神の権威は鉄の杖
ヤコブは杖のみをもってヨルダン河をわたりハランに向かいました。
モーセは杖を上にあげて紅海を渡り、イスラエル民族をカナンに導きました。
「杖は、不義を打ち、真実なる道へと導き、人を身代わりとして身を支えるものの表示物で、将来来られるメシヤを象徴したのである」原理講論
黙示録2章27節
彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。
世界の中心はアメリカ合衆国、アメリカ合衆国の中心はキリスト教、キリスト教の中心は聖書、聖書の中心はイエス様、イエス様の中心は神の愛、神の愛の根本は神の権威、神の権威は鉄の杖。
鉄の杖は世界を救済する神の摂理であることを確信します。
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原理講義の恩恵
今日は統一原理堕落論の講義を行いました。講義を通して、神様の心情を体験することができます。みことばを求めている方のためにズームを使っての講義でしたが、むしろ自分のために必要なみことばであったと感謝を捧げざるを得ませんでした。神様から多くの恩恵を与えられました。
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捨てられたイエス様のものを捜し立てる新婦となれ
真のお父様のみことば
一九五七年十月四日(金)前本部教会 (以南出監記念礼拝)
ヨハネの福音書一二章四四節-五〇節
44)イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、45)また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。46)わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。47)たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。
48)わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。49)わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。
50)わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。
<祈祷>
お父様、この間、私たちを保護されたアボジのまえに真に感謝し、特別なこの日は、私たちが記憶しなければならない日であることを知っております。
愛なるお父様! 過ぎたこの日を記憶し、その時の真心と、その時の心情を回想して、今日の自身がどこに留まっているか、また過ぎ去った一週間の間、アボジのまえにどの程度の栄光を捧げたか、自ら反省することができるこの時間となることをお許し下さるようお父様、切に望み願います。
多くの人々の中で、私たちをまず抱いて下さり、哀れな民族の中で私たちをまず捜し立てられたアボジのまえに、心から感謝し、不足なる私たちが負うべき責任が重大であることを知るようお許し下さることを、愛するお父様、切に望み願います。
私たちが望む目標は、地上のいかなるものでもなく、私たちが勝ち取ることは、地上のいかなる欲望のためでもなく、天倫に結ばれたアボジの怨恨を解こうとするものであることを、お父様は知っておられますので、このようなみ旨を捨てて忘れてしまう者たちにならないよう導いて下さり、さらにアボジの勝利ののろしのまえに立ち、三千万民族をアボジの愛のまえに率いて越えてゆく子女たちになるよう、お許し下さることを、お父様、切に望み願います。
そうして三千里半島がアボジの愛の懐に安らぐ園となるようお許し下さり、聖霊が臨在することができる園となるようお許し下さい。
愛なるお父様! この日私たちはアボジのまえに、より近づくという心で集まりましたので、自身の不足なることをアボジのまえに、この時間悔い改め、自身が正しからぬすべてのことをアボジのまえに精算し、アボジの仰せられる命令の通り、アボジの許されるみ旨に順応してゆく息子・娘となるようお許し下さることを、愛するお父様、切に望み願います。
今まで自分を中心にした何かがあるでしょうか? 自身を主張するために生きてきた、どんなものがあるでしょうか? もしもこのようなものが私たちにあったとしたなら、お父様この時間に精算して下さり、私たち自らがアボジのまえに主張するどんな条件も持ってはならないことを知るよう、お許し下さい。そうして私たちの持っているすべてのものをお父様に預け、たのみ望むこの時間になるようお許し下さり、ただアボジの許された恩賜と、アボジの運行される役事のみが現れるようにお許し下さることを、愛するお父様、切に望み願います。
お父様、ここに集まった食口たちを一律的な恩賜によって、この時間主管して下さるよう、この夕べにも地方にひろがっている淋しい食口たちが、アボジのまえに膝まずき、国家の為に祈祷していることを知っていますから、お父様、彼らの心にも一律的な恩賜を共に下さり、愛の聖霊が彼らの明日を守って下さり、また喜びの恩賜がこの時間、彼らの心に充たされるようお許し下さい。
愛のお父様、この場に参席できない食口たちもおり、試練と逆境の中に独り孤独をかこつ食口たちもおりますから、お父様、彼らをお守り下さい。
今まで耐えてこられた心情、アボジの淋しい心情をアボジ、この一時に解いて下さり、私たちがアボジのまえに祭物を捧げる代わりに、アボジの実体の子女として現れることができるその一日が、どうかすぐに臨むようにお許し下さることを、愛するお父様、切に望み願います。
この時間以後のすべての事柄をお父様にお任せしましたので、愛によって保護して下さり、私たちがアボジの愛を体恤することができる時間として導いて下さることを、切に望み願い、すべての御言を主の御名によってお捧げ申し上げました。
<御言>
今日この時間は皆さんに「捨てられたイエス様のものを捜し立てる新婦になれ」という題目で暫くの間、お話しします。
この地の上で見捨てられたイエス
人々が今まで信じてきたイエス様、また今この時代において多くの人々が歓迎し、キリストと呼び、主と呼んでいるイエス様はその時、地上に来られてそんな栄光を受けられなかったことを、皆さんはよく知っています。
今日信じている我々自身は無論ですが、当時の人々の中にはイエス様が残していかれた御言を、天の御言として信じた人間がなく、その御言を自身の命を代身する御言として信じる人間が、まるでいなかったのです。
このように地上に来られたイエス様でしたが、地上の人々からは歓迎されなかったのです。個人を代身して、彼を心から歓迎した人間が一人もなく、家庭を代身して、彼を歓迎した人間が一人もいなかったということを、皆さんは知らねばなりません。
イエス様は三〇年の歳月を、ヨセフとマリアの家庭で生きたのですが、その家庭では誰もがイエス様が抱いているその心、イエス様が願っている所望、イエス様の生活とやるべき事が何であるかについて、無知であったのです。のみならず、イエス様がされた御言の深い意味を理解し、イエス様をキリストとして迎える者がいませんでした。むしろイエス様を不信して捨てる立場をとったのが、イエス様の家庭であったのです。
家庭において捜し立てるべき摂理的使命があり、個人に対して捜し立てるべき使命があり、また生活を通して、仕事を通して捜し立てるべき使命が、イエス様にはあったのですが、その当時のユダヤ民族の中には、そんなイエス様の使命を自身の命と感じる人間が、一人もいなかったのです。
イエス様が見て、聞いて、語り、行い、働くすべての生活が、無知な地上にあったとしても、その生は地上の人間たちの為に生きることのみではなく、人間が知らない新しい神のみ旨の為に生きたのでした。ですからこのような新しい天倫のみ旨の為に生きられたイエス様にはその如くに、人知れぬ背後の悲しみの言葉と、理念と行動と生活に現れていたということを、皆さんは知らねばなりません。
またイエス様は家庭において、自身のみ旨を立てることができなかったので、社会を通して、あるいは教団を通して、自身のみ旨を知らしめることを願ったのです。しかしイエス様はユダヤ教のまえに、またイスラエル民族のまえに歓迎されず、捨てられたのです。このようにイエス様の一身が排斥されたのみならず、さらにはイエス様がされた御言も排斥され、イエス様の生活、イエス様がされようとされたその事が、すべて排斥されたことを、皆さんは知らねばなりません。
それゆえ皆さんは、このように見捨てられたイエス様の心情、捨てられる時のその寂しさ、心に受ける苦痛がどれほど大きかったかを、推し量ってみなければなりません。もしもこのようなイエス様の苦痛を知らない者になったなら、皆さんは四〇〇〇年の歴史に責任を負ってきたイエス様の人生、その理念、その生活、その仕事と御言を知る者として、到底現れることはできません。
今日我々はイエス様のこのような事情が現れている、聖書の御言を通して少しは知っているのですが、それも頭で知っているのです。また耳で聞いて知っている程度です。しかしそれでは駄目なのです。昔イスラエルのユダヤの民に対して、イエス様が御言を伝えられた時にも、それを耳で聞いて、頭で知っただけだったのです。このように実生活において皮膚で体恤しないで、耳で聞き、頭で知っただけでしたので、かえって彼らがイエス様をして、十字架の道に行かせるようになったのです。ですから御言を頭で知り、耳で聞いただけでは駄目だということを、皆さんははっきりと知らねばなりません。
それでは、今日我々はどのようにしなければならないか? 聞く御言を頭で知ると同時に、心で知り、行動することを知らねばなりません。ところがその当時、イエス様が十字架の死の道を経て行かれる時まで、このように御言を頭で知ると同時に、心で知り、行動する人間が、一人も現れなかったのです。
イスラエル民族、ユダヤ教、さらにはイエス様と三年の間も喜怒哀楽を共にして、ある誠心を注いで教えた弟子たちの中にも、そんな人間が一人も現れず、みな不信する立場になってしまったのです。このようにイエス様はある精誠を注いで教え、夢を通して神の事情を知らしめ、また神の摂理に無知であった彼らに「わたしを見た者は神を見た者」と語られ、強く目覚めさせようとしたのですが、当時のイエス様が愛された弟子たちは、このようなイエス様の背後の事情を、まるで知らなかったのです。聞いた言葉で、また見る眼で、知る頭ではなく、その御言を頭で悟り、心で感じ、体で行う人間が、一人もいなかったのです。
イエスの新婦の資格と使命
それでは、歴史的な終末の時代を迎えている今日、我々の責任が何でしょうか? 失ったイエス様のすべての理念の回復し、この地上のすべての罪悪と闘い、勝利して天国の世界を建設し、イエス様を新郎として迎えられる新婦の資格を得なければなりません。
これはイエス様の事情を聞いて知る程度でも、自分の頭で悟って知る程度でもなく、心で感じ、体で体恤できなければならないのです。
それゆえ皆さんは、イエス様が語られた御言の中で、その当時の人々のまえにアボジのみ旨のすべてを打ち明けられなかった事情、天倫の秘密のすべてを明らかにして語れなかった、無限に苦しい心情があったということを、知らねばなりません。もしも皆さんが、このようなイエス様の事情と心情を知らなかったなら、イエス様の御言を本当に理解することができないのであり、その御言を立てるために生きたイエス様の生活も理解できないのであり、地上の万民を救援するために努力されたイエス様のその仕事も、理解できないのです。
当時のイエス様の心情と、対する人間の心情には、無限の差異がありました。イエス様は自身の心のおく深く染みた御言を語ることができず、その無知な人々を目覚めさすための勧告の御言のみを語られたのです。
それではその当時イエス様が語られた内容はどんな内容か。サタン世界、悪なる世界、怨讐たちの世の中で生きてはいても、天の子女になろうという者たちのまえに、勧告された御言であったのです。サタン世界で試みを受けることなく、勝利することができる方便を示す内容の御言であったのです。言い換えれば、イエス様は万民がサタン世界でイエス様の御言を守り、イエス様の心情を代身して生きる、そのような一つの足場を残して行かれたのです。
それでイエス様は我々に対して、どんな最後の名詞を残されたかといえば「あなたたちはわたしの新婦」という御言です。当時イエス様は、このように愛する弟子たちに対しても直接的に語ることができず、後日を約束される立場で語る以外になかったのです。このようなイエス様の心情を、皆さんが知らねばなりません。
天が任されたみ旨をおいて、イエス様が当時の弟子と、イスラエル民族と、ユダヤ教を愛する心には変わりがありませんでした。しかし無知な民衆、無知な教団、無知な弟子たちでしたから、イエス様はサタンと闘う先鋒者として、独りすべての弓矢を受けられ、彼らに生きる道を開拓してあげるために、受難の道を歩まれたのでした。即ち、ご自身の心のおく深くひそむ心情、天の新郎・新婦の理念を明かして語れる環境を持つことができなかった哀しいイエス様であったことを、今日皆さんははっきりと知らねばなりません。
それでは、イエス様が行かれて、この地上の我々が喜びの一日を迎えることができる希望の標的として「あなたがたはわたしの新婦」という御言を語られたのですが、今日この新婦の理念はどうなったのか。今だに数千年の歴史過程を経てきて、サタンとの凄まじい闘いに勝利し、このようなイエス様の新婦の立場に立つ者がいないのです。それゆえ皆さんは、二〇〇〇年前に天を代表して選ばれたイスラエルが立てず、愛する弟子たちが立てなかった、イエス様が願う新婦の理念を代って立てなければならず、皆さん自らイエス様の心情に接することを知る人間にならねばなりません。
それではイエス様の御言は、どんな立場で語られた御言か? 新婦の理念を完成できなかった立場をおいて語られた御言なのです。彼の御言は新郎の立場で、信じる人々が本当の新婦の資格を得て、イエス様の懇切なる事情に通じるために残しておかれた御言であったのです。ですから今日の皆さんは、イエス様がなされた御言の真の意味を解し、イエス様が願った新婦となり、新郎の御言によって立たなければならず、また当時イエス様が感じられた内的な心情を、体恤する場までゆかねばなりません。もしもこのような場までゆく者がなかったら、イエス様が三〇余年の人生路程にわたって語られた、その御言の目的は果たされないということを、皆さんは知らねばなりません。
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イエス様の真の食口となる
東京での二代王様をお迎えしての特別礼拝に参加して、瞬く間に1週間が過ぎました。二代王様が語られたみことばで強く残っている内容は「クリスチャン伝道」ということです。
天の摂理に焦点を合わせることが最も重要なことと思い礼拝を準備しました。
真のお父様のみことば 「イエスの真の食口となろう」1957年10月18日
この御言をイエス様自身に照らして推察してみるとき、イエス様には当時どこにもお互いの心情を交わし合う、一人の親友もなかったということを知るのです。また国はあってもその国は自分の国ではなく、選ばれた民族があってもその民族が自分の民族ではなく、立てられた教会があってもこの教会が自分の教会ではなかったのです。自分を育てた家庭があってもその家庭が自分の家庭ではなく、自分と同居する兄弟があってもその兄弟が自分の兄弟ではなかったのです。
ですからこの御言をなされたその瞬間は、天を代身して歩んだ自身の事情をそのまま、この地上の弟子たちに受け継がせるための瞬間であったことを、皆さんは知らねばなりません。
また皆さんが知るべきことは「誰がキリストの真の食口になるだろうか」ということがイエス様が今日、皆さんに問うている内容であるのです。
地上に数多くの国があり、数多くの民族があり、数多くの家庭があり、数多くの人間がいたとしても、その中でイエス様の真の食口はいないのです。
それでは、イエス様が愛する弟子たちを、怨讐の懐に送られる目的が何であったのか。彼らを通してある教団を造るためではなく、彼らを通して選ばれたイスラエルの民を立てて国を造るためではなかったのです。まず愛する弟子たちを送り、天が喜ぶ食口、天のみ旨の通りに生活する天の真の食口を、求めようとされたのです。ですから、誰がキリストの食口になるかということが最も重要であることを、肝に銘じてください。
それでは、今イエス・キリストのまえに真の食口になるべき我々は、どうしなければならないか。皆さんは神のまえに現れた真の個人である独り子、即ち天の家庭に初めて現れた天の息子であるイエス様を、自身の生活圏内で侍って生きるイエス様の食口にならねばなりません。
こうして神のまえに、天の家庭圏内に第一人者として立てられたイエス・キリストの人生、即ちアボジの息子として、アボジの家で生きることができる基準を付与されたイエスキリストの生活が、正に我々の生活にならなければならないのです。
当時イエス様がこの地上に来られて、安らかに休める環境を造ってあげる真の食口を得られなかったことが歴史的な怨恨であり、今日終わりの日に皆さんが、このようなイエス様の心情を慰めてあげ、解いてあげるイエス様の真の食口にならねばならないのです。イエス様を自分の兄のように、兄さんのように家庭で侍って生きて、その方の悲しみを自分の悲しみとし、その方の切なさを自分の切なさとして感じ、彼を慰めることができ、その方の心配を自分の心配とし、代わって案じてあげることができる心情を持たなければなりません。もしも皆さんがこのような心情を持てなかったら、皆さんはイエス様の真の食口になることはできません。これを皆さんは、肝に銘じてください。
それで、今日まで数多くの聖徒たちはこのようなイエス様の為に証して、イエス様の為に闘い、イエス様の為に死んでいったのです。それゆえ今日、皆さんも復帰のみ旨を完成して行く過程において、皆さんを証してくれ、皆さんの為に闘ってくれ、死ぬことができる食口を持たねばなりません。もしも皆さんがこのような食口を持たなかったなら、天地のまえに怨讐の立場になるということを、知らねばなりません。
イエス様が地上に来られ、逝かれるようになった原因がどこにあったのか。ご自身の為に死ぬことのできる人間がいなかったからです。イエス様が地上において闘うようになった原因がどこにあったのか。ご自身の為に闘ってくれる人間がいなかったからです。またイエス様が自らを証しする原因がどこにあったのか。ご自身を証してくれる人間がいなかったからです。
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天の摂理に焦点を合わせることが最も重要なことと思い礼拝を準備しました。
真のお父様のみことば 「イエスの真の食口となろう」1957年10月18日
この御言をイエス様自身に照らして推察してみるとき、イエス様には当時どこにもお互いの心情を交わし合う、一人の親友もなかったということを知るのです。また国はあってもその国は自分の国ではなく、選ばれた民族があってもその民族が自分の民族ではなく、立てられた教会があってもこの教会が自分の教会ではなかったのです。自分を育てた家庭があってもその家庭が自分の家庭ではなく、自分と同居する兄弟があってもその兄弟が自分の兄弟ではなかったのです。
ですからこの御言をなされたその瞬間は、天を代身して歩んだ自身の事情をそのまま、この地上の弟子たちに受け継がせるための瞬間であったことを、皆さんは知らねばなりません。
また皆さんが知るべきことは「誰がキリストの真の食口になるだろうか」ということがイエス様が今日、皆さんに問うている内容であるのです。
地上に数多くの国があり、数多くの民族があり、数多くの家庭があり、数多くの人間がいたとしても、その中でイエス様の真の食口はいないのです。
それでは、イエス様が愛する弟子たちを、怨讐の懐に送られる目的が何であったのか。彼らを通してある教団を造るためではなく、彼らを通して選ばれたイスラエルの民を立てて国を造るためではなかったのです。まず愛する弟子たちを送り、天が喜ぶ食口、天のみ旨の通りに生活する天の真の食口を、求めようとされたのです。ですから、誰がキリストの食口になるかということが最も重要であることを、肝に銘じてください。
それでは、今イエス・キリストのまえに真の食口になるべき我々は、どうしなければならないか。皆さんは神のまえに現れた真の個人である独り子、即ち天の家庭に初めて現れた天の息子であるイエス様を、自身の生活圏内で侍って生きるイエス様の食口にならねばなりません。
こうして神のまえに、天の家庭圏内に第一人者として立てられたイエス・キリストの人生、即ちアボジの息子として、アボジの家で生きることができる基準を付与されたイエスキリストの生活が、正に我々の生活にならなければならないのです。
当時イエス様がこの地上に来られて、安らかに休める環境を造ってあげる真の食口を得られなかったことが歴史的な怨恨であり、今日終わりの日に皆さんが、このようなイエス様の心情を慰めてあげ、解いてあげるイエス様の真の食口にならねばならないのです。イエス様を自分の兄のように、兄さんのように家庭で侍って生きて、その方の悲しみを自分の悲しみとし、その方の切なさを自分の切なさとして感じ、彼を慰めることができ、その方の心配を自分の心配とし、代わって案じてあげることができる心情を持たなければなりません。もしも皆さんがこのような心情を持てなかったら、皆さんはイエス様の真の食口になることはできません。これを皆さんは、肝に銘じてください。
それで、今日まで数多くの聖徒たちはこのようなイエス様の為に証して、イエス様の為に闘い、イエス様の為に死んでいったのです。それゆえ今日、皆さんも復帰のみ旨を完成して行く過程において、皆さんを証してくれ、皆さんの為に闘ってくれ、死ぬことができる食口を持たねばなりません。もしも皆さんがこのような食口を持たなかったなら、天地のまえに怨讐の立場になるということを、知らねばなりません。
イエス様が地上に来られ、逝かれるようになった原因がどこにあったのか。ご自身の為に死ぬことのできる人間がいなかったからです。イエス様が地上において闘うようになった原因がどこにあったのか。ご自身の為に闘ってくれる人間がいなかったからです。またイエス様が自らを証しする原因がどこにあったのか。ご自身を証してくれる人間がいなかったからです。
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モーセの路程と今月の決意
2月になって、朝は極めて気温が低く、昼は春を迎えた温暖な気候となってきました。昨日は昼の温度また格別に高く、農作業は汗ばむ程でした。
それで自分の体調もそれについていけず、頭がくらくらして軽い熱中症になり夕方には寝込んでしまいました。このままでは明日の日曜礼拝はできないと殆ど中止にしようかと思っていました。
なんの思考もできない状態でしたが、休んでいる時間に夢を見せられたりしてやらなければ後悔すると思わされ、夜中に祈り準備をすることなりました。
真のお父様のみことば 1957年6月23日
皆さんが神様の前に立つとき、贖罪の恵みにあずかりたい心をもつことも必要です。あるいは、家庭と民族と世界の問題をめぐって贖罪の恵みを求めることも必要でしょう。しかし私たちは、自分の悲しみと嘆きを「解怨してください」とすがって哀願する段階を越え、神様の胸中に深くしみ込んだ、創造ののちに人間の過ちによって抱かされた怨恨を、解いてさしあげたいという訴えが必要であることを知らなければなりません。
私たちをして希望の園、福地を欽慕せしめ、その園に入って、被造物の代表として父に栄光を帰すことのできる人物とは、どのような人物でしょうか。その人物は、人間が神様に対して犯したすべての犯罪を蕩減するために、悔い改めの祭物になろうと勇み立つことのできる人物であるはずです。
さらには、その人物は、今まで人間の犯したすべての歴史的犯罪を蕩減しようとして苦労した歴史的な聖徒たちの罪にまで責任をもち、「お父様、語ることのできなかった、あなたの希望と嘆きのすべてを私にお任せください。私がお父様の望みをかなえ、あなたの嘆きを解怨いたします」と言うことのできる人物であるはずです。
私たちは、罪悪の歴史から抜け出さなければならない運命に置かれています。それゆえ、あらゆる罪悪と嘆きの要素を清算し、神様に向かって「これをもってして、あなたの抱いてこられたすべての怨恨を解いてください。きょう、これ以降は、お喜びくださいませ」と言うことのできる息子、娘、歴史上になかった「生きた祭物」となり得る息子、娘の現れることを望みながら、神様は今まで復帰摂理歴史を導いてこられたのです。
私たちは、神様が摂理のみ旨を立てられ、二千年の間ありとあらゆる苦労を通過しながら探し出した一人の人物がヤコブであった、ということを知らなければなりません。ヤコブ以降四百年の歴史路程を経て、神様は、ヤコブの立てた一代復帰の基準の上に民族復帰の中心人物としてモーセを立てられました。このようにして、長い歳月の間摂理してこられた神様の全体摂理の結実体として、モーセが探し出されたのです。そのため、モーセが責任を完遂すれば人間はもちろん、神様の中にたまった怨恨まで解かれるようになるのです。モーセは、こうした条件的立場で民族の代表に立てられたのです。
モーセは、神様が全歴史を摂理されて得た結実体であり、民族にとって換えることのできない存在でした。このように選ばれたモーセは、歴史的な怨恨を蕩減すべき責任が自分にあるということを感じて、神様のすべての悲しみを解かなければならず、民族的な悲しみにも責任を負わなければならない立場にありました。
それゆえ彼は、パロ宮中生活の四十年、ミデヤン荒野四十年、合計八十年の間精誠を尽くしながら、先祖から受け継いできたイスラエル選民権を失わずに志操を立ててきました。 モーセは、パロを相手にして闘ったその当時も、天の願いであるみ旨のみに対することのできる志操をもっていました。また、モーセは民族にとって換えられないほどの資格を備え、サタン側と対決できる資格を備えましたが、彼の代身者となり得るイスラエル民族になれなかったために、神様がパロをかたくなにされたことは、あなた方もよく知っているはずです。
それでは、モーセに接するイスラエル民族は、どのような心情をもつべきだったのでしょうか。彼らは、神様が数千年間苦労し、また先祖たちが数千年間努力し、何もかも与え、何もかも犠牲にして探し出され、立てられた一人の中心人物がモーセであるということが分からなければならなかったのです。イスラエル民族は、神様がすべてを犠牲にし、その代価として探し出されたのがモーセであるということが分かりませんでした。それゆえ荒野で、六十万の民衆が倒れるようになったのです。
モーセ以後、数千年の歴史を経ながら預言者たちがこの地上に送られた目的、また世界を代表してイエス・キリストがこの地上に来られた目的とは何かといえば、神様の御苦労と嘆きを代わりに負うことであり、人間と万物の嘆きを代わりに負うことであったのです。ところで、どこの誰が、イエス様が万民を代表して現れた条件的な方であることを知っていたでしょうか。イエス様が、四千年間嘆いてこられた神様に代わって、サタンに対して勝利の条件を立てる方だということを誰も知らなかったのです。
(1) 第一次民族的カナン復帰路程 概観
①信仰基台
②実体基台
・出発のための摂理
③第一次民族的カナン復帰路程の失敗
(2) 第二次民族的カナン復帰路程 概観
①信仰基台
②実体基台
・出発のための摂理 三代奇跡と十災禍
③幕屋を中心とする復帰摂理
(イ) 石板、幕屋、契約の箱などの意義とその目的
(ロ) 幕屋のための基台
(a) 第一次 幕屋のための基台
(b) 第二次 幕屋のための基台
(c) 第三次 幕屋のための基台
④第二次民族的カナン復帰路程の失敗
(3) 第三次民族的カナン復帰路程の概観
①信仰基台
②実体基台
(イ) モーセを中心とする実体基台
・出発のための摂理 岩を打って水を飲む
(ロ) ヨシュアを中心とする実体基台
③メシヤのための基台
2023年2月の決意
1 神様の怨恨の復帰摂理の心情を解放
2 中心人物の位置と立場を相続
3 王権を支える皇族圏の形成
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ルツ記ー聖書の中の女性たち
人類の願いは神様のもとに還ることです。堕落によってサタンの血統となってしまったものを神様の血統へと転換することを意味しています。
地上にイエス様をお迎えするために貴い女性の姿がありました。リベカ、タマル、ラハブ、ルツ、バテシバ、そしてマリアと。
聖書に記録されている女性たちの信仰を知ることを通して、現在の三代王権の重要性を理解し自分の行動を意識づけることができると思いみことばをさがしました。
2月の最高の恵みにそなえるために。
マタイによる福音書第1章
:1)アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。 :2)アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、:3)ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、 :4)アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、 :5)サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、 :6)エッサイはダビデ王の父であった。
ルツ記 第1章
:1)さばきづかさが世を治めているころ、国に飢きんがあったので、ひとりの人がその妻とふたりの男の子を連れてユダのベツレヘムを去り、モアブの地へ行ってそこに滞在した。 :2)その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、ふたりの男の子の名はマロンとキリオンといい、ユダのベツレヘムのエフラタびとであった。彼らはモアブの地へ行って、そこにおったが、
:3)ナオミの夫エリメレクは死んで、ナオミとふたりの男の子が残された。 :4)ふたりの男の子はそれぞれモアブの女を妻に迎えた。そのひとりの名はオルパといい、ひとりの名はルツといった。彼らはそこに十年ほど住んでいたが、 :5)マロンとキリオンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子と夫とに先だたれた。 :6)その時、ナオミはモアブの地で、主がその民を顧みて、すでに食物をお与えになっていることを聞いたので、その嫁と共に立って、モアブの地からふるさとへ帰ろうとした。
:16)しかしルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。 :17)あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください」。
ルツ記第2章
:1)さてナオミには、夫エリメレクの一族で、非常に裕福なひとりの親戚があって、その名をボアズといった。 :2)モアブの女ルツはナオミに言った、「どうぞ、わたしを畑に行かせてください。だれか親切な人が見当るならば、わたしはその方のあとについて落ち穂を拾います」。ナオミが彼女に「娘よ、行きなさい」と言ったので、 :3)ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。
ルツ記 第4章
:9)ボアズは長老たちとすべての民に言った、「あなたがたは、きょう、わたしがエリメレクのすべての物およびキリオンとマロンのすべての物をナオミの手から買いとった事の証人です。 :10)またわたしはマロンの妻であったモアブの女ルツをも買って、わたしの妻としました。
:11)すると門にいたすべての民と長老たちは言った、「わたしたちは証人です。どうぞ、主があなたの家にはいる女を、イスラエルの家をたてたラケルとレアのふたりのようにされますよう。どうぞ、あなたがエフラタで富を得、ベツレヘムで名を揚げられますように。 :12)どうぞ、主がこの若い女によってあなたに賜わる子供により、あなたの家が、かのタマルがユダに産んだペレヅの家のようになりますように」。 :13)こうしてボアズはルツをめとって妻とし、彼女のところにはいった。
真のお父様のみことば 1998年5月26日
マタイによる福音書を見れば、バテシバが現れ、ルツが現れ、タマル、そしてマリヤが現れます。すべて淫行の女性です。彼女たちは、二人の男と対しました。本妻は天の相続ができません。レアとラケルもそうです。ラケルの祝福をレアが奪い取りました。その闘いです。これを取り戻してこなければなりません。
真のお父様のみことば 1970年10月13日
ソロモンの母は誰?バテシバ。バテシバはどういう女性か?ウリヤの妻だ。ダビデ王がウリヤの妻を奪い取った。その子供がいかにしてソロモン王になるか。ウリヤは何かというと、第二の主人だよ。これが堕落もしない前のエデンの園のその位置に再び帰った立場、すなわちダビデはアダムの立場、ウリヤは天使長の立場、天使長の妻は復帰しなければならないエバの立場。天使長がアダムの相対者たるエバを、堕落して引っ張っていった。愛によって占領して、盗んでいった。それを蕩減するには、そういう三角関係に立ってもとがえししなければならない。そういう原理的基準に立った条件を成した基台の上に生まれた子供は、天の愛の子供として、栄光の子供として生まれる。
真のお父様のみことば 1971年1月10日
それで、弟が兄嫁と共に暮らしていましたが、その弟も死にました。それ故に、タマルは自分の一代に祝福を受けた血統を繋ぐことのできないことに対して、命を失うよりも、もっと苦悩するようになりました。自分は死んだとしても、どういうことがあっても祝福を受けた血族を残さなければいけないという使命感、神の祝福を残すことのできるその道を追求する心がタマルは、誰よりも強かったのです。
マリアは、タマルと同じように非法な道を行きました。タマルが非法の道において勝利したことを継承するためには、同じ道を行って、自分の夫でない他の男性を通して身ごもらなければならなかったのです。マリアは、タマルと同じように自分の命を捧げることを覚悟していたのです。体面とか威信とか、生死は問題ではありませんでした。神の祝福を受け継ぐためには、自分は石打ちにされてもいいと思ったのです。死んだとしても、子供を生んだ後に死ねばいいという確信をもって立ったマリアの立場はタマルと同じでした。
真のお父様のみことば 1998年5月26日
堕落は二人の恋人をだましたので、終末に女性たちも主を迎えるために二人の恋人をだまします。自分の本当の夫以外に、来られる主は二人の恋人を迎えて夫を立てるので、離婚というものを自由化させたのです。自分の夫以外に他の男性を好きになるのです。それゆえ、女性で男性に多く対する訓練をした人たちが妾です。
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ダビデの如くー日曜礼拝
今日(陽暦1月22日)は天暦の1月1日真の神の日が日曜日となった貴重な一日でした。
礼拝の内容をどうするかとこの一週間尋ねていましたが、真のお父様が1976年9月にワシントン大会を勝利されたときの状況とみことばをふと思い出しました。
真のお父様が、世界復帰路程を前に、ゴリアテに立ち向かうダビデのことを例にして、ご自身の深刻な心情世界を発表されておられました。
今、二代王様がまさに同じ立場と場面でゴリアテを相手にされていること痛感させられ、今の私自身も同じような環境に向かわなければならないと思わされました。
サムエル記上 16章
:11)サムエルはエッサイに言った、「あなたのむすこたちは皆ここにいますか」。彼は言った、「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。サムエルはエッサイに言った、「人をやって彼を連れてきなさい。彼がここに来るまで、われわれは食卓につきません」。
:12)そこで人をやって彼をつれてきた。彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。主は言われた、「立ってこれに油をそそげ。これがその人である」。
:13)サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。そしてサムエルは立ってラマへ行った。
サムエル記上17章
:20)ダビデは朝はやく起きて、羊を番人に託し、エッサイが命じたように食料品を携えて行った。彼が陣営に着いた時、軍勢は、ときの声をあげて戦線に出ようとしていた。
:21)そしてイスラエルとペリシテびととは戦列を敷いて、軍と軍と向き合った。
:22)ダビデは荷物をおろして、荷物を守る者にあずけ、戦列の方へ走って、兄たちの所へ行き、彼らの安否を尋ねた。
:23)兄たちと語っている時、ペリシテびとの戦列から、ガテのペリシテびとで、名をゴリアテという、あの戦いをいどむ者が上ってきて、前と同じ言葉を言ったので、ダビデはそれを聞いた。
:24)イスラエルのすべての人は、その人を見て、避けて逃げ、ひじょうに恐れた。
:25)イスラエルの人々はまた言った、「あなたがたは、あの上ってきた人を見たか。確かにイスラエルにいどむために上ってきたのだ。彼を殺す人は、王が大いなる富を与えて富ませ、その娘を与え、その父の家にはイスラエルのうちで税を免れさせるであろう」。
:26)ダビデはかたわらに立っている人々に言った、「このペリシテびとを殺し、イスラエルの恥をすすぐ人には、どうされるのですか。この割礼なきペリシテびとは何者なので、生ける神の軍をいどむのか」。
サムエル記上17章
:43)ペリシテびとはダビデに言った、「つえを持って、向かってくるが、わたしは犬なのか」。ペリシテびとは、また神々の名によってダビデをのろった。
:44)ペリシテびとはダビデに言った、「さあ、向かってこい。おまえの肉を、空の鳥、野の獣のえじきにしてくれよう」。
:45)ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。
:46)きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。
:47)またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。
:48)そのペリシテびとが立ち上がり、近づいてきてダビデに立ち向かったので、ダビデは急ぎ戦線に走り出て、ペリシテびとに立ち向かった。
:49)ダビデは手を袋に入れて、その中から一つの石を取り、石投げで投げて、ペリシテびとの額を撃ったので、石はその額に突き入り、うつむきに地に倒れた。
お父様のみことば 1979年10月4日
誰にとっても、これは神なしには不可能な業績です。一人の男が韓国の山奥から出てきて、言葉も通じない見知らぬ文化の国にきて、三年半という短期間のうちに全世界に知られるようになったことは、ありふれたことでしょうか、それとも並はずれたことでしょうか(並はずれたことです)。さらに、先生が遂行した絶頂点の戦いは法廷闘争でなく米国議会でした。そこが戦場でした。その戦いは、現代のダビデがゴリアテにむかっていった戦いでした。先生はこの日を預言しました。私たちは栄え、勝利するだろうと。これは対決でした。
お父様のみことば 1973年7月1日
数においては小さな我々ですが、負けることはできません。共産主義との闘いはダビデとゴリアテの闘いに例えることができます。 先生は砂漠の中の羊飼いであり、アメリカを導かなければなりません。しかし、アメリカの中には、それを自分自身の責任として、共産主義から国を守ろうとする者はいないのです。どこにゴリアテに立ち向かうアメリカのダビデがいるでしょうか?ダビデは武器を持っておりませんでした。みすぼらしい格好をしていました。しかし、敢然と立ち向かったのです。アメリカのダビデは――ここにいる皆様です。アメリカの統一教会です。たとえダビデは小さくとも、神が共にいてくださることを信じていました。
ダビデの信仰
この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである

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神様を発見する農作業
今月になって氷点下の時もあって、畑は凍り付いていましたが最近、温かい日が続いています。
昨日はらっきょとスナップエンドウを植えているところの草取りをしました。
最近、農園をやっている姉妹から「わたしは草取りが趣味で大好きです。なぜかというと終わった後の達成感に感動するからです」。というのを聞いて考えるところがありました。
大変だと思うとなにかつらくなりますが、喜びがあると思って取り組むと前向きになります。
神様の創造と復帰の摂理も次元ははるかに違うけど、完成したときの喜びを待っておられるのかとそんなことを感じた時間でした。



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パウロと私ー日曜礼拝
昨年の2022年12月25日は日曜日でクリスマスでした。
当然のことながらキリスト教の根本を考えるときとなりました。そのキリスト教の土台は初期のクリスチャンが築かれたものです。
その中で、使徒パウロの功績は絶大な影響であると知っています。
今のこの時に、大伝道師、使徒パウロの勝利圏を知り、そしてそれを相続するためにどうすればいいのかを考え悩む者です。
使徒行伝 第9章
:4)彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
:5)そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
:6)さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。
:15)しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。
:16)わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。
コリント第一の手紙 第9章
:19)わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。
:20)ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。
コリント第二の手紙 第11章
:24)ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
:25)ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。
:26)幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
:27)労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。
テモテ第二の手紙 第4章
:6)わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
:7)わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
:8)今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。
真のお父様のみことば 1991年11月3日
復帰摂理はやたらにやるものではありません。既成教会では「唯信じれば救われる」と言いますが、そのようにはなっていません。パウロ信仰が霊界に行ってみると大きな問題になっています。信じることで救われるのではありません。
神様は創造当時、信仰をもって創造されたのではありません。信仰をもって人を造ったのではありません。
何をもって造ったかというと、愛をもって造ったのです。信仰という概念はそこにはありません。愛を中心とした実践概念はありましたが、信仰という概念はなかったのです。
真のお父様のみことば
イスラエル民族が待ちわびたメシヤは来ましたが、イスラエル民族はそのメシヤが分かりませんでした。なぜ仕えることができなかったのでしょうか。
簡単なのです。メシヤのみ旨は世界を救い、人類を救うところにあります。そして、そのイスラエル民族を選んで立てたのは、イスラエル民族のゆえに選んで立てたのではありませんでした。皆さんはこのことを知らなければなりません。
それゆえ、ヨハネによる福音書第三章十六節を見れば、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とおっしゃったのです。神様がキリスト教を愛され、ひとり子を与えたのではありません。滅びるキリスト教は覚醒しなければならないのです。イエス様がキリスト教のために来たのではないのです。万民のために来たことを知らずにいるのです。イエス様がキリスト教だけのメシヤになるための方ではないのです。(八一―二三六)
霊界から来たパウロの手紙 2001年7月23日
私、使徒パウロは、地上でどこに行こうと主、イエスのために証したように、ここ主、神様の家では「原理教本」を手から放しませんでした。
とても大切で貴重なので、時が過ぎれば過ぎるほど「原理教本」は私の命のように感じられて、手から放すことができません。もしかしたら、なくしてしまうかと思って、かばんをつくり、首に掛けて歩き回りもしました。
私の生涯の目標
・パウロのように主に侍る
・伝道に命がけとなる
・聖書に通ずるものとなる
・永遠に備えて原理講義を体恤する

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当然のことながらキリスト教の根本を考えるときとなりました。そのキリスト教の土台は初期のクリスチャンが築かれたものです。
その中で、使徒パウロの功績は絶大な影響であると知っています。
今のこの時に、大伝道師、使徒パウロの勝利圏を知り、そしてそれを相続するためにどうすればいいのかを考え悩む者です。
使徒行伝 第9章
:4)彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
:5)そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
:6)さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。
:15)しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。
:16)わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。
コリント第一の手紙 第9章
:19)わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。
:20)ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。
コリント第二の手紙 第11章
:24)ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
:25)ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。
:26)幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
:27)労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。
テモテ第二の手紙 第4章
:6)わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
:7)わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
:8)今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。
真のお父様のみことば 1991年11月3日
復帰摂理はやたらにやるものではありません。既成教会では「唯信じれば救われる」と言いますが、そのようにはなっていません。パウロ信仰が霊界に行ってみると大きな問題になっています。信じることで救われるのではありません。
神様は創造当時、信仰をもって創造されたのではありません。信仰をもって人を造ったのではありません。
何をもって造ったかというと、愛をもって造ったのです。信仰という概念はそこにはありません。愛を中心とした実践概念はありましたが、信仰という概念はなかったのです。
真のお父様のみことば
イスラエル民族が待ちわびたメシヤは来ましたが、イスラエル民族はそのメシヤが分かりませんでした。なぜ仕えることができなかったのでしょうか。
簡単なのです。メシヤのみ旨は世界を救い、人類を救うところにあります。そして、そのイスラエル民族を選んで立てたのは、イスラエル民族のゆえに選んで立てたのではありませんでした。皆さんはこのことを知らなければなりません。
それゆえ、ヨハネによる福音書第三章十六節を見れば、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とおっしゃったのです。神様がキリスト教を愛され、ひとり子を与えたのではありません。滅びるキリスト教は覚醒しなければならないのです。イエス様がキリスト教のために来たのではないのです。万民のために来たことを知らずにいるのです。イエス様がキリスト教だけのメシヤになるための方ではないのです。(八一―二三六)
霊界から来たパウロの手紙 2001年7月23日
私、使徒パウロは、地上でどこに行こうと主、イエスのために証したように、ここ主、神様の家では「原理教本」を手から放しませんでした。
とても大切で貴重なので、時が過ぎれば過ぎるほど「原理教本」は私の命のように感じられて、手から放すことができません。もしかしたら、なくしてしまうかと思って、かばんをつくり、首に掛けて歩き回りもしました。
私の生涯の目標
・パウロのように主に侍る
・伝道に命がけとなる
・聖書に通ずるものとなる
・永遠に備えて原理講義を体恤する

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エリヤと我々ー日曜礼拝
久方ぶりにブログをアップすることにしました。
基本的に毎週礼拝を行い、記録しているのでそれを紹介したいと思います。
日曜礼拝 エリヤと我々
ヤコブの氏族がエジプトへ
エジプト苦役時代400年
モーセを中心とする摂理
士師時代 400年
統一王国時代 120年
ソロモン王の堕落
南北王朝分立時代を迎えたとき
エリヤの出現
列王記上16章
:29)ユダの王アサの第三十八年にオムリの子アハブがイスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年イスラエルを治めた。 :30)オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。 :31)彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。 :32)彼はサマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。 :33)アハブはまたアシラ像を造った。アハブは彼よりも先にいたイスラエルのすべての王にまさってイスラエルの神、主を怒らせることを行った。
列王記上18章
:19)それで今、人をつかわしてイスラエルのすべての人およびバアルの預言者四百五十人、ならびにアシラの預言者四百人、イゼベルの食卓で食事する者たちをカルメル山に集めて、わたしの所にこさせなさい」。 :20)そこでアハブはイスラエルのすべての人に人をつかわして、預言者たちをカルメル山に集めた。 :21)そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。 :22)エリヤは民に言った、「わたしはただひとり残った主の預言者です。しかしバアルの預言者は四百五十人あります。 :23)われわれに二頭の牛をください。そして一頭の牛を彼らに選ばせ、それを切り裂いて、たきぎの上に載せ、それに火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の牛を整え、それをたきぎの上に載せて火をつけずにおきましょう。
列王記上19章
:1)アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げたので、 :2)イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。 :3)そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、 :4)自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。
:18)また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。
列王記下2章
:11)彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。
マラキ書4章
:4)あなたがたは、わがしもべモーセの律法、すなわちわたしがホレブで、イスラエル全体のために、彼に命じた定めとおきてとを覚えよ。:5)見よ、大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。:6)彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。
お父様のみことば 1989年1月1日
こうして、エリヤを中心として南朝にすべての……。聖書を見るならば、善なる預言者は全部南朝に送ったのです。それで北朝を……。北朝はカインなのです。十支派。これがヤコブ時代に十兄弟がヨセフを売り飛ばしたでしょう? それと同じことが歴史に起こるのです。そこから二支派。ベニヤミンとヨセフ。ユダヤ教の北朝十支派、南朝のユダ二支派のように分かれてくるのです。そのような闘いが始まるのです。そうなると、ヨセフの二支派は天側であり、十支派はサタン側なのですが、この天側になる二支派を通じて十支派を消化しなければなりません。その闘いが旧約の歴史なのです。旧約時代は、全部闘いなのです。
それですべての預言者たちは、南朝ユダの国に送ったのです。そうして、北朝を救おうとしたのです。北朝は全部アシラの木像、全部、木像なのです。全部、外的神たちなのです。見える実体神。そうしてバアル神が生じ、バアル神は淫乱の神なのです。そう、昔の巫女たち、占い師や巫女たち全部、貞操を売ってそうしたではありませんか。行動がよくないでしょう? 悪魔の巣窟が皆、そのようなのです。このような神たちを見て、エリヤが出てきて慨嘆したのです。十支派の偽神を崇める祭司長たちと真の神を崇めるエリヤと、人で八百余神たち、北朝に偶像崇拝する神たちと闘って真の神が誰なのかということを見せてやるために祈祷をするのです。
祈祷をするのに、エリヤは祭壇にひざまづいて祈祷して、天から火が下ってきて皆燃えてしまってではありませんか。そうして、八百余のバアルの神を一度にへし曲げて捨てたというのです。こうしておけば、北朝がそこから神様の前に悔い改め、立ち返らなければならないのに、怨讐となった南朝の前に屈したくないというのです。それ、誤ったのです。神様は信ずるけれども南朝を好きではないというのです。それが問題だというのです。
そのようなとき、エリヤを全部、とらえて殺そうとするから、逃げていって神様の前に訴えるのです。「私の生命をひきとって下さい。あなたがやれという通りに全部したのに、このようにすれば願いが全部成就すると思ったのに、むしろ私をとらえて殺そうとしますから、神様が何なのか」と言いながら祈祷するとき、神様が言うには、まだバアルに屈しない七千の群れがいると語ったのです。そのような輩たちの中に、バアル神の前に屈しなかった七千余の群れが残っているゆえに、この七千の群れを中心として統一的な願いの基準を残してくると語ったのです。
旧約時代にそうだったので、これを新約時代にメシヤが来るとき、エリヤを送ってやるというのは、そのような使命を再びするためのエリヤ的責任を中心として、洗礼ヨハネを送ったのです。洗礼ヨハネがしなければならなかったことは何があったのかと言えば、よこしまなユダヤ教とユダヤの国に外的な風習、バビロニヤから浸ってきた異邦神のすべての風習的汚いものを清算してしまわなければならなかったのです。皆、火に燃やしてしまい、エリヤが主張したように神様へたち返ろうという主張で一致しなければならなかったにもかかわらず、それを代身しなければならなかったのが洗礼ヨハネであるにもかかわらず、洗礼ヨハネがその責任を果たせなかったというのです。
イエスが来るようになるならば、ユダヤ教とユダヤの国は必ずイエスを捕らえて殺そうとするというのです。反対するようになっているというのです。これを分けて、メシヤの道を収拾するために……。ユダヤの国においてカイン的ユダヤの国とユダヤ教の前に七千余の群れを治めていたならば、イエスは死なないというのです。洗礼ヨハネがしっかりやったならば、七千余の群れだけつくったでしょうか? イエスと合わさったならば……。三年間に七万名でなく、七十万名もつくることができたというのです。
その中で天の国が捜し求めようと願う氏族編成、民族編成、国家代表たちを立てて祭祀を捧げなければならなかったのです。歴史に宗教を通して、このような蕩減原理によって神様とサタンの前に万国の解放のための祭祀を捧げなければならなかったのです。その祭司長をつくらなければならないのが洗礼ヨハネであり、祭物にならなければならないのがイエスだったのにもかかわらず、洗礼ヨハネがイエスと一つになれなくてイエスの十字架への道を開いてやったのです。その十字架の道を開いてやったのが洗礼ヨハネです。ところが七千余の群れどころか七百も治められず、死んだというのです。
時になるに従って、先生の時代にこれを復帰するのです。監獄に行きながら失ってしまったので、これを蕩減復帰しなければならない。で、私がダンベリーに入っていって獄中で七千名の教役者の教育を実施したのがそれです。これを中心としてアメリカのカイン・アベル圏、教会と国家圏、内的な教会・外的な国家、このカイン・アベルが一つになることができなかったので、これを先生が中心になって教会の牧師と国会の上下院を中心として、さらに州上下院を中心として、完全に一致化される業をしたのです。
ですから、アメリカのキリスト教会の七千名を韓国に連れてきて、韓国に接ぎ木するのです。彼らが韓国に来たので、アメリカ人ではないのです。ですから、昨年まで七千名を中心としてその業をしたのが終わって、国防省で今まで将星たち三千五百名を全部、教育して、これを一万名以上、在郷軍人会の協会責任者と教会と連結させるのです。それで教会と連結、地方組織軍事連結するのです。その次には、政治世界、七千名の州上下議員たちを……。七千名皆必要でないのです。三千五百名、半分以上、皆教育してしまったというのです。 1989年1月1日のみことば
エリヤの使命
・バアル神を滅ぼす
・分立されたイスラエルをひとつにする
・神様が約束された7000名を信じる
・旧約時代を代表してイエスを大歓迎する基台づくり
我々の使命
・サタンを分立する
・天一国創建の摂理に貢献
・神様が約束された7000名
・成約時代を代表し三大王権を大歓迎する基台の拡大

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基本的に毎週礼拝を行い、記録しているのでそれを紹介したいと思います。
日曜礼拝 エリヤと我々
ヤコブの氏族がエジプトへ
エジプト苦役時代400年
モーセを中心とする摂理
士師時代 400年
統一王国時代 120年
ソロモン王の堕落
南北王朝分立時代を迎えたとき
エリヤの出現
列王記上16章
:29)ユダの王アサの第三十八年にオムリの子アハブがイスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年イスラエルを治めた。 :30)オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。 :31)彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。 :32)彼はサマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。 :33)アハブはまたアシラ像を造った。アハブは彼よりも先にいたイスラエルのすべての王にまさってイスラエルの神、主を怒らせることを行った。
列王記上18章
:19)それで今、人をつかわしてイスラエルのすべての人およびバアルの預言者四百五十人、ならびにアシラの預言者四百人、イゼベルの食卓で食事する者たちをカルメル山に集めて、わたしの所にこさせなさい」。 :20)そこでアハブはイスラエルのすべての人に人をつかわして、預言者たちをカルメル山に集めた。 :21)そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。 :22)エリヤは民に言った、「わたしはただひとり残った主の預言者です。しかしバアルの預言者は四百五十人あります。 :23)われわれに二頭の牛をください。そして一頭の牛を彼らに選ばせ、それを切り裂いて、たきぎの上に載せ、それに火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の牛を整え、それをたきぎの上に載せて火をつけずにおきましょう。
列王記上19章
:1)アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げたので、 :2)イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。 :3)そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、 :4)自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。
:18)また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。
列王記下2章
:11)彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。
マラキ書4章
:4)あなたがたは、わがしもべモーセの律法、すなわちわたしがホレブで、イスラエル全体のために、彼に命じた定めとおきてとを覚えよ。:5)見よ、大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。:6)彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。
お父様のみことば 1989年1月1日
こうして、エリヤを中心として南朝にすべての……。聖書を見るならば、善なる預言者は全部南朝に送ったのです。それで北朝を……。北朝はカインなのです。十支派。これがヤコブ時代に十兄弟がヨセフを売り飛ばしたでしょう? それと同じことが歴史に起こるのです。そこから二支派。ベニヤミンとヨセフ。ユダヤ教の北朝十支派、南朝のユダ二支派のように分かれてくるのです。そのような闘いが始まるのです。そうなると、ヨセフの二支派は天側であり、十支派はサタン側なのですが、この天側になる二支派を通じて十支派を消化しなければなりません。その闘いが旧約の歴史なのです。旧約時代は、全部闘いなのです。
それですべての預言者たちは、南朝ユダの国に送ったのです。そうして、北朝を救おうとしたのです。北朝は全部アシラの木像、全部、木像なのです。全部、外的神たちなのです。見える実体神。そうしてバアル神が生じ、バアル神は淫乱の神なのです。そう、昔の巫女たち、占い師や巫女たち全部、貞操を売ってそうしたではありませんか。行動がよくないでしょう? 悪魔の巣窟が皆、そのようなのです。このような神たちを見て、エリヤが出てきて慨嘆したのです。十支派の偽神を崇める祭司長たちと真の神を崇めるエリヤと、人で八百余神たち、北朝に偶像崇拝する神たちと闘って真の神が誰なのかということを見せてやるために祈祷をするのです。
祈祷をするのに、エリヤは祭壇にひざまづいて祈祷して、天から火が下ってきて皆燃えてしまってではありませんか。そうして、八百余のバアルの神を一度にへし曲げて捨てたというのです。こうしておけば、北朝がそこから神様の前に悔い改め、立ち返らなければならないのに、怨讐となった南朝の前に屈したくないというのです。それ、誤ったのです。神様は信ずるけれども南朝を好きではないというのです。それが問題だというのです。
そのようなとき、エリヤを全部、とらえて殺そうとするから、逃げていって神様の前に訴えるのです。「私の生命をひきとって下さい。あなたがやれという通りに全部したのに、このようにすれば願いが全部成就すると思ったのに、むしろ私をとらえて殺そうとしますから、神様が何なのか」と言いながら祈祷するとき、神様が言うには、まだバアルに屈しない七千の群れがいると語ったのです。そのような輩たちの中に、バアル神の前に屈しなかった七千余の群れが残っているゆえに、この七千の群れを中心として統一的な願いの基準を残してくると語ったのです。
旧約時代にそうだったので、これを新約時代にメシヤが来るとき、エリヤを送ってやるというのは、そのような使命を再びするためのエリヤ的責任を中心として、洗礼ヨハネを送ったのです。洗礼ヨハネがしなければならなかったことは何があったのかと言えば、よこしまなユダヤ教とユダヤの国に外的な風習、バビロニヤから浸ってきた異邦神のすべての風習的汚いものを清算してしまわなければならなかったのです。皆、火に燃やしてしまい、エリヤが主張したように神様へたち返ろうという主張で一致しなければならなかったにもかかわらず、それを代身しなければならなかったのが洗礼ヨハネであるにもかかわらず、洗礼ヨハネがその責任を果たせなかったというのです。
イエスが来るようになるならば、ユダヤ教とユダヤの国は必ずイエスを捕らえて殺そうとするというのです。反対するようになっているというのです。これを分けて、メシヤの道を収拾するために……。ユダヤの国においてカイン的ユダヤの国とユダヤ教の前に七千余の群れを治めていたならば、イエスは死なないというのです。洗礼ヨハネがしっかりやったならば、七千余の群れだけつくったでしょうか? イエスと合わさったならば……。三年間に七万名でなく、七十万名もつくることができたというのです。
その中で天の国が捜し求めようと願う氏族編成、民族編成、国家代表たちを立てて祭祀を捧げなければならなかったのです。歴史に宗教を通して、このような蕩減原理によって神様とサタンの前に万国の解放のための祭祀を捧げなければならなかったのです。その祭司長をつくらなければならないのが洗礼ヨハネであり、祭物にならなければならないのがイエスだったのにもかかわらず、洗礼ヨハネがイエスと一つになれなくてイエスの十字架への道を開いてやったのです。その十字架の道を開いてやったのが洗礼ヨハネです。ところが七千余の群れどころか七百も治められず、死んだというのです。
時になるに従って、先生の時代にこれを復帰するのです。監獄に行きながら失ってしまったので、これを蕩減復帰しなければならない。で、私がダンベリーに入っていって獄中で七千名の教役者の教育を実施したのがそれです。これを中心としてアメリカのカイン・アベル圏、教会と国家圏、内的な教会・外的な国家、このカイン・アベルが一つになることができなかったので、これを先生が中心になって教会の牧師と国会の上下院を中心として、さらに州上下院を中心として、完全に一致化される業をしたのです。
ですから、アメリカのキリスト教会の七千名を韓国に連れてきて、韓国に接ぎ木するのです。彼らが韓国に来たので、アメリカ人ではないのです。ですから、昨年まで七千名を中心としてその業をしたのが終わって、国防省で今まで将星たち三千五百名を全部、教育して、これを一万名以上、在郷軍人会の協会責任者と教会と連結させるのです。それで教会と連結、地方組織軍事連結するのです。その次には、政治世界、七千名の州上下議員たちを……。七千名皆必要でないのです。三千五百名、半分以上、皆教育してしまったというのです。 1989年1月1日のみことば
エリヤの使命
・バアル神を滅ぼす
・分立されたイスラエルをひとつにする
・神様が約束された7000名を信じる
・旧約時代を代表してイエスを大歓迎する基台づくり
我々の使命
・サタンを分立する
・天一国創建の摂理に貢献
・神様が約束された7000名
・成約時代を代表し三大王権を大歓迎する基台の拡大

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