家庭聖殿拡大 大分聖殿

家庭教会は、神と真の父母が人類に与えた最高の贈り物です。それは過去において未来においても、けっして存在しない最初のものであり最後のものです。あなた方は家庭教会の贈り物を受けました。それを果たすことによって、あなた方は真の息子・娘になるのです。家庭教会は、あなた方自身を真の息子・娘にする容器なのです。 みことば

阿南信義

爆発的伝道のすすめ

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爆発的伝道のすすめ

終末的状況がいよいよ色濃くなってきました。中国共産党の動き、またアメリカの暴動の背後の動きなど、世界は深刻な事態となってきています。

こんな時我らは何をすべきか。三代王権を守ることのできる伝道基盤の拡大であることを感じてなりません。

そのために爆発的伝道をなさなければと思います。今日の礼拝でその爆発的伝道をどうすべきかをみことばから探りました。

関心のある方、時間がある方、よろしければ視聴していただければ幸いです。






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神様の祝福の最大の願いとは

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こちらでは毎週の礼拝をみことばを訓読しながらやるようにしています。真のお父様のみことばは深く難解な部分も多くありますので、何回も読み返して心情を理解するように努めています。
みことばの一句一句を明確化して、背後の天の心情を相続することが重要と思います。真のお父様のみことばを基準とする礼拝は誰でも行うことができ、人間的な知恵が必要ないのである面、簡単に行うことができます。







 みことば 神様の祝福の最大の願いとは何か  1960.4.24
堕落以前、私たちの先祖は、万物の主人公としての資格を与えられました。神様から「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、……すべての生き物とを治めよ」(創世記一・二八)という祝福を受けたのです。

 そういう祝福が昔、私たちの先祖に与えられたのに、今日までこの地には、神様のその祝福どおりにすべての天地を主管した者がいなかったのです。もしその祝福が成されたとするなら、この世界は嘆息の世界にならなかったでしょうし、苦痛の世界にならなかったでしょうし、人類は恨みの世界でさまよわなかったことでしょう。

 ところがその祝福が成されなかったがゆえに、今日まで人間は悲惨な歴史路程をさまよってきました。どのような歴史をさぐってみても、そこには悲しみと苦痛の事情がつづられているということを私たちはあまりにもよく知っています。このように人類歴史は、神様の祝福を成し遂げてきた過程ではなかったのです。

 これを見るとき、人は幸せな立場を失って、幸せでない立場に落ちたというのです。あなた方も、幸せな立場でなく、幸せでない立場に処しているのです。私たちは、幸福な立場で生きているのでなく、不幸な立場で生きているというのです。平和の世界で生きているのでなく、その反対の世界で生きているということを否定する道がありません。

 人類歴史は、人間だけで動かしてきた歴史ではありません。私たち人間が、ある目標をもって、ある計画のもとに引っ張ってきた歴史ではないのです。時期と時期、時代と時代、世紀と世紀を経てきながら多くの革命もありましたが、その革命理念により何十年あるいは何百年で成された世界は、みな消えてしまいました。それは人類歴史が、人間の見た夢によって成される歴史ではなく、人間のいかなる創造的な計画のもとでも成される歴史ではないためです。

 人類歴史は、大天倫の目標と計画のもとで、一つの理念的な目的地に向かって進んでいく歴史です。このように人類歴史には、苦難の歴史過程をたどり、自然な形態の世界を展開させようとする天のプログラムが含まれているのです。歴史にこういうプログラムがないとするなら、神様は存在しないはずです。

 私たちは、堕落しないアダムとエバを祝福なさった神様の祝福の恵みを懐かしく思うことができなければなりません。神様が堕落しないアダムとエバを立てて手を取って祝福なさったとするなら、祝福なさった神様のその手は、どこへ行ったのでしょうか! 祝福なさったその祝福の権限は、どこへ行ったのでしょうか! 祝福とは楽しくて幸せな因縁の条件であるはずですが、その条件を中心として見つめてこられた世界理念は、どこへ行ったのでしょうか!みなどこかへ行ってしまったというのです。

 ですから天は、人間中心のこの世界を収拾して、遠くの見解の世界を近い見解の世界へ、遠くの感覚の世界を直接的な感覚の世界へ引き込むのです。外的な世界を内的な心情の世界と結びつけて、「私」という一つの存在価値と全体価値の絆を謳歌することができる世界へ連結させるために、その目的のもとで歴史は回り、曲がりくねりながらこの世界を成してきたことを知らなければならないのです。

 ふっと見てみると、目的なく流れる歴史のようですが、過ぎてみればある目的意識のもとで一つ一つのことが処理されてきたことが分かります。このようなことを見るときに、全歴史は私たちが知ることのできないある目的意識、絶対的な計画によって動く歴史であることが分かります。

 私たちは、創造主の大理念を中心としたプログラムによって、開拓者の使命をもっています。しかし私たちの先知先烈、聖賢、賢哲が先にこの使命を継承して分担してきました。このように、そういう大目的世界を成し遂げるために人類が動員されただけでなく、天も動員されてきたのです。

 それでは、神様の最大の願いとは何でしょうか。神様が喜んで心情全体を掲げて祝福することができる、その願いとは何でしょうか。これが問題になるのです。神様の祝福の最大の願いとは何でしょうか。きょう皆さんと共に考えてみようと思う問題は、正にこれです。


 今日私たちは国の中で生きていますが、国でない国で生きています。社会の中で生きていますが、社会でない社会で生きています。家庭の中で生きていますが、家庭でない家庭で生きています。イエス様はおっしゃいました。「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイ一〇・三四)と。創造主の理念のもとでは容認されない否定的な地になったので、ここに革命を起こすためにイエス様がいらっしゃったというのです。

 では、私たちの出発の起源はどこでしょうか。私たちはどこから出発したのでしょうか。私たちは神様の愛の懐から出発したのではなく、神様が悲しみの涙をぽたぽた落とす立場から出発したのです。そのような人間なので、苦痛を受けてやるせない立場に立ち、殺しに遭い、号泣して絶望する立場に立つようになったのです。

 道義の道は、苦痛を当然として行く道であり、失望の道を正当化させて行く道であり、絶望の立場で希望をもって進んでいく道です。なぜですか。人間は反逆者であるために、反逆の種を蒔いたすべてを蕩減しなければならないのです。報いを受けなければならない人間であるので、蕩減を受けなければならないのです。

 では、今後世界を支配できる民族は、いかなる民族でしょうか。悲しみを甘んじて受ける民族、苦痛を甘んじて受ける民族、悔しさを当然として受ける民族、そうしながらも天をつかむ民族が世界を支配するのです。

 ゆえに昔からずっと善の道に従ってきた人々は、心では喜びと幸福の世界を望みましたが、実際の生活では苦痛の道を歩みました。「苦痛よ来い。お前に私の願いを取られるものか!悲しみよ来い。お前が私の喜楽を抑えられるものか! 死よ来い。勝利の一日、栄光の一日を願う理念の世界観を奪われるものか!」という覚悟のもとで歩んできた道が、聖賢、賢哲たちの道であり、キリスト教の歴史なのです。怨讐から受ける手の苦痛、怨讐から受ける足の苦痛、怨讐から受ける横腹の苦痛をイエス様は当然として受けられました。歴史は、このようなイエス様と同じ群れを通して収拾されてくるのです。

 天は、どうして人間をそういう環境に立てて役事なさるしかないのでしょうか。それは、世界が既にサタン圏内に入っているためです。この世界を支配しているのはサタンです。それで天は、先頭に立って人類を指導することができませんでした。今日まで後ろから役事してこられたのです。

 終わりの日になれば、悪はふさがってしまうのが原則です。この歴史は、世界的な舞台に向かって出発したので、その終わりも世界的な舞台で成されます。悪は転がることで始まったので、終わりの日まで転がってきているのです。六千年間そのように転がってきました。しかし、悪は必ず途絶えるようになっています。悪の軌道は正常な軌道ではないために、ある時、必ず脱線するのです。その時が終わりの日です。終わりの日には切れるのです。

 これを知っている天は、この悪の世界を正面から防止しようとしはなかったのです。このように転がってくる悪の世界のもとで、落伍者を収拾してこられたのです。これが天の歴史です。悲しいことです。全天地をサタンにみな奪われた天は、生き生きとして凛々しい者たちを収拾するのではなく、悪に向かって駆け足をしている死亡世界の権勢の後ろで、絶望して落ちる落伍者を収拾してこられるのです。これがまた、宗教の使命です。

 ですからこの世で落伍したり、大きな絶望に打ちひしがれたり、失敗をしたり、その何かに衝撃を受けて頼ることができなくなったとき、大多数の人々は道義の道を訪ねます。悲しいことがあるというなら、これ以上悲しいことはありません。
 人間が堕落しなければ天はその直系の子女を通して、この世界を自由に主管することができたのです。ところが人間が堕落して、サタンがこの世界を主管するようになったその日から、天は落伍者をつかんで頼む立場になったのです。それゆえに天を信じる人々は、愚かな人々だと非難を受けています。

 しかし、無知で無力で何も分別できないこの者たちが、天を信じて礎石になってきています。洞穴に石を詰め入れて、また入れて、埋めて、また埋めて、その洞穴が平坦になるまで、この地の数多くの落伍者が道義の世界で祭物になってきたのです。

 天は世の中の落伍者を収拾して、この地のどのような者にも負けない個人を立てるために、無限に努力されました。このようにして立てた人が、アブラハムであり、ヤコブであり、モーセであり、イエス様なのです。ヤコブは家庭を、モーセは民族を、イエス様は世界を収拾するための代表者だったのです。個人を立てて家庭を収拾し、社会と国家、世界を収拾しなければならないために、その代表者として遣わされた方がイエス・キリストです。

 イエス様が来られて逝ったその日から今日まで、キリスト教はイエス様が再び来られるという再臨思想を抱いてきました。では、今後この地に再び来られる主は、いかなる使命をもって来られるでしょうか。世界を収拾する代表者の使命をもって来られるはずです。それで天は、愚かな人から橋渡しをし、肩と肩を連結させて、体と体を連結させて、この天地のどこの誰にも負けない一つの理念的な代表者を前面に立てるために役事してこられたのです。

 過去には、おばあさんたちがたくさん動員され、真心を尽くしました。また婦人たちが、多くの真心を尽くしました。他の見方をすれば、今日までの宗教は婦人たちの宗教でした。男性たちの宗教ではなかったのです。か弱い女性たちが悲しみに満ちた心情で真心を尽くして積み上げた土台の上に、今日のような世界的な宗教の形態を備えるようになりました。このようにして、これがだんだん社会全体に伝播され、世界を動かすことができる民主陣営を建設するようになったのです。

 では、終わりの日とはいかなる時でしょうか。この世界を収拾しなければならない時です。したがってこの世界を収拾できる祝福を受けた代表者、祝福を受けた群れが出てこなければならないのです。イエス様はこの地に来られて「私は息子であり、神様のひとり子」と言われ、「私は新郎であり、あなた方は新婦」と言われました。しかしこのみ言どおり「あなたは天地を代表した私の新婦だ」と認められた人は、この地に一人もいなかったのです。

 今日全世界に散らばっている数多くのキリスト教信者は、みな自称新婦だと豪語していますが、天が「あなたは間違いなく天地を代表した新婦だ」と公認した人がいないというのです。さらには神様を「お父様」と呼んではいますが、神様から「あなたは本当に私の愛する息子、娘だ」という祝福を受けた人は、一人もいなかったのです。


 六千年間訪ねてこられた神様の最高の目的とは何でしょうか。天主権の国を建てたのち、その民に対し忠臣の道理を教えてあげることが神様の願いです。しかし、天国ではこういう人が忠臣であるからこのように行け、と教えてくれる何ものもありません。こうしてこのようにすれば、間違いなく天の忠臣になると教えてくれないというのです。天が立てようとする国はこのようなので、怨讐をこのように屈服させなければならない、と教えてはくれません。

 今日私たちは、忠臣の教訓を受けましたか。受けられませんでした。天の家庭はこうであるので、神様を代表する真の父母に侍る真の孝子、孝女になろうとするならこのようにしなければならないという、孝子、孝女の教訓を受けましたか。受けることができませんでした。さらには「君はこのようにすれば、私の愛する新婦だと天地の前に宣布できる」という新郎新婦の教訓を受けましたか。受けることができませんでした。聖書でも、こういうことを教えてくれなかったのです。

 行かなければならない道がこのような道なので、生死を意に介さずこういう道を行かなければならないのです。これが堕落した人間の運命です。ですから、私たちは喜々としてきょうを楽しむことができません。そのようなことができる人生ではありません。私たちがうれしがってきょうの時間を送ってしまえば、私たちの子孫がげんこつを振って地を打ち、審判台を恐れて嘆くのです。それが心配ならば、一時の安らかな立場を避けて、「天上の心情がどこにあるのか」と言って、それを知るためにあえがなければならないのです。

 心情を通じてこそ行くことができる所が、天国です。イエス様も楽園に行っています。楽園は、天国への列車を待つ待合室です。地上で心情問題を完結することができずに逝ったので、再び来てその責任を完結しなければならないのです。そうしてこそ、楽園の門を撤廃できるのです。それで天国の門を開けてこそ、サタン世界が屈服します。

 地上で心の天国を完成できない者は、天上の天国を成し遂げることができません。地上で心情的な永遠なる安息の福地を探すことができない人は、天上の永遠なる福地を探すことができないのです。皆さんは、そのような心情的な安息の福地を探すことができませんでした。
 その福地を探すことができないまま、孤児のようにあえいでいます。それで神様の心情を掲げて見るとき、皆さんの心情には位置がありません。位置がないので価値もないのです。価値のない存在の前に、世界がどのように縁を結びますか。

 ですから真の烈男、烈女として、真の孝子、孝女、真の忠男、忠女として、天の心情を代表して生涯の理念を楽しむことができる群れが出て、彼らがこの地に善の息子、娘を繁殖しなければならないのです。エデンの園でアダムとエバを祝福してあげたのは、サタン世界で罪悪の子女を繁殖しなさいということでしたか。違います。忠臣の節義、孝子、孝女の節義、烈女の節義をもった息子、娘を繁殖しなさいということでした。そのように生まれる第二の忠臣と孝子、孝女を神様は恋しがります。そのような息子と娘が出てこなければ、この地は永遠にサタンのものになります。

 こうすることができる息子と娘がこの地上に現れてこそ、天地がひっくり返るのです。そのような所がこの地上に生じるなら、そこは今後世界の中心地になるはずであり、そのような民族が現れるならその民族は今後世界を支配するはずです。

 これから私たちは、涙を流さなければなりません。その心情を体恤できないなら、涙を流さなければならないのです。その心情を体恤できないなら、夜を明かして祈祷しなければなりません。断食をしながらでも祈祷しなければならないのです。そのような心情をもった者だけが、最後の勝利を収めるでしょうし、最後の審判で残るのです。そのような皆さんになるならば、神様は皆さんを通して安息の場を築くでしょうし、世界は皆さんによって動くでしょう。

 天の忠臣になろうとするなら、天の恨みを晴らさなければなりません。孝子になろうとするなら、父母の怨讐がいてはならないので、怨讐をなくさなければなりません。烈女も同じです。この恨みを晴らす日まで、永遠なる命を懸けて覚悟していき、闘わなければ、皆さんは堕落の恨めしい峠を越えることができないのです。この峠を越えて初めて、神様がすべての悲しい心情を解いて、皆さんに「六千年間待ち焦がれた忠臣よ、孝子よ、烈女よ」と言いながら、両手を挙げて祝福してくださるでしょうし、三位神は安息することができるのです。このように心情基準が解決される前には安息することができないというのです。
 こういうことを知って、今日この地上にいる皆さん自体が、どれほど貴い立場にいるのかを感じることを願います。








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霊の子女はなぜ必要か

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 神様の祝福を受けた家庭が壊れたり、また様々な問題で困難な事情が生じることがあります。また組織もそうです。混乱したり、発展しなかったりします。

その根本問題は霊の子女の問題であると言えます。

霊の子女はサタンを分立するための神様の復帰摂理の戦略でした。霊の子女を復帰することを通して本然の家庭基盤を形成することができ、本来の出発をすることが神様の意図でした。






みことば 信仰の三子女と本然の家庭基盤 1983.5.13

だから、堕落観念をいつももたなければなりません。分かりました? それをもたないと、とんでもないことになる。それが失われて、習慣性になると、恐ろしいことになる。神も霊界も関係をもつことができなくなる。我々は心情世界とは何ら関係ないことになります。分かりました?(はい)。

 だから、我々は、堕落圏にいるという自覚をいつでももたなければなりません。食事をするときもその観念を忘れてはいけません。何をするときも、その観念を忘れてはなりません。いつかは整理しなければならない渦中にある。時が来たら、間違いなく整理する。個人からはっきりと整理するし、家庭、氏族、国家、世界に至るまで整理する。この整理の徹底化した伝統基盤を各自が確立しなければ大変なことになります。 この世の中の生活は、堕落圏だから、神様に通ずる生活ではありません。

この世界の八〇パーセント以上がサタン世界に彩られているというんだね。これを否認して、肯定の立場に立ち帰るには、嫌々ながらも、習慣性に自分なりに気づかなければ崩壊に遭うというんだね、分かりました?この世の中では、子女関係、親子関係、国家関係がみんな堕落結果の基準を中心としてつながってきている。子供がいるとしても、みんな堕落の血統をそのまま認定した子女関係、家庭関係、氏族、民族、国家関係である。ここに、新しく我々が持ち出すのが“霊の子”という問題です。 
 
■三人の霊の子は絶対必要である
 霊の子とはいったい何か。これは失われた三人の天使長を意味する。アダム、エバが、三人の天使長の共同圏、協助圏に立てなかったから人間は堕落した。それを蕩減しなければならない。だから、三人の霊の子は三人の天使長に当たる。それらが一つになって、アダムに対して命を捧げるような立場に立たなければなりません。 あなたたちは霊の子に対して、アダムの立場、エバの立場に当たる。そうなった場合、三人の天使長の代わりに立った霊の子は、その霊の親に対して、命を捧げても何の未練もないような心情圏をつくらなければなりません。教育して、そのような関係をつくらなければなりません。

そして、アダムの立場から見た場合、自分自体が結婚するのを遠慮しなければならなかったのが、天使長の立場だね。三人の天使長がつくられた目的は、アダム、エバを教育して、家庭をもつことのできる心情圏確立の日まで遠慮せざるを得ない立場であったのに、逆に問題を起こしてしまった。そのことが堕落でした。

 ですから心情圏の復帰は、三人の天使長自体が一体となって、あなたたちのために命を捧げても、天の法に違反しないというような決定的な三人の天使長をあなたたちがもった立場に立つことによってなされる。そうして初めて、アダムが三人の天使長を一致させ得なかったその基準を蕩減復帰した立場に立つ。分かりましたか?(はい) 。 それで、イエス様の三人の弟子も、イエス様のために死ななければならない。イエス様は親である。本当は、天使長には子供はないんだね。堕落して、天使長系の子供の立場に立ったのであって、切って離すことはできません。

だから、それを結びつけながら、元のほうに帰るために天はそれを認定せざるを得ないんだね。それが、アベルの道である。まず、三人の天使長が一体化した基準であなたたちの一切の祝福を援助し、準備してくれなければなりません。だから、統一教会は三人の霊の子がなければ生活することができません。分かりました? 三人の霊の子がいなければ、三人の天使長が完全に援助した基準に立てないから、その基準は、そのまま堕落圏内にある。サタンはいつでも引っ張っていく。

 だから、三年間、霊の子が絶対的に一体化した基盤の上で、すべてを犠牲にしながら祝福の一日を待つような環境で、三人の天使長はアダムとエバに侍らなければなりません。それを通過したのちに神の認定を受けて、神の心情圏を共にしながら、アダムは三人の天使長に対し、「どうぞ、成熟いたしましたから、相対者と祝福を受けさせてください」と言う。これが統一教会の原則である。だから、三人の霊の子女がいなければ祝福できないということは、理論的であり、原則的である。絶対できない。それをもたないで結婚した者は、堕落圏内にとどまる。 今はいい時にきた。あなたたちは、万物を与えてでも伝道する時にきたよ。ヤコブがエサウを屈服させる時、金を与え、万物を与え、すべてを捧げて屈服させたように、我々は物を使って、平面的に天に屈服させることができるようになった。だから、我々は万物に恵まれる。統一教会は世界一、万物の祝福を受けるようになるだろう。分かりました?


■再臨を待つ心情で霊の親の実子に侍りなさい
 そういうふうにして、この霊の子は何を待つか。霊の親の実子が生まれるのを、歴史において、再臨の救い主が来られるように思わなければならない。分かりました? だから、この霊の子はいろいろと何も思う必要はないというんだね。ただ一つ願うべきことは、その霊の親の実子が生まれるのを待ち望まなければならない。胎中にいる時から実子を敬わなければならない。天使長は、アダム、エバに対しそれを貴く思い、相談し、援助するように造られたと同じように、腹中にはらむその時から愛し、自分の命よりも貴く思うような基準において、生まれる日を指折り数えて待つ、何よりも高い希望をもって待たなければならない。

 そして、生まれた場合には自分の財産をすべて捧げ尽くさなければ、天使長基準の所有権を復帰する道が生まれてきません。それで、イエス様がお生まれになった時、東方の三博士たちがなぜ訪ねてきたか。それは、世界的な基準を連結させる蕩減条件として、霊的に高い水準の者が訪ねて、捧げ物を捧げるためである。彼らは、どこかに世界の救い主が来られることを、親がはらむ以前から待っていた者である。その誕生を知れば、すべてを捧げて、すべての冒険を乗り越えてでも自分たちは侍りに行くというようになっていた。イエス様の前に現れたこの東方の三博士は原理的である。

 イエス様が三人の弟子を連れながら、死んでも生きても歩んでいかなければならなかったのも、「霊的子女」という原則があるからである。その原則を我々は今まで、はっきりと理解できなかったから、サタンがこの世界を蹂{じゆう}躙{りん}して、自分の気ままに、すべてを卑しくしてしまった。そういうふうにして、アダム、エバを愛さなかった天使長、アダム、エバがはらむ、その子供を愛さなかった天使長がサタンであるというんだね。 天使長圏をもとがえすには、霊の親であるアダム、エバを愛するとともに、おなかにはらむ子供を愛した基準を通して、その子供が生まれ、さらに、その子供たちが結婚する日まで責任をもたなければならない。それが、原理原則の道だね。これを先生の家庭で見れば、先生の子供を、先生が干渉して育てるようになってはいない。三家庭が責任を果たさなければならなかった。

 霊の親の中にはらんだ子供が、宇宙と取り替えることのできないほどの喜びと希望でもって生まれた場合には、自分のすべての成功をなし得た喜びでもって迎え、その子供を結婚させて、定着させることによって、天使長がアダムと、カイン、アベルを愛し得なかったすべてをなし得た基準において、サタンは完成基準を中心として完全に分別される。そうしなければ、サタンを回れ右させる道はない。あなたたちはいつも蕩減復帰と言うんだけれど、いつ蕩減復帰したか。それは、家庭を中心としたこういう徹底した内容でもって、分別させる原理があるから可能なのである。だから、霊の子は絶対必要だ。分かりました?

そのために、先生は生涯をかけている。そういう伝統的精神を国家伝統基準として、国を越えて世界各国に植えつけながら、六十数年の生涯をかけて闘っておる。それが第三次七年路程であったというんだね。分かりました? 六〇〇〇双の祝福を終えた今、もうサタンは世界的に反対することができない。だから、霊的に見れば各国の先祖はみんな大変だったろうね。 祝福によって、“あわよくば、結婚して家庭をもって、幸福をむさぼれる”と思う者もいるかもしれないが、この道において、そういうことはできません!

歴史において、サタンが残した悲哀に満ちたいろいろな闘いの悪{あく}辣{らつ}な基台、伝統が残っている。民族差別運動とか、家庭紛争とか、親子分裂とか、破壊運動とかいったすべての過去の災禍を、我々自身において消化して、新しい伝統を自分によって、アフリカの地に、世界の地に立てなければならないのが、日本のエバ国家としての使命です。それは先生の話ではありません。原理観がそうなっている。








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歴史的な悲運の峠を我々は越えよう



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2020.5.19 みことば訓読日曜礼拝
 
マタイによる福音書第23章

:27)偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 :28)このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。 :29)偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、 :30)『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。 :31)このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。 :32)あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。  :33)へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。 :34)それだから、わたしは、預言者、知者、律法学者たちをあなたがたにつかわすが、そのうちのある者を殺し、また十字架につけ、そのある者を会堂でむち打ち、また町から町へと迫害して行くであろう。 :35)こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。 :36)よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。




みことば   1958.1.19 「歴史的な悲運の峠を我々は越えよう」

 皆さんと漸次、考えてみる御言の題目は「歴史的な悲運の峠を我々は越えよう」です。こんな題目で暫くの間、お話しします。 
今日この世の中に数多くの人々が生きているとしても、彼らの前には越えるに越えられない悲運の運命の道があるということを、皆さんはよく知っているのです。

 キリスト教思想から見ても、終わりの日には審判というものがあるのです。それで多くのキリスト教徒たちは、どのようにこの死の峠を越えるかを案じて今まで生きてきたことを、皆さんはよく知っているのです。
 現在生きている自分を推し量って見るとき、自身も分からない悲しみの運命の中にあるということを、自ら認めれば認めるほど深刻な問題が自身の前途に、あるいは周囲に、あるいは心と体に、まとい付いていることを感じるのです。

 こんな悲運の環境を跳ね返してゆく使命が今日の我々にあり、これが残る人生の使命なのです。こんな悲しみの環境を踏み越えて上がってゆく、その一日が皆さんの前にあってこそ、皆さんは過ぎた日の悲運の歴史を踏み越えて行けるのであり、これを踏み越えてこそ新しい一日の、希望の園を迎えることができるのです。

 このような時点にある我々が、過去の歴史を回顧して見るとき、皆さんが今迎えているこの悲運の峠や環境が、ただ皆さんだけが迎えている悲運の環境ではありません。六〇〇〇年という長い歳月を経てきて、我々の先祖たちもやはり悲運の路程を経てきたことを、皆さんは知らねばなりません。

 それでは歴史を探って見て、皆さんは先祖たちが悲運の立場を避けられなかったと同時に、人間と創造主の間の関係においても悲運の立場を避けられない場にあったことを、感じなければなりません。皆さんは自身を中心に歴史性を代身して、あるいは創造理念を代身して、こんな切迫した心情を感じると同時にある一日、歴史を代身して勝利したという喜びの日を持たねばなりません。でなければ今日の人間社会において、幸福とか希望とか理念が、みな途絶えてしまうのです。

 こんな歴史過程を経てきた人間ですから、神は人間の精神と生活に垂れ下がっている悲運の幕、歴史を通して流れている悲運の幕を、どのようにして開くかという責任を感じてこられたのです。道を求める修道の人たちも、人間のためにこの問題を解決しようという責任感を抱いてきたのです。今まで存在してきた数多くの宗教が、未解決の課題を残したとするなら、この問題を解決しなければならない使命を残したのです。

 人間に残っているこんな悲運の障壁を除くために、天が動員されていることを皆さんは知っています。この悲運の運命を打開するために天が動員されると同時に、あの世の霊界が動員されているということを、皆さんは知らねばなりません。さらには地上の人間たちも動員されているのです。

 悲運の障壁を踏み越える歴史的な一時を捜し求める人間が、この時を求められないために、今日我々が再びこの悲運の歴史を引き継いでいるのです。それゆえ我々は今、団結してこのすべての悲運の障壁を踏み越えなければなりません。これを踏み越えなかったら、皆さんの後孫たちもやはり悲運の障壁を越えなければならず、先祖たちが歩んできた死の道、悲しみの道、涙の道を免れえないことを、皆さんは知らねばなりません。

 これを考えてみるとき、今日皆さん自身は、単純な存在ではないことを知るのです。皆さん自身には天上の哀願が懸かっており、人類の哀願が染みているのです。さらには皆さんは過去・現在・未来の、哀願全体を解決すべき張本人の立場に立っているのです。
 皆さんが一日の生活で、あるいは一代の人生で、このすべての悲運の障壁を開拓して越えなかったとしたら、皆さんを望み見てきた歴史的な所望、あるいは摂理的な所望、あるいは天的な所望、皆さん一人を望み見て、悲運の障壁を越えようとした霊界の所望が、崩れてしまうのです。これを考えてみるとき、皆さんは個人ではないということを悟らねばなりません。

 今日多くの人がいますが、果たして神の悲運と天使の悲運と、未来人類の悲運の心情まで代身して、我々を妨げている見えざるサタンと悪の群れに対抗して闘う責任者が、どれほどいるかを考えてみなければなりません。
 これを考えてみるとき、今日我々だけがこんな立場に出逢うのではなく、今まで神の摂理に対してきた数多くの先烈たちも、同じ立場、同じ環境において自身の人生を放棄しても、この一つの問題を解決するために闘ってきたことを知るのです。皆さんはこれを骨身に染みて、感じなければならないのです。

 ノアの悲惨な運命
 皆さんが旧約時代を振り返って、ノアをご覧なさい。ノアは神様が人間始祖が悲惨な運命を残して以後、一六〇〇年の間苦労して、数多くの人々の間から初めて捜しだした一人だったのです。このノアは、どんな存在でしたか? 彼は当時の数多くの人類を代表して天の悲運の心情を感じる心情を持つべき存在であり、当時の人々が感じる悲運の心情を代身して、神を慰めてあげるべき立場に立ったノアだったのです。

 こんな立場にあったノア、一六〇〇年の歴史的な使命を背負ったノアは、人間のためや天のためにこの悲運の障壁を除き、歴史以来誰もが感じてみなかった悲運の場、踏まれ、嘲弄され、追われる悔しい場において闘ったのです。このようなノアの人生を、皆さんは忘れてはなりません。

 それではノアの生活のまえに現れたものが何ですか? 蕩減の原則を立てるための神の復帰摂理たれとノアのまえには、一六〇〇年を経て望んだ哀しい悲運の事情を代身する箱舟が現れたのです。ノアが対した箱舟は、歴史的な悲運を代身する一つの存在なのです。 一六〇〇年の悲運の峠を越えるべき使命を感じたゆえに責任を任した神と、この責任を背負ったノアが一つの心情になったのです。歴史的的な蕩減条件として任せられた箱舟であることをノアは知っていたので、一二〇年間ひどい悲運の生活とイバラの道を歩んだことを、皆さんは知らねばなりません。

 一二〇年の後にこの地を水で審判することを予告されたノアは、この日からありったけの精誠を尽くして箱舟を造り始めたのです。ところで一年でもなく、一二〇年という長い期間を耐えて船を造ったのですが、船を造るノアの心情は、自分の家庭のために造るのではないのです。自分の後孫のために造るという心情でもなかったのです。また、その当時の悪なる世の中のために造るという心情は、さらになかったのです。むしろこの箱舟を造ることは、神のみ旨一つを成就するために造るという心情だったのです。このように神の哀しみと、一六〇〇〇年の間経てきた数多くの先知先烈たちの哀しみを抱いて、黙々と闘ったノアの姿を、皆さんは回顧して見なければなりません。

 これを考えてみるとき我々は、過去に神のみ旨を受けた先祖たちが悲しい道を行ったのですが、こんな環境に面したノアは、悲しく難しい環境が押し寄せれば押し寄せるほど、この環境を押し分けて踏み上がるために、内的に心身が無限の闘争をなしていったことを知らねばなりません。

 このような闘いが一二〇年というもの、続いたのです。誰一人同情してくれない中で、ノアは神のみ旨一つを立てるために忠誠を尽くし、義を守っていったのです。これを考えてみるとき、ノアの心情は実に一六〇〇年以後、いかなる先祖たちも感じてみなかった悲しみの心情であることを知るのです。
 こんな過程を経た後に初めて天が成されるのであって、時が満ちて神の約束が成就する一日、悲運の怨恨を解くことができる審判の役事が起こったのです。

 ノアがこのように大きな摂理の使命を背負えば背負うほど、彼は安楽に生活することが出来ないのです。喜ばしく平安な生活をすることが出来ないのです。体は苦痛を受け、心が苦痛を受け、罪悪の環境から迫害を受けたのです。このように、誰一人味方する者もない難しい峠をすべて越えた後に、天が味方になってくれるのであり、一二〇年の迫害と悲しみと口にも言えない悲運の運命を経た後に初めて神は友として、ノアの慰労者として、ノアの悲運を解怨してくれる責任者として現れたことを、皆さんは知らねばなりません。

 しかしノアは約束が成就する時までの過程では、内的な生活や外的な生活において、身を寄せる場もないほどの悲運の環境で身悶えて、無慈悲な闘争をしなければならなかったことを、皆さんは知らねばなりません。内的な悲運の障壁があるかとおもえば、外的は悲運の障壁もあるということを、ノア自身は知らなかったのです。神の摂理のみ旨は、外的な箱舟を造ることによって、すべて終わるのではなかったのです。箱舟を造った後で、神の審判の行事があり、それ以後には復帰された園で、新しい家庭を建設しなければならない立場があったのです。このように箱舟ですべてが終わると思っていたのに、外的な箱舟の峠を越えた後には、内的な悲運の峠が残っていたということを、ノア自身は知らなかったのです。結局その日の失敗によって、ノア家庭は倒れたのでした。


我々の行く道
 神は長い歴史を経てきて、人間たちに対してすべての事に耐えてこられた、真の父母であることを知らねばなりません。またその次には、イエス様はどんなお方か。イエス様が「わたしは新郎であり、あなたがたは新婦」と語られましたが、このような新郎・新婦、即ち天的な情(愛)の問題を解決する宗教が、最後の峠を越えることができるのです。こんな意味において、キリスト教が中心宗教なのです。

 そしてイエス様は「わたしは神と一体である。わたしは神の独り子」とされました。さらにはイエス様は人類に向かって「わたしは新郎であり、あなたがたは新婦」とされました。天は長い歳月の間、こんな基準を中心に世界的な悲運の障壁を越えることを願っていたのですが、このような事を担う祖先の立場にあったお方が、イエス様だったのです。

 今皆さんは、どうしなければならないか。皆さんは二〇〇〇年の間、新郎の悲運の心情を抱いてこられたイエス様の心情と、数多くの先知先烈たちの抱いた悲運の心情を抱く人々にならなければなりません。そのような人間であってこそ、神の子女であるとすることができ、イエス様のまえに、一人の兄弟姉妹といえるのです。

 皆さんがこんな人間になろうとすれば、サタンが皆さんを攻撃するのです。これがサタンの攻撃目標なのです。しかし新しい主義や理念、新しい宗教、新しい中心人物が出て、これに当たってくれればサタンの攻撃までも退けるのです。そのようになればサタンが襲って来ません。そこには再び革命と変換がないのです。その時に初めて永遠の理念が展開されるのです。

 皆さんは天国に行くという考えを持ってはいけません。地上に天国を建設するという考えをしなければなりません。そして天国を建設する前に、皆さん自身がまず天国人にならねばなりません。そんな天国人になるには、アボジの心はわが心、わが心はアボジの心、と自分に言えるほどアボジと心情一体にならなければなりません。それで地上でアボジの心を代身し、主様と先祖たちの心を代身しなければなりません。それでこそ歴史的なすべての問題を解決することが出来るのです。

 霊界が動員されて、歴史的な悲運の障壁を越えて行こうとしているのですが、地上に生きている我々も、この事をすべき使命があるのです。我々がこのような使命感を持って、歴史的な最後の悲運の障壁を蹴とばして行くなら、我々は神の悲運の心情と、歴史的な悲運の心情と、現実に残っている悲運の心情と、未来に染みている悲運の心情を知って、我々に立ちふさがる真の父母の怨讐、真の子女の怨讐、真の新郎・新婦の怨讐に対して、敵愾心を持たねばなりません。こんな敵愾心に燃える息子・娘でなければ、最後の審判の峠を越えることが出来ません。

 歴史的な使命、時代的な使命、未来のみ旨を立てるべき使命のまえにおかれている皆さんは、現在どんな時代に立っているのか? 皆さんは時に対する問題を知らねばなりません。これからは、宇宙主義時代が来るのです。遠からずして、誰もが持たない天に対する心情と、サタンに対する敵愾心を持つお方が来て、この世界を回復するのです。この時、このお方に侍り、協力しなければならない使命が、キリスト教にあるのです。

 一日を生きるのもアボジのみ旨の為に生き、生涯の路程を歩んで行くのもアボジのみ旨の為に歩んで行かねばなりません。
 そして皆さんは、先祖たちが歩んで行った路程を、経なければなりません。我々は今、荒野に出たイスラエル民族と同じです。

モ-セとイスラエル民族が荒野で追われ、苦難に逢い、イエス様が教会から排斥され、家庭から不信されたのですが、皆さんもこんな悲しく、悔しい場を経なければなりません。ではあっても、落胆しないでください。皆さんがこんな悔しい場においてやるべき事があったら、歴史的に苦難を受けたアボジの心情を体恤して、主の哀しみがわが哀しみであり、先祖たちの苦痛が自分の苦痛であると考えて、千年万年、このみ旨の為に変わらずに団結して、サタンに対して敵愾心を抱かなければなりません。

そのような青年男女を天は今、要求しているのです。牧師・長老にみ旨を任せるのではないのです。彼らが責任を果たせなければ執事たち、執事たちが駄目なら青年たちがやらなければなりません。それで教団と民族を生かすなら、立ち上がらなければなりません。このように天的な悲運に染みた真の青年たちを、天は捜し求めてきたのです。

 民族を代身して我々にこんな使命を任されたなら、我々はアボジの怨恨の心情を感じ、アボジの悲しみをわが胸に抱き、怨讐に向かって進撃する精兵にならねばなりません。そのためには皆さんは、皆さんの生活と理念を、統一させなければなりません。天の哀しみと、イエス様の哀しみと、先祖たちの哀しみと、後孫たちの哀しみを解怨するために闘わねばなりません。

 今、悲運の歴史が皆さんに近づいています。それゆえ皆さんは心を尽くし、み旨を尽くし、自身のすべてを捧げ、自身が冷遇され、悔しさを味わったとしても、イエス様を代身して、民族と世界のまえに祭物になるという覚悟をして、自ら手を挙げて天のまえに誓わなければなりません。








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家庭連合の失敗を蕩減復帰するには

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先日、ビデオを一人で作成しました。「日本の蕩減と氏族的メシヤ」という題名です。

以前、日曜礼拝で語った内容でもありましたが、再度統一教会家庭連合の失敗はどこに原因があったのか、そしてそれを蕩減復帰するためにどうすればいいのかを思案していましたので、まとめることにしました。

ユダヤ教の失敗をキリスト教は蕩減復帰する使命がありました。キリスト教の失敗を統一教会家庭連合は蕩減復帰する使命でした。そして家庭連合の失敗を蕩減復帰する使命がサンクチュアリにあると思います。





みことば  1994.2.16 氏族的メシヤと伝道

第二次世界大戦後、英・米・仏が再臨主を迎えて、メシヤを中心とした世界を建設しなければならなかったのです。しかし、キリスト教が失敗してしまいました。そのため、先生が四〇年間で失敗したものを蕩減復帰して、家庭、氏族、民族、国家の勝利の基台のうえで宣言したのが、「真の父母と成約時代」でした。
 一九九三年、先生が世界的アダムとして受け入れられる時が来ました。それで一九九二年までに勝利的基盤をつくらなければならなかったのです。

 一九九三年から二〇〇〇年までの七年間で世界を復帰しなければなりません。特にこの七年間は、アダムの文化が復帰されなければならないのです。アダムの文化を「女性連合」が、キリスト教に代わって復帰していかなければならないのです。








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大分聖殿の防御と創建キャンペーンの状況報告

大分聖殿の防御と創建キャンペーンの状況を報告させていただきます。
会計を透明化することがサンクチュアリの重要な方針であると思いますので、まだまだ足りない状況ですが、明確化したいと思います。

2018年 34家庭参加  ¥2,182,000   $18,870
2019年 81家庭参加  ¥11,673,000  $105,445
2020年 43家庭参加  ¥5,299,000   $48,519 

合計で今のところ
 158家庭参加 ¥19,154,000 $172,834 




防御と創建の目的
①2020.10.14鉄杖自由祝祭の準備を二代王様とともにする。
②真の父母様記念館の完成は人間の責任分担。
③アベルの長子権のための真の父母様記念館。
④真の父母様のために侍りたい万物の心情。


亨進二代王様は10.14の鉄杖自由祝祭に対してアメリカと世界を相手にして準備しておられます。私たちは二代王様と心情をともにしながら、三代王権と一つになる歩みをすることが最重要な課題であると思います。「防御と創建」に参加することはそのことにつながります。
それにより、世界的大患難を克服することのできる道が開かれてくると思っています。

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イエス様の真の食口となろう

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マタイによる福音書第10章

 :16)わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。 :17)人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。 :18)またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。 :19)彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。 :20)語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。 :21)兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。 :22)またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 :23)一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう。 :24)弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。 :25)弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。 :26)だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。 :27)わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。 :28)また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。




みことば  1957.10.18イエス様の真の食口となろう

 このマタイ十章の御言は、み旨のための最後の覚悟を持って、またこの地上でサタンとの闘いを指導しなければならない重大なる使命を持つイエス様が、愛する弟子たちを初めて伝道に送られてなされた御言です。
 この御言を通して、我々はイエス様がきわめて悲しい心情のなかにも、弟子たちに対して無限の愛と愛着心を抱いておられたということを知るのです。反面イエス様が選ばれたイスラエル民族に、新しい福音の御言を伝えるために弟子たちを送ろうとするとき、去ってゆく弟子たちの心情と事情も哀れですが、送られるイエス様の心情と事情も、誰にも言うこともできない気の毒な立場であったことを、知らねばなりません。

 またイエス様は、億万サタンと闘わなければならない弟子たちが勝利して、アボジの栄光を歌うことを心から願い、あるいはその闘いの路程で倒れ、天に心配をかけるのではないかと案じてなされた御言であることを、皆さんは知らねばなりません。
 
弟子たちを伝道に送り出されたイエスの心情
 この御言は、イエス様の愛する弟子たちが最後の闘いを覚悟してゆく歩みですから、そこには必ず怨讐たちが現れることを知られ、その時に彼らと闘って勝ち、勝利の凱歌を歌い、彼らがアボジの息子・娘であることを証しする喜びの一時を迎えるよう心から祈願して、愛する弟子たちを励ます御言なのですが、今日皆さんはこの御言をその当時の使徒たちだけのための御言だと思ったら駄目です。即ち、この御言は今日キリスト教徒たちが闘ってゆくべき全人生の路程も暗示する御言であり、今まで長い歴史過程を経てきて、キリストのみ旨を中心に地上に勝利の基台を立てようとする万民に対してなされた御言なのです。

 我々がここに、このように語られたイエス様の心中を推し量って見るとき、去ってゆく使徒たちの信仰を案じられ、また使徒たちが深く信じて難しい環境に処してゆくことを感じられて、なされた御言であることを我々は知ることができるのです。それでイエス様は愛する弟子たちがサタンと闘い、勝利してアボジのまえに栄光を捧げることを願い、誰にも言うことができない悲壮な覚悟と心情で、弟子たちに語られたことを皆さんは知らねばなりません。

 また、ここに皆さんはイエス様が愛する弟子たちを送られて、あなたがたが行く所々にあなたがたを歓迎する者がいないと言われましたが、これは天の息子・娘になるために、天の道に従って行く者には、常に彼を窺(うかが)っているサタンがいることを知って語られたという事実を、知らねばなりません。

 さらに皆さんはイエス様が「あなたがたの行く道を塞ぐ者は、信じない異邦人でもなく選び立てられたイスラエルでもなく、信じているユダヤ教徒でもなく、家の中の食口だ」と語られたことを想起して見なければなりません。そして今日皆さんには、たとえ持っているものがなく、天のまえに捧げるものがなかったとしても、イエス様がなされた御言の意味を悟る人間になるなら、このような御言をなされたイエス様がどんな心情と覚悟と誓いの心で語ったかを、推察する人間にならねばなりません。

 この御言をイエス様自身に照らして推察してみるとき、イエス様には当時どこにもお互いの心情を交わし合う、一人の親友もなかったということを知るのです。また国はあってもその国は自分の国ではなく、選ばれた民族があってもその民族が自分の民族ではなく、立てられた教会があってもこの教会が自分の教会ではなかったのです。自分を育てた家庭があってもその家庭が自分の家庭ではなく、自分と同居する兄弟があってもその兄弟が自分の兄弟ではなかったのです。

 ですからこの御言をなされたその瞬間は、天を代身して歩んだ自身の事情をそのまま、この地上の弟子たちに受け継がせるための瞬間であったことを、皆さんは知らねばなりません。
 また皆さんが知るべきことは「誰がキリストの真の食口になるだろうか」ということがイエス様が今日、皆さんに問うている内容であるのです。

 地上に数多くの国があり、数多くの民族があり、数多くの家庭があり、数多くの人間がいたとしても、その中でイエス様の真の食口はいないのです。
 それでイエス様は今日までこのような人間を捜し求めておられることを、皆さんは知らねばなりません。
 それでは、イエス様が愛する弟子たちを、怨讐の懐に送られる目的が何であったのか。彼らを通してある教団を造るためではなく、彼らを通して選ばれたイスラエルの民を立てて国を造るためではなかったのです。まず愛する弟子たちを送り、天が喜ぶ食口、天のみ旨の通りに生活する天の真の食口を、求めようとされたのです。ですから、誰がキリストの食口になるかということが最も重要であることを、肝に銘じてください。

 それでは、今皆さんはどうしなければならないか。皆さんには持っているものがなく、知るものもなく、誇るものがないとしても、神が皆さん一個体に接するその時は、イエス様の真の食口であるとしなければなりません。即ち、神と共に永遠に同居する皆さんにならねばならず、神の栄光を現すことができる天の食口と神が認め、イエス様が認め、皆さん自身も認めることができる姿にならねばなりません。そんな人間が正にアボジが捜し求める人間であり、キリストが捜し求める人間であり、皆さんが希望とする人間であることを、知らねばなりません。








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天国の義を地上の生活において現す一人の人間がいない



毎週、日曜日には礼拝を、水曜日にはみことば講義をやることにしています。昨日は日曜礼拝をズームで中継して行いました。お父様のみことばを訓読しての礼拝です。その礼拝のたびにそのみことばをどれだけ読み込んで、心情的に神様の心情圏で語っているかと自問自答するときに、不足な心情であると申し訳なさをいつも感じています。

みことばには力があり、愛があり希望を与えてくれます。現実の世界が暗黒の時代を迎えようとしているこのような時こそ、みことばを伝える使命が氏族的メシヤにあることを感じています。

みことば訓読礼拝は、みことばそのままを伝えることができ、だれでも行うことができる礼拝だと思います。自分でどういう内容にするかといった余計な考えは必要ないので、ある点では簡単にできます。

これから予想できない患難の時代において、多くの氏族的メシヤが世界に向かってみことばを発信することで、天の声が人類に届きかその試練をこえることができるようになると思っています。





みことば 1957.10.13 「御国とその義を捜し立てよう」

 ところでその当時、このようなイエス様の心情を知り、神の真の息子・娘として、民族のまえに追われ、排斥されたイエス様を見て悲しんだ人間があったでしょうか? 一人としていなかったのです。もしもこのような人間が一人でもいたなら、彼は四〇〇〇年歴史を代身して、驚くべき証しの使命を果たしたのです。与えることを願うイエス様の切ない愛の心情を代身する人間がいたなら、新婦の立場でイエス様に侍り、神のみ旨を成してゆくことができたのです。

 ところでこのように与えたい愛の園、天国の義を地上の生活において現す一人の人間がいないので、神は今日皆さんに所望の御国を求め、所望のその義を求めている哀しい立場におられるのです。ですから今日皆さんは、どうせこのみ旨を成して行かなければならないのです。

 皆さんは世界に広がっている数多くのクリスチャンたちが団結したとして、このみ旨が成るのではないということを知らねばなりません。神の本質的な愛に百%符号することができ、与えるがために切ないイエス様の心情に通じる一人の新婦になれるか、否かが問題なのです。イエス様はご自身が実践された犠牲と奉仕の生活を代身する、一人の存在を捜し求めておられるのです。またこのような存在はイエス様のみならず、神も捜し求めておられることを、皆さんは肝に銘じなければなりません。

 宇宙に対する神の摂理が終わらない限り、地上でこんな存在になるために、ある基準を必ず立てなければならないのです。もしも皆さんが、この一つの基準を立てなければ、イエス様が切ない心情で「あなたがたはすべてのものを捨て、ただ御国とその義を求めなさい」とされた御言の目的と、皆さんとは何らの関係もなくなってしまうのです。








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終末に際してどうすべきか



みことば 1957.10.13 御国とその義を捜し立てよう

今日、この地上に生きている数多くの人間は、神が預告され御国とその義を捜し求めらられないでいます。それで御国とその義を捜し求めることが今日我々人類の所望であり、また今までの数千年の歴史過程の人間におきましても、一つの所望であったことを、皆さんは知らねばなりません。

 それでは、このような所望の御国、所望の義がどうして我々の最後の目標として残るようになったのか。それは人間が堕落したからです。人間の堕落によって、御国とその義の中心になる神と人間が、何らの関係も結べないままにおかれているのです。即ち御国とその義の中心であるアボジに対し、詳しくは知らない人間になってしまったので、神様はこのように無知な民と人類を目覚めさせ、アボジがどんなお方かを知らしめるために、今までの歴史路程で苦労されてきたのです。それで御国とその義を捜し立てることが、今だに我々の所望であり、目標として残るようになったのです。

 このように、御国とその義を地上に捜し立てるアボジがおられるなら、アボジのみ旨が地上に必ず残ることを、皆さんは知らねばなりません。

 それでは、このように人間が所望とする神の国、神の義を捜し立てるために、皆さんはどうしなければならないのか? 今までの歴史路程において人間と関係を結んで、御国とその義を捜し立てるために苦労されてきた、アボジを捜し求めなければなりません。まずそのアボジを求めなければ、御国とその義は捜し立てられません。ですからこの世の中に生きている人間は、誰もがどんな歴史過程を経てきているとしても、まず御国の主人公であるアボジを捜し求めなければなりません。ところでもしも人間が、アボジを求めなかったなら、アボジの栄光が地上に現れないばかりか、人間が所望とする神の国と神の義を、この地上に捜し立てることができないのです。



 それでは地上の誰もが異口同音に、今日を終わりの日と言っているこの時、即ち、歴史的な終結、科学的な終結、倫理と宗教の終結を予告するこのような世界的な終末時代に面している皆さんは、どのようにしなければならないのか。
イエス様が叫んだ御言、即ちまず御国とその義を求めようとされた御言のように、自身のすべてのことを考えず、ただこの地上に神の国と、神の義を立てるために、不変の忠誠を尽くす人間にならねばなりません。そうして皆さんは、自身を満宇宙のまえに誇り、神の代身者の使命を完遂する人間にならねばなりません。

 即ち、御国の本質的な理念の内容を、皆さん自身の生活に適用し、これが皆さんの人生に実証的な価値を形成して、永遠の未来を約束する希望の一日を成してゆかなければならないのです。ところがもしもこんな皆さんにならなかったら、皆さんは神がアダムとエバの堕落以後四〇〇〇年の間苦労した後、イエス様を送られて役事したみ旨と、イエス様以後今日まで、イエス様と聖霊を合わせた三位神が役事したそのみ旨とは、何の関係もなくなってしまうのです。

 このような観点から皆さんは今、何を捜し求めなければならないのか。皆さんは御国とその義を立てられない、即ち天宙的な理念を立てられない不義の条件等を、捜さなければなりません。こうして皆さんが一身の生活において闘って勝利し、神の息子・娘であるイエス様の代身存在にならなければならないのです。



 神様は今、この時間も、与えたい心に染みて生きる人間が現れることを願っておられ、イエス様は自身を殺したこの地上のすべての悪の勢力を踏み越えてあがる人間が現れることを、待ちこがれているのです。もしもこのような存在が現れたなら、彼は真にこの社会の主人公になり、この国の主人公になるのですが、今だにこんな一人の人間が現れないことが、神とイエス様の切なさであることを、皆さんは知らねばなりません。

 こんな主人公になるために地上に来ては行った数多くの先知先烈たちがいますが、歴史上の先祖たちは彼らを埋め、また迫害して嘲弄したのでした。ですから今日一自体を立てて、このような歴史的なすべての過ちを精算することが、皆さんに対する神の所望であるのです。

 今このような神の所望のみ旨を成してあげるには、皆さんはどうしなければならないのでしょうか? まず神の国と神の義のために、血の滲む十字架の道を耐えて行かれたイエス・キリストの後に従う人間にならねばならず、次には六〇〇〇年の歴史の中で、数多くの先知先烈たちが自分一身の栄光をふり捨て、神のみ旨を成すために苦労したその道に従って行く人間にならねばなりません。




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御国とその義を捜し立てる


サタンの三大試練に屈した韓氏オモニによって神の摂理を外れた第三イスラエルは世界的な大試練を人類にもたらすことになりました。神が予定した第三イスラエルがサタンに敗北し、屈服したことは神様の悲しみでしかありません。

実際、毎日多くの人々の命が武漢コロナによって失われています。また大恐慌の時代に突入しようとしています。全世界的に人間の尊い命が失われ、万物が失われていくという悲惨な状態となりました。

しかしながら神様は次の摂理をすでに始めておられます。
それは神様の希望であり、人類の希望となる神様の摂理であることを知ることが重要なことだと思います。

それはサタンの三大試練をすでに勝利されておられるお方がおられるということです。お父様はイエス様のサタンからの三大試練の意義をご存じでした。ご自身が勝利の道を歩まれてこられておられるがゆえに、その秘密を明らかにすることができました。そしてそれをすべて相続され、代身者として立たれておられるお方が亨進二代王様です。

聖殿聖徒が二代王様と一つとなって御国を成就するとき、人類に希望をもたらすことができます。





みことば  1957.10.13 「 御国とその義を捜し立てよう」
 
神の愛を受けることができる道
 それでは、皆さんがどのようにすれば、神の真の愛を受けることができるのか。前にもお話したように、皆さん自らが越えるための犠牲の道、奉仕の道に出て行くとき、初めて神の愛を受けることを、皆さんが肝に銘じるように願います。
 地上の人間をこのような道に率いてゆくべき立場のイエス様には、その当時の地上の人間の中で誰もが他を愛し、他の為に生きようとする人間がなく、むしろ自分の為に生きることを望み、愛を受けることだけを願う人間ばかりだったので、対する人間すべてが気の毒な対象としてのみ映ったのです。このように神のみ旨を地上に成すために、犠牲と奉仕で神の愛を与える一人の存在を捜し求められなかったことが、イエス様にはもっとも大きな痛みであり、悲しみであったことを、皆さんは知らねばなりません。

 イエス様は見せようとしても見ず、手に取らせても分からない無知な人々に接して、哀しまれたのです。それでイエス様は彼らに「何を食べ、何を飲もうか、何を着ようかと思いわずらうな」と言われたのです。これは自身の生活を否定せよという御言であり、すべての環境を否定せよという御言なのです。

 イエス様はこれが人間が生きてゆくために、持つべき必然的な条件であることを知らないで、こんな御言を語られたのではなかったのです。堕落した人間はこのような道を踏み越えてこそ、所望の一日を迎えられることを知っておられたので、何を食べるか何を飲もうか、何を着るかを心配しないで、まず御国とその義を求めよと言われたのです。まず御国とその義を成す人間は、この自然的な法度圏内において、万物を主管することができ、自然にこのような万物に対する心配は、する必要がなくなるので言われた御言なのです。 イエス様が地上に来られて、サタンから幾つかの試みを受けました。四〇日断食期間にまず、食べることで試みを受けました。サタンがイエス様の前に現れ、石をパンに変えてみなさい、と言ったのです。これは飢えている人々には喜ばしい報せです。しかしイエス様はこれを否定し、ご自身が食べる事のために来たのではないことを表されました。ただ神の御言を主張することによって、人間が生きてゆく実際生活圏内でのすべての条件を、サタンのまえに失わなかった立場を立てたのでした。

 その時まで人間は、物質を中心とする闘争の歴史を経てきたのですが、イエス様がサタンの第一次的な試みに勝利することによって、このような物質を中心とする闘争の歴史を終結させたことを、皆さんは知らねばなりません。
 それでは、その次にイエス様はどんな試みを受けたのでしょうか。イエス様はサタンに引かれて聖殿の頂上に立ったのですが、そこで「あなたが神の息子なら飛び下りてみなさい」(マタイ四:六)という試みを受けたのでした。

 イスラエル民族とユダヤ教を、指導する宗教理念を持って現れたイエス様に「飛び下りてみよ」というこの言葉は、どんな意味でしょうか? これはユダヤ教的な習慣と、彼らの主張のまえに屈伏して、彼らの指導者の立場を放棄しなさいということです。しかしイエス様はここでサタンの試みに陥ることなく、勝利されたのです。

 その次に、どんな試みがありましたか? サタンはイエス様を極めて高い山の頂上に登らせ、天下万国とその栄光を見せて「もしもわたしに膝まづいて敬礼するなら、このすべてのものをあなたにあげよう」(マタイ四:九)と言ったのです。しかしイエス様はここで、宇宙的な理念を持って神の国、即ち天国を建設するという神のみ旨を立てるために、サタンのこのような要求を払い除けたのです。

 イエスの三大試練勝利の意義と聖徒の使命
 それではこのような事実は、何を意味しているものか? この地上に新しい天地、即ち天国を建設することができる理念を持つイエス様ですから、そのみ旨を現す実現過程において、このような歴史的な不信のすべての条件を蕩減して、復帰したという象徴的な条件を立てなければならないのです。

 ですから終わりの日を迎えている今日の皆さんにも、物質的条件を中心とした闘争が起こるようになるのです。ところで今日すべての人間が、このような物質的な闘争において勝利できずに敗北してしまったら、地上は自然に暗黒の世界に変わるのです。それゆえ今日皆さんは、このような物質的な闘争を踏み越えて、イエス様の天国の理念を受けて行かねばならず、さらには全体がキリスト教徒と力を合わせ、神の国をこの地上に建設しなければならないのです。

 言い換えれば、イエス様が昔、イスラエルの全体的な価値に譬えることができるユダヤ教団と一つになり、世界を復帰しなければならない使命があったように、今日の全世界のキリスト教徒にも、世界を代表する民主主義の理念と、またその民主主義の理念の基本になっているキリスト教の理念を中心にして、一つに団結して、神の国を地上に建設しなければならない使命があるということを、知らねばなりません。

 そして皆さんは昔、イエス様がサタンのすべての試みを押し退けて勝利されたように、皆さんもそのような過程を経るということを知らねばなりません。ですから終わりの日になれば、物質的な闘争の過程を越え、次に宗教的な闘争の過程を越えなければならないのです。ここにおいて分裂と矛盾、闘争を解決して通じる宗教が出現するのです。このような時代を象徴することが、イエス様が受けた試みであったのです。

 イエス様がどんな逆境の場、死の場であっても変わらぬご自身の姿を現されたように、皆さんもイエス様のそんな人格に似なければなりません。また終わりの日にある今日のクリスチャンたちは、イエス様の世界的な心情理念を捜し立てるために、過去に好んだあるものに執着してはなりません。また皆さんは歴史的な使命を持って地上に来られたイエス様の、その人生路程に符号する路程に立っているのですから、皆さんのまえには歴史的な闘いの一時があるということを知らねばなりません。
 今まで世界的な栄光を受けてきたサタンが、最後の闘いに敗北して神の息子・娘のまえに屈伏し、敬礼する時が必ず来なければならないのです。

 ですから、このようにサタンを屈伏させて神のみ旨のみを現すことができる一日が、どうかすぐに来て、またこのような事をやれる一人の人間が、出なければならないのです。ところでもしもこんな一存在が現れなかったら、イエス様がまず御国とその義を求めて叫んだそのみ旨が、この地上に成されていないことを、皆さんは肝に銘じるよう願います。 それでは、皆さんが生きているこの時は、どんな時でしょうか? 皆さんは今、物質の試みを経て、神のみ旨を成してゆくときに生きているのです。即ち、物質が人間のみならず、地上のある主義主張を越えていって、さらには神様までも屈伏させようとする時に、我々は生きているのです。ところでこのような時が、正に終わりの日であることを皆さんは知らねばなりません。




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