりません。実を結ぶことができないときは、神様の前に裏切り者になるのです。

神様は、どのような方でしょうか。神様は密使の大王です。祖国の主権復帰のために、サタン世界に現れる密使の大王であり、総司令官です。では、そういう神様がこの地に対して「私が神様であり、私が教える真理はこれだ」と、六千年の間に一度でも主張したことがあったでしょうか。なかったのです。

 けれども神様は、私たちの澄んだ良心を通じて指示し、因縁を結ぶために苦労してこられました。私たちの心の土台を広めて、一致化することのできる自由な世界へ導き出してきたのが六千年の復帰摂理歴史です。

 このようなことにすべて責任を負ってこの地に来られる神様の息子に、密使の使命を外的、内的に連結させなければならない使命があるために、外的にぶつかる怨 讐のような環境の難しさは、内的な面において神様と一致することのできる刺激的な内容になるのです。

 天の運勢をここに表すためには、自分が千回恥をかいたとしてもそれを気にせず、または百回の死の道があるとしても、それを気にしないで行くという信念をもって出ていくようになるとき、神様が皆さんの行く道を守ってくださるのです。なぜなら、先生が今まで歩んできた生活の中で、どのような時にも神様は私を捨てなかったことを体験したので、皆さんも神様が保護してくださるに間違いないというのです。

 密使は、その姿が良いからなるのではありません。また、能力があるからなるのではありません。密使の使命は、神様と心情が一致した立場に立って、その国の風俗を正しく立てると同時に、絶対的に忠誠を立てて、その環境を収拾しなければならないのです。

 これをする日には、天の主権者である神様の直接的な命令を受けた代行者の立場に立つことができるのです。そのようになれば、神様が責任を負わざるを得ないというのです。

 皆さんが密使の責任を負うようになれば、そのことは必ず成し遂げられるということを先生は、長年の体験を通して知っています。皆さんもこのような生活をしていくことを願うので、きょう「密使と祖国」という題目で少しの間お話ししました。



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強く雄々しくあって、失った福地を回復しようー礼拝

真のお父様のみことば 
「強く雄々しくあって、失った福地を回復しよう」 1957年6月23日


 神様が嘆いていらっしゃるので、神様によって創造された全被造物も喜ぼうとしても喜ぶことができません。創造の中心が悲しんでいらっしゃるために、すべての被造物も悲しまずにはいられないのです。

 それでは、み旨を起こして、万民を通してそのみ旨が成就されることを願う神様が摂理する、その目的とは何でしょうか。独り悲しみ、嘆いていらっしゃる御自身の、その悲しみと嘆きを取り除いてくれる人を探すことです。これが復帰摂理の帰一点なのです。

 神様の嘆きを解怨してさしあげることのできる一人の人物、言い換えれば、六千年の果てしなく長い歳月の間神様を嘆かせてきた、人間始祖から始まる人類の罪悪歴史を食い止め、それを清算して神様の嘆きを取り除くことのできる、その一人の人物を探してきたのです。このように歴史を代表した本然の一人の人物を探し出すことが、復帰摂理の目的であるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 皆さんが神様の前に立つとき、贖罪の恵みにあずかりたい心をもつことも必要です。あるいは、家庭と民族と世界の問題をめぐって贖罪の恵みを求めることも必要でしょう。しかし私たちは、自分の悲しみと嘆きを「解怨してください」とすがって哀願する段階を越え、神様の胸中に深くしみ込んだ、創造ののちに人間の過ちによって抱かされた怨恨を、解いてさしあげたいという訴えが必要であることを知らなければなりません。




 ノアの家族は、洪水審判で贖罪されたので感謝の生活をしなければならなかったのですが、習慣的な生活を繰り返しました。ですから、天倫に対して立ち上がった私たちも同様に、こういう過ちを犯しやすいのですが、私たちは自らの習慣的生活を繰り返す人になってはいけません。

 自分と家族を救ってくださった神様に、いつも新たに接するノアとなり、全人類がそのような心をもつようになる日を願いながら、父の心情を直視して立ち上がったノアになっていたなら、また神様の前に絶対的信仰を立てるノアの家庭になっていたなら、第二の堕落を成立させるような過ちは犯さなかったことでしょう。


 それでは、モーセに接するイスラエル民族は、どのような心情をもつべきだったのでしょうか。彼らは、神様が数千年間苦労し、また先祖たちが数千年間努力し、何もかも与え、何もかも犠牲にして探し出され、立てられた一人の中心人物がモーセであるということが分からなければならなかったのです。イスラエル民族は、神様がすべてを犠牲にし、その代価として探し出されたのがモーセであるということが分かりませんでした。それゆえ荒野で、六十万の民衆が倒れるようになったのです。

 もしイスラエル民族が、国家と世界を代表して立てられたモーセ個人の価値を民族全体の価値として、あるいは人類全体と同等の価値として感じ、彼と一つになっていたなら、その民族は荒野で倒れはしなかったでしょう。

 モーセ以後、数千年の歴史を経ながら預言者たちがこの地上に送られた目的、また世界を代表してイエス・キリストがこの地上に来られた目的とは何かといえば、神様の御苦労と嘆きを代わりに負うことであり、人間と万物の嘆きを代わりに負うことであったのです。ところで、どこの誰が、イエス様が万民を代表して現れた条件的な方であることを知っていたでしょうか。イエス様が、四千年間嘆いてこられた神様に代わって、サタンに対して勝利の条件を立てる方だということを誰も知らなかったのです。

 それでは、今日あなた方が求めるべきこととは何でしょうか。神様の嘆きと人間の嘆き、そして万物の嘆きを解怨してあげられる、その一人のお方を求めなければなりません。そうして皆さんがその方と一体の関係を結ばなければならないのです。もしそういう者になれなければ、皆さんから希望も、神様の栄光も見いだすことはできません。

 このような使命をもって来られた方がイエス様だったのに、神様が四千年の間苦労して選んでおいたイスラエル民族、ユダヤ教団は、どうしたのでしょうか。神様の名前を呼びながら、「神様のためだ」と言う彼らが、来られたメシヤ、天と地にたまった嘆きを解怨する一つの中心を不信して、その方の前に罪悪の反旗を翻した事実を皆さんは知らなければなりません。

 イエス様が来られるまでの悲しい歴史と、この悲しい歴史を解怨しなければならない天倫の内容を知っていた民だとするなら、イエス様を十字架にかけはしなかったのです。また、イエス様が十字架にかけられるようになったときに、右側の強盗がイエス様を神様の息子として証すのではなく、そばで仕えていた聖徒たちがイエス様を証して助けなければならなかったのです。ところが、当時そのような責任を果たした弟子がいなかったために、今日私たちがそのような責任を果たさなければならないのです。

 今日まで神様は、人間の嘆きを解怨し得る一人の方をこの地に送るために苦労され、人間はそういう方が現れることを望んできました。これが、神様の摂理歴史であると同時に人類歴史なのです。


 それでは、荒野路程にあったイスラエルの六十万の民衆が、モーセと一つになれなかった怨恨の条件とは何だったのでしょうか。それは、イスラエル民族の中に、怨讐の懐で暮らしていたエジプトでの生活を懐かしがる群れが現れて、モーセの行く道を遮り、天倫の道を遮ったことだったのです。

 初め、モーセを先頭にしてイスラエル六十万の大衆がアマレクと戦う時には、モーセが手を挙げればイスラエル民族が勝ち、モーセが手を下ろせばイスラエル民族が敗れるようになり、モーセと人々は一体の関係を成しましたが、あとで変わってしまったのです。


 歴史的に考察してみれば、神様のみ旨を掲げて歩んでいく人は、まず見えないサタンとの闘いがあり、次に見えるサタンとの闘いがあります。その次には物質の困窮を通じた闘いがあるのです。そのためにイエス様にも、パンで試練を受ける個人的な試練があり、次に聖殿を中心とした環境的な試練があり、また山頂に立てられ世界をめぐっての象徴的な試練があったのです。このようなことが、闘いがなければならない原則のもとで現れるようになりました。

 それでは、神様のみ旨を掲げて歩んでいたモーセは、いかなる心をもっていたのでしょうか。彼も神様のみ旨を掲げるために怨讐と闘うことができる心、そして荒野に出ては、アマレク族と戦うことができる心、飢えと闘うことができる心、死を覚悟して堂々と出ていく勇気がありました。

 モーセは、パロ宮中生活四十年、ミデヤン荒野四十年、合計八十年間をサタンと闘い、自分自身と闘い、飢えと闘いました。そういう闘いに勝利したとき、神様はモーセを召命されたのです。

 このような道を行った者はモーセだけではありません。イエス様もそのような道を行かれたのです。そのため、イエス様御自身においても、サタンとの対決を象徴するサタンの試練がありました。まず自分自身を克服するために、自分自身を一つの供え物にして飢えと闘った四十日の断食期間がありました。その次には物質の条件を越えるために、「石をパンにかえよ」という試練がありました。

 なぜイエス様がこういう過程を経なければならないかというと、人間が堕落したことにより神様を失い、息子、娘の威信を失い、万物を失ったために、これらを再び捜し出すための条件が必要だったからです。

 そのため、今日聖徒たちが歩む路程にも、個人や民族、国家、世界を問わず、悪の世界を代表するサタンからの試練があります。また、神様の息子、娘の栄光ではなく、十字架の路程が残っています。その次には万物を失ったために、飢えの苦難を経なければならないのです。

 それでは、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。終わりの日に来られる主は、六千年間神様を嘆かせた条件を取り除き、数多くの聖徒たちの信仰の目的を達成するために来られるということを知らなければなりません。そして、イスラエル民族が最初にモーセを迎えたときに、自分たちの所有するものをすべて捨てて出発したように、荒野に出ても自分たちのすべてのものを忘れて、モーセだけを信じて従っていたなら、彼らとモーセは分かれるようにはならなかったのです。

 今日、理想の園を望みながら再臨のその日を迎えるために準備している私たちが、まずもって備えるべきものがあるとすれば、それは何でしょうか。それは、来られる主は、六千年の間神様が苦労し、先祖たちが苦労したその結実として探し出される方である、ということを肝に銘じることです。

 その方がもし、この地に来られたならば、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。喜んで世の中のすべてをその方に捧げ、その方だけを歴史を代表する存在として、罪悪の歴史を終結させ得る存在として、神様の代身として、侍ることのできる心を備えなければなりません。

 世界のキリスト教徒たちがそういう心をもたないならば、神様が数千年間苦労して立てられたモーセが荒野で倒れることによって怨恨が残るようになったのと、同じ結果になるというのです。したがって私たちは、再び来られる主のために苦労することができる者にならなければなりません。

 このような立場に置かれている今日の私たちは、カナン福地を望みながら歩んでいたモーセが死んだのちに、彼の後継者として立てられたヨシュアとカレブの使命を、歴史的な立場で引き継いでいるということを肝に銘じなければなりません。すなわち、イスラエル六十万の大衆を率いてカナンの地に入っていくことによって、数千年間この地にこびりついた神様の怨恨を解いてさしあげ得る祭物的な条件をもって立ち上がった、ヨシュアのような人にならなければならないのです。

 今日、私たちがヨシュアとカレブと同じような決心と覚悟をもたなければ、荒野で流浪しているイスラエル民族を収拾してカナン福地に入っていくことはできず、聖殿理想を完成することはできないのです。皆さんはこれから、神様の愛と怨恨を知ったことによって、祈る目的が変わらなければなりません。

 また、神様がモーセと不信するイスラエル六十万の民衆を荒野で一掃し、ヨシュアとカレブを立て二世たちを連れて再びカナンに向かわせた、その心情を知る者とならなければなりません。

 皆さんは今いかなる段階に到達しているかというと、先祖たちが苦難を受けて歩んできた六千年の歴史を踏み台として、審判の旗を高らかに掲げるべき立場に到達し、また、イスラエル民族に向かって「ヨルダン川を渡っていこう」と号令をかけたヨシュアとカレブの使命を代行しなければならない位置に来ているのです。


それでは、私たちがそういう責任と使命を引き受けようとするならば、神様は私たちに何を強調されるでしょうか。神様が荒野でモーセの使命を引き継いだヨシュアに、「強く雄々しくあれ」と言われたのと同じように、私たちにも「強く雄々しくあれ」と強調なさるはずです。これから私たちは、世界的カナン福地を見つめ、そこに入っていくことを願いながら荒野にいるという事実を知り、ヨシュアとカレブのような心と体にならなければなりません。

 すると今日、世界的なキリスト教徒たちはどのように生きなければならないでしょうか。ヨシュアとカレブのような存在が現れて、この地上のキリスト教を導いていくことを天の前に訴えなければならないのです。中心を失い混沌と混乱を起こしているこの荒野時代で、これを収拾していく方向を提示できるヨシュアとカレブのような存在が現れなければならない時になったのです。このことを今日、キリスト教徒たちははっきりと悟らなければなりません。ここでは、自らの教派が問題ではありません。私たちはそのことを知らなければなりません。

 ヨハネの黙示録第十一章では、二本のオリーブの木に対する預言をしています。これは何を意味しているのでしょうか。世界的なカナン復帰の路程を出発するのに先立ち、ヨシュアとカレブのような存在が現れることを予告しているのです。モーセの代わりに現れたヨシュアとカレブがユダヤ民族を導いてカナンの地に入っていったのと同じように、今日にもイエス・キリストの福音をもったヨシュアとカレブのような人たちが現れて、神様の民を率いて世界的なカナン福地、新しい希望のカナン福地に向かうようになるでしょう。


 またヨシュアとカレブに従ってカナンに入っていった群れが、カナン七族を滅ぼしたように、皆さんにはサタンを滅ぼさなければならない責任があるのです。そういう天の勇士になり、そのような路程を歩むべき責任が、皆さんにあることを肝に銘じなければなりません。

 そして、新しいみ言を主張するヨシュアとカレブがこの地のどこに現れようとも、人々の心の扉を開いて、み言を聞かせ、天のために生きられるようにする私たちにならなければなりません。
 ヨシュアとカレブの行く道は、冒険の道でした。彼らが歩いた道は、難しい開拓の道であり、闘いの道でした。行く先々で開拓者の使命を果たさなければならない、厳しい道でした。時には個人的に、あるいは環境的にぶつかってくる試練と闘わなければならない路程が、彼らにはあったのです。


モーセがイスラエル民族を率いてカナン福地に向かって出発しようとする時、パロ王がモーセを殺そうとし、イスラエル民族の中にもモーセを不信して反対する人が多かったのと同じように、ヨシュアとカレブの時にもそのようなことがありました。このようなことをよく御存じの神様は、ヨシュアとカレブに「強く雄々しくあれ」と語られたのです。「強く雄々しくあれ」、このみ言は何を意味しているのでしょうか。それは、「人間的なすべての条件を乗り越えなさい」という意味です。

 それで、イエス様も三大試練を通して、人間的なすべての条件を乗り越えて勝利されました。したがって、二千年が過ぎた今日の皆さんも、人間的なすべての条件を乗り越えていく途上において、強く雄々しくなければなりません。

 ヨシュアは個人の闘いの路程から最後の瞬間まで、勝利の路程を歩まなければならないモーセの代わりの立場に立てられたために、神様は彼に「強く雄々しくあれ」というみ言とともに「対する個人を怨讐と思い、対する民族を怨讐と思い、対する土地を怨讐の土地だと思え」という忠告のみ言を語られたのです。

 今日、ヨシュアのような立場に立つ私たちであろうとするなら、私たちにも行く先々で個人的な怨讐があることでしょう。環境も私たちを打ってくるでしょう。民族も、国家も私たちを打つでしょう。しかし、選ばれた私たちが団結し、死ぬ覚悟で最後まで闘う第二のヨシュアとなり、死ぬ覚悟でイエス・キリストに従い、世界のキリスト教に責任を負うことができる聖徒たちになるならば、私たちは目の前に展開するいかなる闘いの道も乗り越えることができます。それゆえに神様は、私たちが強く雄々しくあることを願っていらっしゃるのです。


それでは今日、四千年歴史を代表したイエス様が残した真理のみ言を信じている聖徒たちは、これから先、どのようしなければならないでしょうか。サタンの鉄条網の中に捕らわれている人類を救うことができる、天の勇士としての姿を備えた息子、娘とならなければなりません。また、神様のみ旨を正しく悟り、昔イスラエル民族が神様のみ旨を悟ることができず、荒野でサタンの餌食になった二の舞いを踏む人になってはなりません。

 皆さんは、モーセが神様の前に再び立つ時まで荒野で四十年の間精誠を尽くした、その志操を信仰の根としなければならないし、イスラエルを代表して八十日間神様に取りすがり訴えた、その粘り強く強靭なモーセの性稟を見習わなければなりません。また、第二イスラエル選民圏を代表し、世界カナン復帰の理想を成就しなければならない再臨の宗族であるということを知らなければなりません。

 こういうことを考えて、「お父様! 六千年の摂理過程に現れた全体の闘いが私の身に現れるとしても、私は乗り越えていきます」と誓っていくことができなければなりません。それだけでなく、六千年の間に天のみ旨を立てるため死の峠を越えてきた先知先烈たちの代わりとなり、この地を支配しているサタンの群れに向かって、「私は爆弾だ。お前たちの胸を爆発させてやるぞ!」と叫ぶことができる者にならなければなりません。

 このような観点から私たちは、神様がヨシュアに「強く雄々しくあれ」と語られたみ言を私たちの教訓としなければなりません。イスラエル民族がそのみ言の意味を悟ることができなかっために、カナンの地に入ってからも十二支派を中心として再蕩減の歴史を経なければならなかったのです。そのために、今日の私たちがそういうヨシュア的な責任を果たすことができないならば、天国理念を建設するためにこの地にやって来られる主も、皆さんと共に受難の道を行くしかありません。


 ですから、皆さんは天のみ旨に向けて行くにおいて個人から家庭、社会、民族、国家に至るまですべてを聖別し、この世的な部分はみんな捨て、天のものとしてすべて置き換えていかなければなりません。すなわち、私の世俗的な部分を捨てて天の私を取り戻さなければならないし、家庭の世俗的な部分を捨てて天の家庭を取り戻さなければならないし、宗族の世俗的な部分を捨てて天の宗族を取り戻さなければなりません。民族の世俗的な部分を捨てて天の民族を取り戻さなければならないし、国家の世俗的な部分を捨てて天の国家を取り戻さなければならないのです。そういうものを取り戻すために皆さんは強く雄々しい心で、力を尽くし思いを尽くして前進しなければなりません。

 そういう者ならば、個人を取り戻す際に個人が倒れても感謝でき、民族、国家を取り戻す際に民族、国家が倒れても感謝できる志操をもった天の息子、娘になれるでしょう。

 今日私たちは、このような覚悟で個人に対して闘うことができ、家庭、国家、世界に対して闘うことができ、この地上のサタンに対して「退け!」と言うことのできる勇猛心を備えていかなければなりません。

 天に向かった志操をもち、生涯路程の終わりまで進んでいく者がいるならば、彼は死んでも復活してその福地に現れて栄光を享受するでしょうし、もし死ななければ第二イスラエルとして許された福地の園に住むことができるでしょう。これをきょう、皆さんが肝に銘じるように願います。



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長崎島原の原城跡を訪ねて

長崎島原の原城跡を訪ねて

原城8


霊界動員による地上摂理の展開


真のお父様のみことば  「牧会者の道」

今日、キリスト教が世界的な宗教になったのは、その時代ごとに、難しい環境がある時ごとに犠牲になり、願ってきた望みの天国、終わりの日に来て一つの理想的天国を実現することを目標にしてすべてのものを犠牲にして、生命まで犠牲にしてその量を満たしてきたからです。個人的量を越えるようになる時は、家庭的量の時代に越えていくのです。私たちは知りませんが、天が収拾するというのです。そのような民族があったならばその民族は知りませんけれど、個人時代を越えて家庭時代に誰が連結させますか? 天が連結させるのです。霊界が動員して「お前はこういうふうに行かなければならない」と、その時ごとに霊的な世界の指導方針を通じて環境を引き継いであげる業をしたのです。その時ごとにそれを受け継ぐ先覚者や預言者たちにあっては、その環境的時代の立場と歩調が合いませんでした。反対的な現象が起こりました。それで理解できないのです。(一六八―八二)




9月28日早朝6時に家をでて、長崎島原にハーレーで向かいました。熊本の長洲フェリー乗り場に到着したのは10時前でした。そこから45分間の船旅です。
熊本の対岸の長崎島原について、キリシタン史研究家の宮本さんを訪ね、昼食をごちそうになりながら話を伺いました。

原城4


ヨハネの黙示録第19章

 :11)またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。 :12)その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。 :13)彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。 :14)そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。 :15)その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。 



その聖句をあげられ、「天の軍勢」は霊界におられる義人となられているキリシタンの皆様ではないかと。。。私も同感でした。



そのあと南島原の原城跡を訪ね、その地で犠牲になられた方々の心情を想いながら、祈祷の時間を持ちました。

神様の摂理で犠牲になられたこと。
イエス様を愛してこられたこと。
せつにメシヤを待ってこられていたこと。
神の御国を待ち焦がれていたこと。
そして、今二代王様が立って摂理を進めておられること。
アメリカの神の摂理を守って支えてほしいこと。

などをお祈りしました。


貴重な時間を過ごして、そこを後にして、再びフェリーに乗り、自宅に到着したのは夜の10時前でした。420kmの道程でした。











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神の国を求めて

真のお父様のみことば  メシヤと我々 1972年4月23日

サタンの世界は打って占領するが、神の戦法は追われ、打たれながら自然屈服させる。天の位置をそのままにして侍るような立場でなければ、神の権威の立場を復帰することはできないということを、我々は、はっきり知らなければならない。

 まあ、こういう立場において、現世において我々の成さねばならない重大な使命は何かというと、国がない。神の国がない。国なき者が本籍をもつことができるか。本籍地がない。日本人は日本の国があるから、日本を本籍の地としてもっているんだけれど、神の摂理から見た場合に、神様の主権国家がないから、神様の国民の登録ができない。宗教登録、これ一つしかもっていない。

 復帰はカインとアベルが一つにならなければ進んでいかない。それは統一発展の公式になっている。カイン・アベルだけでは救われない。カインを救い、カインが進むように後押しして、後ろで戦ってくれる防備圏をつくらなければ帰っていけない。それが原理の教えである。だからカイン・アベルは一つにならなければ、父母を迎える道がありません。 

宗教はアベルの立場であり、国はカインの立場である。だからカインがアベルを殺した歴史を引き継ぎ、歴史的な国家主権者は宗教を殺してきた。そういうふうに結実圏がつくられて迫害されてきた。こうなるというと、宗教を中心として国を自然屈服させて従わせるような勝利の国家をつくらなければ、天国は地上に生まれてこない。それを成そうとしたのがイエス様です。

 イエス様を中心としてユダヤ教とイスラエル民族が一つになったならば、そこが一つのアベル国家だ。だから我々の信仰の目標は何かというと、神の国の民になることである。民にならなければその子供として、自由自在に、万民あるいは万物世界において誇りながら愛される道は生まれてこない。国なき者であったなら、いつも攻められる。即時にやられる立場がいくらでもある。だから神の欲すべき国はいずこにありや、神の足場とすべき国がいずこにありや? これが問題です。





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21日間の滞在延長の意義を考える

21日間滞在延長の意義を考える


今回、10月の訪米において、21日間の滞在延長の方向性が二代王様から出ています。そのことについて自分なりに想うことを述べてみたいと思います。

1、戦争状態を回避するための神様の戦略

かつて70年代はじめに韓国の祝福婦人による3年開拓伝道がお父様から命令されました。その方針に無条件に従った先輩の祝福家庭は家庭を分断して、韓国全地に開拓に出発しました。そのことによって、1972年4月15日の時に金日成はソウルで還暦を祝うことを宣言して武力南侵を公約していましたが、防ぐことができました。後でお父様が語られたみことばで先に神側が天の命令に従って、家庭を犠牲にしたことによって、サタンが入る条件がなくなり、戦争にならなかったと語られたことを思い起こします。

11月3日にもし民主党が勝つようになった場合、アメリカは内戦状態に、中国はさらに台頭して、軍事力を背景に香港の状態を台湾に、日本、韓国に要求し、侵略してくるようになってきます。なんとしても阻止するためには神側の勢力の条件が祭物として必要なことだと思います。二代王様を中心とするアベル圏がひとつとなった条件で神様はトランプ氏を保護することができると思います。


2、アメリカの青年の血の代価によって、メシアを解放したこと

1950年、国連軍の主な勢力のアメリカの青年たちが共産勢力を押しかえし、メシヤを解放しました。その恩に報いる責任があります。メシヤと一つなった東洋の祝福家庭が共産勢力からアメリカを守るために血を流すほどの闘いをしなければならないのではないかと思います。

みことば アベルの正道1979.12.30
アメリカの若者たちが多くの犠牲の代価を支払うことになったのです。韓国動乱の時に参加して償ったのです。そのため、レバレント・ムーンはアメリカに対して、その恩に報いる責任があるのです。彼らは責任を償うために韓国に入ってきた時、私を解放してくれました。それで私はこの国に来て、血の汗を流しながら、このようなことをしているのです。



3、1600名、4200名の海外宣教の蕩減復帰

家庭連合において、日本女性はお父様からの命令に相対してその信仰と実績を立ててきましたが、韓オモニの不信の結果全てを奪われている状況だと思います。今回の二代王様の命令に無条件に従うことによって、象徴的な期間でありますが、そのことを蕩減する条件となるのではないかと思います。


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深刻な11月3日

深刻な11月3日

三重町20200915-2


11月3日の結果がどうなるかを考えると恐ろしくなります。もし民主党の大統領となった場合は最悪の事態となってしまいます。日本の地で何が今できるかと考えてみた時に、霊界におられるキリシタンの方々に地上に働いてもらうことが大事なことであると思わされました。全米のクリスチャンが正当な行動をとることができるために協助できるよう祈ることしかできません。それで鉄馬ハーレーで動くことにしました。


午前中は白菜の種まきをして、午後から大分のキリシタンの史跡を訪ねることにしました。
かつて、イエス様の教えに従い苦労されながらも神の御国を求めてこられた義人の精誠を称えるとともに、その心情を相続して、今の世界的な艱難を克服できるよう、具体的には11月3日において、神様の願われる方向となるように祈ってきました。

佐伯市宇目20200915-1


大友宗麟20200915-2


鉄馬のハンドルにはトランプ氏のポスター、後ろには星条旗をなびかせて、地上と霊界にアピールしながら、本日は140kmの移動でした。






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受難の道を克服されて流された汗

受難の道を克服されて流された汗

真のお父様のみことば 天聖経 真の神様 

それでは神様の遍在性をどのように感じるのでしょうか。空気を神様の息吹のように感じなさい。台風が吹いてきたら、それを神様がこの世界のために受難の道を克服してこられながら流された汗のように感じなさいというのです。太陽を眺めれば、その太陽がこの宇宙全体の生命の要因を象徴していることを知って、神様の愛を太陽に学ぶのです。神様の心情を体恤する一つの教本であり、教材として展開させたもの、愛する息子、娘を喜ばせるための教材として立てられたのが自然です。木の葉を見て自分の息子、娘のように思って一人つぶやくことができる人がいれば、彼は聖人に近いのです。



今、台風10号が通過中で風雨があれています。今回の台風はマスコミの影響もあって、多くの方々が準備をして備えています。近所の方々も避難所や親せきの家に避難したりしています。明日の朝まで被害がなく通過してほしいと願うものです。

お父様のみことばから「台風が吹いてきたら、それを神様がこの世界のために受難の道を克服してこられながら流された汗のように感じなさい」とあります。そのような心情から台風を見ることができるのはまさにメシヤの心情であることを感じて、その心情を相続せねばと思わされます。


今回の台風10号はまさに受難の道を克服された神様の汗のように思います。そしてその行路は日本から韓半島に向かっていくように予測されているTVの画面を見るときに、そこに神様の汗と涙が流されている今の時ではないかと感じています。



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農業実践訓練と台風10号

農業実践訓練と台風10号

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真のお父様のみことば  天聖経 真の神様

 神様の心は神様のみ言の中だけにあるのではなく、神様が造られた万物の中にもあるのです。天地のどこに行ってもそこに神様の心があるというのです。ですから天はいらっしゃらないところがないのです。すなわち遍在すると言いました。神様の心の中にいることを願うのなら、皆さんが眺める物の中に神様の心があるので、その物を自分の物として、天地のすべての存在物を私の物として抱こうとする心をもたなければなりません。それが天の心です。最高の道に通じた人がいたとすれば神様の心に所有された人です。自分が鳥一羽、香りを放つ花一束を見ても、永遠を歌うことができる境地に入る心をもった人は、万物の中にあるのではなく、神様の心の中にあるのです。





今年は約300本のナスを植えています。一度に植えたわけではなく、5月から3回に分けて定植しました。今はほとんど毎日、収穫していますが、収穫の作業はごく一部分でしかありません。その収穫に至るために、草取りや肥料やり、また雨がなければ毎日川からポンプで水やりをします。とくに8月はほとんど雨がなかったので大変でした。また、ナスは剪定が大事な作業です。それをしなければ長期的な収穫はできません。

なんとも手のかかる作業がありますが、その根本は神様が育ててくださっているという心情を感じて、神様とともに共同作業をさせていただくことへの感謝の思いです。太陽が、土が、水がなければ万物は生きることはできません。


今日も直売所に出荷しましたが、台風が近づいていることもあって、多くの出荷者がナスを出していましたので、持って行った3分の1は持って帰ってきて、近所の家々に配って回り、みなさんから喜ばれました。万物を通しての伝道です。


台風10号が近づいています。もしかしたら風に弱いナスは全滅するかもしれません。されとてどうすることもできない状況でもありますので、それも天の計らいとしてゆだねるしかないと思っています。倒れたら起こすしかありません。


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今日の鉄杖騎馬訓練

今日の鉄杖騎馬訓練

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最近の日常は、早朝畑に行って育ってきたナスの収穫をして、自宅に戻って袋詰めして、近くの産地直売所にそれを出荷するといった毎日を送っています。

野菜が育っていく背景においては、神様の創造の業を見ることができます。元気に大きくなる実を収穫するときには神様に感謝し、その万物にお礼を言いたくなり、つい言葉をかけたりしています。


今日は先日ハーレーが来たこともあり、鉄杖騎馬訓練として、直売所に出荷したあと、県南に出かけました。聖殿食口にそれを披露したいという思いと、迫害の中で苦労してきた先祖のキリシタンの皆様に地上で摂理されておられる二代王様の心情を霊的に紹介して、連結したいという気持ちからでした。

昨日の台風9号の影響で風が強く、バイクの運転は大変でした。風で体が揺れます。しっかりハンドルにつかまっていないとバイクと分離されそうになります。途中バイクでツーリングしている方から手を挙げて合図をしてくれますが、こちらには手を挙げる余裕がありません。
しかしながら、ハーレーは車体が重いので風の影響を車体はうけないことに驚きました。風が吹いたとしても直進性は抜群で安心感があります。

今日走った距離数は130キロでした。途中二か所で聖殿食口の皆様と交流して、二代王様の雰囲気の一部分を紹介できたことに感謝します。また霊界のキリシタンの皆様も喜んでおられたのではないかと思います。


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ハーレー摂理に参加

ハーレー摂理に参加

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念願のハーレーが我が家に到着しました。

というのも実は30日、自分が大分聖殿での日曜礼拝を終えて、北九州の小倉に行き、そのお店からハーレーにまたがり運転して4時間半かかって、自宅にハーレーとともに戻ってきたことです。


7月ごろからネットで九州中の中古車のハーレーを探していました。そのために家内とともに車で500キロ以上移動しながら県内外のお店を訪ねて、実物を確認したりしていました。

そして8月7日の日に契約し、お盆休みもあったため8月30日に納車ということになりました。8月7日は家内の献身記念日でもあり、何かしら天の計らいを感じていました。

XL1200Nというモデルで1200CC あるので、トルクが大きく加速力があって爽快な気分である反面、危険性も同居しているので、二代王様が語られておられるように本当に注意しなければならないことを痛感しています。


私も以前から「いつかは大型バイクを」と思ってはいましたが、まさかハーレーに乗れるとは考えていませんでした。背後に真のお父様の役事を強く感じてなりません。このハーレーに乗って、二代王様の心情とひとつなってみ旨ができることを嬉しく感動しています。








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