聖殿氏族メシヤ連絡会 大分聖殿

先生が迫害を受けながら、160か国の宣教基地を造ったとするならば、あなたたちは160か国にあたる家庭基盤、160軒の家庭を収拾しなければなりません。そうすることによって同じ結晶体になるのです。結晶体になったその位置を獲得した場合には、これは一塊になった結晶体と同じく皆一つになるのです。これは公式になっています。だから160軒には、ヤコブ家庭の12数、モーセの72長老の失敗、イエス様の120門徒の失敗が入っているのです。・・・みことば

阿南信義

ペテロのように



先日、午前中の畑作業を終えて、昼休みの時間のとき、ふとNHKのBS放送で映画の「クォ・バディス」をみる機会を与えられ、あらためてその深刻さを感じさせられました。

なぜかというと、二代王様の4月6日のキングスレポートの中で次のように語られたおられたことが頭の中に残っていたからでした。

「真のお父様を本当に理解するためには、イエスを知らなければなりません。イエスを愛さなければなりません。なぜなら、皆さんの心の中に少しでも真のお父様とイエスに対する分離があるなら、皆さんは神に害を及ぼすのです。真のお父様とイエスは同一のお方だからです。」

イエス様と真のお父様は同一のお方であるという観点から、自分自身の立場もまた2000年前のペテロと同じ立場であるという意識となります。

「クォ・バディス」という意味は、ヨハネによる福音書13章36節から由来によるもので「どこに行かれますか」ということを指しているといいます。

ヨハネによる福音書13章36節
シモン・ペテロがイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのですか」。イエスは答えられた、「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」。


ペテロは最後はイエス様についていくことになりました。

私たちもまた、真のお父様から「天国の鍵」をいただいている立場であり、ペテロと同じ立場が与えられているように思います。

真のお父様のみことば
天国の鍵はなんでしょうか。それはホーム・ チャーチです。それ以外はありません。ではペテロはどうすべきだったのでしょうか。今、私たちは、彼がその体的天国つまりホーム・ チャーチを開くべきだったと言うことを知っています。そして、私たちの言葉で言う、環境を確保できるのです。その後に氏族の編成が成されます。 イエス様が「あなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、地で解くことは天でも解かれるであろう」と示されたように、私たちも地上で天国を実現しない限り、霊界での天国も実現されません。
1981.1.1家庭教会は私の天国






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天一国創建の公式


1992年からの神様の摂理は、日本の責任分担において重要な期間でありました。40年の荒野路程を勝利された真のお父様が再び新婦を捜し立てられた重要な出発となりました。天一国、すなわち「私の国統一」の摂理が始まりました。

そのために今までの組織体制ではなく、天一国創建のためにその準備をする必要があります。それで今までのピラミッド体制を反対にするため、日本のトップをかえて新しい方向をお父様は指示されました。

みことば
今まではピラミッド式の組織でしたが、今からは違います。反対に引っ繰り返すのです。ですから、本部がありません。地方にも県がありません。郡がありません。先生を中心として本部は全家庭なのです。堕落する以前にもそうです。父母だけしかないないのです。1991.1.1

真のお父様の勝利により堕落する前の状態を復帰して、本然の姿を取り戻すチャンスを迎えました。神様と家庭が直結する重要な接点が決定し、新しい出発の時を迎えました。


祝福家庭は、全部ご父母様を中心として、神様を中心として特命を受けて、その命令の一元化実体圏を整えて、天の前に奉献しなければならない責任を、地上に生きる血族たちは全うしなければなりません。これが天国に行くことのできる準備なのです。1991.1.1(私の国の統一)


「特命」とはなにか。それは氏族的メシヤの摂理であると思います。
「天の前に奉献しなければならない責任」とはなにか。
1999年までの7年路程においてエバ国の使命は祝福家庭が氏族的メシヤの実体圏を勝利して、真のお父様を日本のお迎えし、そこで天宙的祝福式を行うことによって、世界に善なる子女を生み出すことが天の計画において予定されていたことだとお父様は1999年1月に語られました。そのことを直接伺いました。


今、家庭連合で失敗している内容を蕩減復帰する使命がサンクチュアリにあることを痛感しています。







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天国に行くことのできる準備

真のお父様のみことば 

今まではピラミッド式の組織でしたが、今からは違います。反対に引っ繰り返すのです。ですから、本部がありません。地方にも県がありません。郡がありません。先生を中心として本部は全家庭なのです。堕落する以前にもそうです。父母だけしかいないのです。

祝福家庭は、全部ご父母様を中心として、神様を中心として特命を受けて、その命令の一元化実体圏を整えて、天の前に奉献しなければならない責任を、地上に生きる血族たちは全うしなければなりません。これが天国に行くことのできる準備なのです。1991.1.1(私の国の統一)



 教会集中時代は終わりました。分散時代です。九月一日で、氏族的メシヤを発表してから三年目です。三年間飛ばしてしまいました。その時、はっきり教えました。氏族的メシヤを一人でできなければ三位基台、三位基台でできなければ12人が一つとなってやるのです。それができない場合には、120の氏族的メシヤが連合してやりなさい。そういう連合体をつくってやった場合には、一人も隠れることができません。1994.1.2 (第11回愛勝日)




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洗礼ヨハネと私

のお父様のみことば 


イエス様は三〇年の歳月を、ヨセフとマリアの家庭で生きたのですが、その家庭では誰もがイエス様が抱いているその心、イエス様が願っている所望、イエス様の生活とやるべき事が何であるかについて、無知であったのです。のみならず、イエス様がされた御言の深い意味を理解し、イエス様をキリストとして迎える者がいませんでした。むしろイエス様を不信して捨てる立場をとったのが、イエス様の家庭であったのです。

 家庭において捜し立てるべき摂理的使命があり、個人に対して捜し立てるべき使命があり、また生活を通して、仕事を通して捜し立てるべき使命が、イエス様にはあったのですが、その当時のユダヤ民族の中には、そんなイエス様の使命を自身の命と感じる人間が、一人もいなかったのです。

 イエス様が見て、聞いて、語り、行い、働くすべての生活が、無知な地上にあったとしても、その生は地上の人間たちの為に生きることのみではなく、人間が知らない新しい神のみ旨の為に生きたのでした。ですからこのような新しい天倫のみ旨の為に生きられたイエス様にはその如くに、人知れぬ背後の悲しみの言葉と、理念と行動と生活に現れていたということを、皆さんは知らねばなりません。

 またイエス様は家庭において、自身のみ旨を立てることができなかったので、社会を通して、あるいは教団を通して、自身のみ旨を知らしめることを願ったのです。しかしイエス様はユダヤ教のまえに、またイスラエル民族のまえに歓迎されず、捨てられたのです。このようにイエス様の一身が排斥されたのみならず、さらにはイエス様がされた御言も排斥され、イエス様の生活、イエス様がされようとされたその事が、すべて排斥されたことを、皆さんは知らねばなりません。

 それゆえ皆さんは、このように見捨てられたイエス様の心情、捨てられる時のその寂しさ、心に受ける苦痛がどれほど大きかったかを、推し量ってみなければなりません。もしもこのようなイエス様の苦痛を知らない者になったなら、皆さんは四〇〇〇年の歴史に責任を負ってきたイエス様の人生、その理念、その生活、その仕事と御言を知る者として、到底現れることはできません。

 今日我々はイエス様のこのような事情が現れている、聖書の御言を通して少しは知っているのですが、それも頭で知っているのです。また耳で聞いて知っている程度です。しかしそれでは駄目なのです。昔イスラエルのユダヤの民に対して、イエス様が御言を伝えられた時にも、それを耳で聞いて、頭で知っただけだったのです。このように実生活において皮膚で体恤しないで、耳で聞き、頭で知っただけでしたので、かえって彼らがイエス様をして、十字架の道に行かせるようになったのです。ですから御言を頭で知り、耳で聞いただけでは駄目だということを、皆さんははっきりと知らねばなりません。 1957.10.4






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本による革命

真のお父様のみことば

先生が迫害を受けながら、百六十か国の宣教基地を造ったとするならば、あなたたちは百六十か国にあたる家庭的基盤、百六十軒の家庭を収拾しなければなりません。そうすることによって同じ結晶体になるのです。結晶体になったその位置を獲得した場合には、一かたまりになった結晶体と同じく皆一つになるのです。これは公式になっています。だから百六十軒には、ヤコブ家庭の十二数、モーセの七十二長老の失敗、イエス様の百二十門徒の失敗が入っているのです。

 戦後、キリスト教文化圏を新婦として、連合国家が先生を迎えた場合には、百六十か国を中心として、憲法を作って法律が発布されて、七年以内に、統一の世界、地上天国、天上天国を成し遂げるようになっていました。一九四五年から七年間で、一九五二年までに終えるのが先生の目標だったのです。そういう内容をきちんと構えておりながら、足場がなくて、皆追い出されてしまいました。完全に神様が主管するその基台を、再臨主を中心として一体となって定着すべきその基台を、連合国家が反対することによって、完全にサタンが主管するようになり、先生は神様と共に荒野に追い出されてしまったのです。
 再びその基準まで戻すのに、四十年を中心とした蕩減復帰の期間がありました。四千年を四十年で蕩減するのです。何十倍、何百倍以上の犠牲を払ってでも、これをよじ登って復帰しなければ、神様の摂理は永遠に延長されるのです。大変なことです。

 復帰摂理から見た場合に、個人的に完成したこともなければ、家庭的にも失敗、氏族的にも失敗、民族的にも失敗、国家的にも失敗、世界的にも失敗してきたのです。完全に世界的基盤において、神様と再臨主が追い出されたのです。四千年の歴史を四百年で蕩減するとすれば、先生は生きることができません。四十年の期間でこれを乗り越えないと、大変なことになるのです。

 完全に蕩減復帰させてあげた場合には、その先祖が祝福されたとするならば、その後孫も同じく祝福できるのです。親の勝利圏は、その後孫が相続できるのが原則だからです。第一代の先祖を中心として、何千代あってもいいのです。平面的に何千代でも祝福してあげることができます。今までの何千年の歴史を、先祖を中心とした時には、何千代が横に並んで、祝福は一週間でいっぺんにしてあげられるというのです。  1994.1.2







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私の責任ー礼拝

 真のお父様の祈祷 1991.6.12

愛の実体として、お父様の御旨を受け継いだ分身たるすべての祝福家庭は、今やこの地上に新たに氏族的メシヤとして、あなたの前における失われた氏族の父母を取り戻さなければなりません。あなたの愛の心情圏内にある父母として、再び天の愛に繋げなければならない重大なる一つの橋の任務が、国と氏族と家庭まで連結させるための必要条件として残っていることを知ったので、真の父母を中心とした勝利圏を基盤にして、横的に全世界の二万五千家庭を氏族的メシヤとして祝福し、配置致しました。彼等に伝授するすべての責任と使命は、自分の一祝福家庭に留まるのではありません。氏族を越えて、その国と世界に繋ぐことのできる歴史的な宿命として解いていくべき重大な使命があることを自覚しなければならない時となりました。

 こうして、氏族的なメシヤの使命を地上に完結することによって、天上世界と地上世界のサタンの権限に満ちたあらゆるものを追い出し、あなたの愛によって収拾された、新たなる希望に溢れる復帰の行軍がこの地上に始まりましたので、このすべてのことを喜んで受け入れ、勝利に向かう希望をもって耐え忍んでこられまたお父様の栄光の日を、正しく迎えますように、切に、切にお願い申し上げます。






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密使と祖国ー礼拝

真のお父様のみことば
「密使と祖国」 1970年2月16日のみことば


復帰摂理歴史と天の密使

 今日この堕落した世界の歴史発展がそうであるように、神様の摂理路程も同様です。この摂理路程は、サタン世界と方向が同じで内容が通じる立場ではなく、方向も内容もすべて反対です。こういう立場から見るとき、新しい基点と、新しい体制を備えて影響を及ぼし得る環境を再建するのは、どれだけ難しいことでしょうか。

 歴史を経て、影響を及ぼすことのできるある一基準を成すまでには、表すことができない内的な闘争の時期があります。その内的な闘争が、時代的なすべての要人と、国家の為政者たちの前に影響を及ぼすことのできる基盤をもつようになるとき、その国家全体を新しい分野で革新することができます。もし狭い範囲に影響を及ぼすようになるならば、一つの村ができるでしょうし、一つの家庭もできるでしょうし、さらには一つの個人もできることでしょう。

 復帰摂理について見るとき、今まで神様がこのような革新運動を悪の世界に提示しましたが、その影響が社会と国家にすぐに及んだことはありませんでした。いつも個人がまずその影響を受け、そのあとに家庭を糾合する運動をして、今まで歴史を発展させてきました。これが今日摂理史において、個人が歩んでいかなければならない伝統的な路程です。

 このように個人を通じて家庭から氏族、宗族、民族、国家、世界基準まで達した宗教世界を見てみると、どんな宗教でも闘争の歴史をつづってきたということを知ることができます。




 そのような歴史をつづってくるのに、公然と現れて戦ったのではなく、自分自身を隠しながら環境に追われたり、または制約された環境を抜け出すことができない立場で発展的な要因を利用できないまま、一つの公的な姿勢を備えてきました。

 このような事実を考えるとき、責任を担った摂理的な責任者の立場は、いつも自由な体ではないのです。自分を表すことのできる立場になく、自己主張できる立場になく、自分の行動をむやみにできる立場にないというのです。

 自分本来のすべての行動の要件を隠して、その社会環境と対する人々の前に、現実の社会環境よりもより有益な与件を新しく提示しなければなりません。その人々と何としてでも関係を結んで、心が通じる立場に立って、自分の本心と連結させて発展してきたのが復帰摂理歴史路程です。

過去の歴史的な先祖を顧みると、彼らはどんな時でも密使の立場、すなわち、自分の正体を現すことができずに隠す立場にいました。そういう環境で、自らの踏み台を開拓するために限りなく努力していった人々です。


それで皆さんが今、み旨を中心として覚悟しなければならないこととは、「神様から密使の特命を受けている私の体だ」ということです。それゆえ、自分自身が行動一つ間違うことによってその環境に及ぼす影響は、自分一人だけに限られることでなく、祖国という広大で途方もない内容に連結するという事実を知らなければなりません。

 今日私たち責任者、すなわち核心の要員であり、精鋭の要員だと言える人たちの中で、果たして祖国の主権回復のための天の特使の使命を成すために召命を受けて、担った責任を現地で果たす一存在だと自認できる人たちが、どれくらいいるでしょうか。

 そのためには、密使の使命時代を経なければなりません。密使の使命が完結されるとき、言い換えればその環境で証されて、その環境が自分を信奉し、自分を信じて、自分と相談できる立場に立つようになるとき、初めて天に代わる特使の使命を果たすことができるというのです。しかし、その環境が自分を信じない立場で、自分の権威と自分の国家ならば国家の権威を先立たせて、その環境に出れば出るほど反発が加重されて、排斥の矢が飛んでくることでしょう。

 ですから、皆さんが今後どのような心をもって地域に行かなければならないでしょうか。新しい密使の使命を受けるためにここに召命されたという事実を知って、内的に深く誓わなければなりません。そうして自分の地域に行って、密使の使命を完結しなければなりません。環境を開拓して、自分が絶対的な権限を成し遂げるようになるとき、そこで地域の人たちと共に初めて天の特使の使命を果たすことができるのです。今まで責任者たちが密使の使命時代を忘れて、特使の使命を成そうとしたので、私たちが発展するにおいて多くの迫害を受けてきたのです。

密使の使命を担う過程においては、特使の使命よりもより厳粛で二重三重に心の中で誓いながら、自分の正体がその環境に露出しないように努力しなければならないのです。
 それで彼らの前に利益を与えることのできる一つの条件を提示することによって、彼らが自分の前に順応できる基盤をつくらなければなりません。直接的な作戦よりも、間接的な作戦を起こさなければならないのです。すなわち、個体を検討して連結する戦いをしなければならないというのです。そういう作戦を展開したのちには、彼らを自分と共に生死を分かつことのできる基準まで引き上げなければなりません。そういう立場で自分の信ずるところを打ち明けて、共同の目的を達成することが密使として果たさなければならない責任なのです。

 皆さんは、この民族が私たちを信任しているその基準に満足するのでなく、ここで神様がまだ明かすことができない内的な心情の事情が多いことを知って、これを発展させ、展開しなければならないのです。こういう密使の使命分野を、まだ経ていない私たち自身であるということを忘れてはなりません。

 私たちは、スパイの生活をするように、その環境で一言であっても同化されてはなりません。行動するにおいても同化されてはなりません。時をおいてその環境で、またその部落ならば部落、地域ならば地域など、全体の前に何かを残してあげることができ、利益となる多くの問題を提示する人として認められなければならないのです。密使として責任を負わなければならない使命分野以上の基準を立てなければなりません。そのような立場で命令し、決意し、約束して、新しい運動を展開しなければならないのです。

 今日天のために行く人たちは、派遣された密使です。個々人において大きい小さい、広い狭い、高い低いの差はあるかもしれませんが、各自が置かれている生活自体は、密使の生活を離れてはならないのです。ここには、いつも生死の脅威が介在しています。まかり間違えば永遠な生命の問題が左右される、こういう立場に置かれるようになるのです。

 それゆえ永遠な生命を支えることができ、永遠な生命を保護してくれる私たちの祖国を探すという観念が、その環境より何百倍も強くなければ密使の生活をすることができないのです。その祖国の栄光を見つめる心をもって、祖国の恨みを解いたときに、全万民が喜ぶということを考えなければなりません。そして新しい歴史を創建して祖国の主権復帰の一日を迎えるその時に、自らの功労が表れることを考えながら、現在の立場を無視することができなければなりません。

 そのような心が先立たなくては、密使の使命を遂行することができないというのです。言い換えれば、祖国の主権復帰のための望みが現実の望みより千倍、万倍強まる心になってこそ、今日の生命を取り替える恨みがあっても、それを克服して密使の使命を遂行することができるのです。

こういう立場で皆さんが、これから新しい時代を迎えて、いかなる姿勢を備えなければならないでしょうか。祖国の主権復帰のための信念が、何よりも高く胸の中に燃えなければなりません。

 言い換えれば、六千年間神様が待ち焦がれた祖国を建設する騎手となって、先駆けて立った精鋭部隊の一員として開拓者になるという、この途方もない使命に責任を負った自負心を感じなければなりません。過ぎ去った多くの人たちが手にすることを望みましたが、もとうとしてももつことができなかった、一つしかなく、この一時しかない特権的な使命を担ったという厳粛な責任感をもたなければならないのです。

 ですから食べて、寝て、行って、来るすべての生活が、祖国創建のためのものでなければなりません。神様から特別に派遣された密使として凛々しく、格好良く、「この使命を遂行する」と言って立ち上がってくれることを神様がどれほど待ち焦がれていらっしゃるでしょうか。私たちは国家の足場を備え、全体の内容を提示して、一度も繰り広げることができなかった天のみ旨、祖国を立てることができるという志を立てなければなりません。今までそのみ旨を一度も立てられなかったというのです。

こういう問題について考えると、皆さんに付与されたことが祖国のための密使の使命ではなく、自分が成功するための使命だと思っているならば、皆さんは滅びるのです。このような観念を皆さんが感じて、皆さんの血に、皆さんの肉に刻まなければなりません。先生は、現れることを嫌います。なぜですか。まだ越えなければならない峠が幾重にも重なり残っていて、歴史上で最後の峠を越えることができずに死んだ先祖がいることを知っているからです。

 黙って自分自ら心的基盤に深い根を下ろして、春を待たなければなりません。春が来れば一斉に生い茂って育つことのできる根深い生の価値のために、また自らの力量をみ旨に導入させるために、何よりも時間を投入し、努力を投入しなければなりません。

 そうせずに自身が現れることを望むことは、あたかも根がない木と同じです。根がなく植えられた木は、そのまま枯れてしまうのです。このような問題を中心として、皆さんは再度自分を分析し、批判しなければならないのです。

今や皆さんは、新しい密使なのです。神様から新しい命令を受けて、新しい世界の前に立った皆さんです。これから皆さんは深刻でなければなりません。威信をもって村の人たちに対してはなりません。皆さんの生死の問題が掛かっており、今までの世界の問題が掛かっているのです。

 ですから、深刻な心で新しい運命と共に私の基盤を固めて、密使の任務を全うしなければなりません。サタン世界に、崩れることのない基盤を固めるために、自分の身の振り方に気をつけなければならないのです。それにもかかわらず、昔のままの習慣で、新しい命令などしようがしまいが私のしたいとおりにするという心では、神様のみ旨を成し遂げることはできません。

 新しい服と古い服は違います。新しい命令と昔の命令は違うのです。新しい現在の視点と過去の視点はお互いに違うのです。過去の段階と現在の段階とは大きく違うのです。これが発展的な段階だというのです。新しい自覚と新しい気分と新しい決意で、新しい環境の基盤を備えずには、新しいみ旨を成し遂げることができないのです。

今まで六千年の復帰摂理歴史では、数多くの事情とともに先知先烈たちが犠牲になっていきました。このように血の祭壇を連結させてきたものを、この瞬間に恨みを晴らすことができるのでしょうか。それとも、恨みをもっと積もらせるのでしょうか。このような問題を扱っている深刻な立場に、私たちがいるのです。ですから、神様が同情することのできる心の姿勢、神様が同情することのできる生活姿勢、神様が同情することのできる公平で義理固い姿勢を備えなければならないということを、皆さんは知らなければなりません。

 密使は、いつも祖国のために生きる人です。本然の主権者が神様であられるので、「お父様、これからこのようにしていてください」という生活、それ自体とならなければなりません。私たちはこれからどうなるか分からない立場にあるので、私が死んでも父と共に死に、追い込まれても父と共に追い込まれ、追われても父と共に追われ、戦っても父と共に戦うという心が、密使の生活圏内から離れてはならないのです。

 秘密があれば、心を整理してその主権者の前に報告しなければならない責任を負っている人が、密使です。それゆえ、そのような心をもっていくところにおいて、死の道を十峠越えたとするならば、十峠以上の実を結ばなければなりません。実を結ぶことができないときは、神様の前に裏切り者になるのです。

神様は、どのような方でしょうか。神様は密使の大王です。祖国の主権復帰のために、サタン世界に現れる密使の大王であり、総司令官です。では、そういう神様がこの地に対して「私が神様であり、私が教える真理はこれだ」と、六千年の間に一度でも主張したことがあったでしょうか。なかったのです。

 けれども神様は、私たちの澄んだ良心を通じて指示し、因縁を結ぶために苦労してこられました。私たちの心の土台を広めて、一致化することのできる自由な世界へ導き出してきたのが六千年の復帰摂理歴史です。

 このようなことにすべて責任を負ってこの地に来られる神様の息子に、密使の使命を外的、内的に連結させなければならない使命があるために、外的にぶつかる怨 讐のような環境の難しさは、内的な面において神様と一致することのできる刺激的な内容になるのです。

 天の運勢をここに表すためには、自分が千回恥をかいたとしてもそれを気にせず、または百回の死の道があるとしても、それを気にしないで行くという信念をもって出ていくようになるとき、神様が皆さんの行く道を守ってくださるのです。なぜなら、先生が今まで歩んできた生活の中で、どのような時にも神様は私を捨てなかったことを体験したので、皆さんも神様が保護してくださるに間違いないというのです。

 密使は、その姿が良いからなるのではありません。また、能力があるからなるのではありません。密使の使命は、神様と心情が一致した立場に立って、その国の風俗を正しく立てると同時に、絶対的に忠誠を立てて、その環境を収拾しなければならないのです。

 これをする日には、天の主権者である神様の直接的な命令を受けた代行者の立場に立つことができるのです。そのようになれば、神様が責任を負わざるを得ないというのです。

 皆さんが密使の責任を負うようになれば、そのことは必ず成し遂げられるということを先生は、長年の体験を通して知っています。皆さんもこのような生活をしていくことを願うので、きょう「密使と祖国」という題目で少しの間お話ししました。



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強く雄々しくあって、失った福地を回復しようー礼拝

真のお父様のみことば 
「強く雄々しくあって、失った福地を回復しよう」 1957年6月23日


 神様が嘆いていらっしゃるので、神様によって創造された全被造物も喜ぼうとしても喜ぶことができません。創造の中心が悲しんでいらっしゃるために、すべての被造物も悲しまずにはいられないのです。

 それでは、み旨を起こして、万民を通してそのみ旨が成就されることを願う神様が摂理する、その目的とは何でしょうか。独り悲しみ、嘆いていらっしゃる御自身の、その悲しみと嘆きを取り除いてくれる人を探すことです。これが復帰摂理の帰一点なのです。

 神様の嘆きを解怨してさしあげることのできる一人の人物、言い換えれば、六千年の果てしなく長い歳月の間神様を嘆かせてきた、人間始祖から始まる人類の罪悪歴史を食い止め、それを清算して神様の嘆きを取り除くことのできる、その一人の人物を探してきたのです。このように歴史を代表した本然の一人の人物を探し出すことが、復帰摂理の目的であるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 皆さんが神様の前に立つとき、贖罪の恵みにあずかりたい心をもつことも必要です。あるいは、家庭と民族と世界の問題をめぐって贖罪の恵みを求めることも必要でしょう。しかし私たちは、自分の悲しみと嘆きを「解怨してください」とすがって哀願する段階を越え、神様の胸中に深くしみ込んだ、創造ののちに人間の過ちによって抱かされた怨恨を、解いてさしあげたいという訴えが必要であることを知らなければなりません。




 ノアの家族は、洪水審判で贖罪されたので感謝の生活をしなければならなかったのですが、習慣的な生活を繰り返しました。ですから、天倫に対して立ち上がった私たちも同様に、こういう過ちを犯しやすいのですが、私たちは自らの習慣的生活を繰り返す人になってはいけません。

 自分と家族を救ってくださった神様に、いつも新たに接するノアとなり、全人類がそのような心をもつようになる日を願いながら、父の心情を直視して立ち上がったノアになっていたなら、また神様の前に絶対的信仰を立てるノアの家庭になっていたなら、第二の堕落を成立させるような過ちは犯さなかったことでしょう。


 それでは、モーセに接するイスラエル民族は、どのような心情をもつべきだったのでしょうか。彼らは、神様が数千年間苦労し、また先祖たちが数千年間努力し、何もかも与え、何もかも犠牲にして探し出され、立てられた一人の中心人物がモーセであるということが分からなければならなかったのです。イスラエル民族は、神様がすべてを犠牲にし、その代価として探し出されたのがモーセであるということが分かりませんでした。それゆえ荒野で、六十万の民衆が倒れるようになったのです。

 もしイスラエル民族が、国家と世界を代表して立てられたモーセ個人の価値を民族全体の価値として、あるいは人類全体と同等の価値として感じ、彼と一つになっていたなら、その民族は荒野で倒れはしなかったでしょう。

 モーセ以後、数千年の歴史を経ながら預言者たちがこの地上に送られた目的、また世界を代表してイエス・キリストがこの地上に来られた目的とは何かといえば、神様の御苦労と嘆きを代わりに負うことであり、人間と万物の嘆きを代わりに負うことであったのです。ところで、どこの誰が、イエス様が万民を代表して現れた条件的な方であることを知っていたでしょうか。イエス様が、四千年間嘆いてこられた神様に代わって、サタンに対して勝利の条件を立てる方だということを誰も知らなかったのです。

 それでは、今日あなた方が求めるべきこととは何でしょうか。神様の嘆きと人間の嘆き、そして万物の嘆きを解怨してあげられる、その一人のお方を求めなければなりません。そうして皆さんがその方と一体の関係を結ばなければならないのです。もしそういう者になれなければ、皆さんから希望も、神様の栄光も見いだすことはできません。

 このような使命をもって来られた方がイエス様だったのに、神様が四千年の間苦労して選んでおいたイスラエル民族、ユダヤ教団は、どうしたのでしょうか。神様の名前を呼びながら、「神様のためだ」と言う彼らが、来られたメシヤ、天と地にたまった嘆きを解怨する一つの中心を不信して、その方の前に罪悪の反旗を翻した事実を皆さんは知らなければなりません。

 イエス様が来られるまでの悲しい歴史と、この悲しい歴史を解怨しなければならない天倫の内容を知っていた民だとするなら、イエス様を十字架にかけはしなかったのです。また、イエス様が十字架にかけられるようになったときに、右側の強盗がイエス様を神様の息子として証すのではなく、そばで仕えていた聖徒たちがイエス様を証して助けなければならなかったのです。ところが、当時そのような責任を果たした弟子がいなかったために、今日私たちがそのような責任を果たさなければならないのです。

 今日まで神様は、人間の嘆きを解怨し得る一人の方をこの地に送るために苦労され、人間はそういう方が現れることを望んできました。これが、神様の摂理歴史であると同時に人類歴史なのです。


 それでは、荒野路程にあったイスラエルの六十万の民衆が、モーセと一つになれなかった怨恨の条件とは何だったのでしょうか。それは、イスラエル民族の中に、怨讐の懐で暮らしていたエジプトでの生活を懐かしがる群れが現れて、モーセの行く道を遮り、天倫の道を遮ったことだったのです。

 初め、モーセを先頭にしてイスラエル六十万の大衆がアマレクと戦う時には、モーセが手を挙げればイスラエル民族が勝ち、モーセが手を下ろせばイスラエル民族が敗れるようになり、モーセと人々は一体の関係を成しましたが、あとで変わってしまったのです。


 歴史的に考察してみれば、神様のみ旨を掲げて歩んでいく人は、まず見えないサタンとの闘いがあり、次に見えるサタンとの闘いがあります。その次には物質の困窮を通じた闘いがあるのです。そのためにイエス様にも、パンで試練を受ける個人的な試練があり、次に聖殿を中心とした環境的な試練があり、また山頂に立てられ世界をめぐっての象徴的な試練があったのです。このようなことが、闘いがなければならない原則のもとで現れるようになりました。

 それでは、神様のみ旨を掲げて歩んでいたモーセは、いかなる心をもっていたのでしょうか。彼も神様のみ旨を掲げるために怨讐と闘うことができる心、そして荒野に出ては、アマレク族と戦うことができる心、飢えと闘うことができる心、死を覚悟して堂々と出ていく勇気がありました。

 モーセは、パロ宮中生活四十年、ミデヤン荒野四十年、合計八十年間をサタンと闘い、自分自身と闘い、飢えと闘いました。そういう闘いに勝利したとき、神様はモーセを召命されたのです。

 このような道を行った者はモーセだけではありません。イエス様もそのような道を行かれたのです。そのため、イエス様御自身においても、サタンとの対決を象徴するサタンの試練がありました。まず自分自身を克服するために、自分自身を一つの供え物にして飢えと闘った四十日の断食期間がありました。その次には物質の条件を越えるために、「石をパンにかえよ」という試練がありました。

 なぜイエス様がこういう過程を経なければならないかというと、人間が堕落したことにより神様を失い、息子、娘の威信を失い、万物を失ったために、これらを再び捜し出すための条件が必要だったからです。

 そのため、今日聖徒たちが歩む路程にも、個人や民族、国家、世界を問わず、悪の世界を代表するサタンからの試練があります。また、神様の息子、娘の栄光ではなく、十字架の路程が残っています。その次には万物を失ったために、飢えの苦難を経なければならないのです。

 それでは、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。終わりの日に来られる主は、六千年間神様を嘆かせた条件を取り除き、数多くの聖徒たちの信仰の目的を達成するために来られるということを知らなければなりません。そして、イスラエル民族が最初にモーセを迎えたときに、自分たちの所有するものをすべて捨てて出発したように、荒野に出ても自分たちのすべてのものを忘れて、モーセだけを信じて従っていたなら、彼らとモーセは分かれるようにはならなかったのです。

 今日、理想の園を望みながら再臨のその日を迎えるために準備している私たちが、まずもって備えるべきものがあるとすれば、それは何でしょうか。それは、来られる主は、六千年の間神様が苦労し、先祖たちが苦労したその結実として探し出される方である、ということを肝に銘じることです。

 その方がもし、この地に来られたならば、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。喜んで世の中のすべてをその方に捧げ、その方だけを歴史を代表する存在として、罪悪の歴史を終結させ得る存在として、神様の代身として、侍ることのできる心を備えなければなりません。

 世界のキリスト教徒たちがそういう心をもたないならば、神様が数千年間苦労して立てられたモーセが荒野で倒れることによって怨恨が残るようになったのと、同じ結果になるというのです。したがって私たちは、再び来られる主のために苦労することができる者にならなければなりません。

 このような立場に置かれている今日の私たちは、カナン福地を望みながら歩んでいたモーセが死んだのちに、彼の後継者として立てられたヨシュアとカレブの使命を、歴史的な立場で引き継いでいるということを肝に銘じなければなりません。すなわち、イスラエル六十万の大衆を率いてカナンの地に入っていくことによって、数千年間この地にこびりついた神様の怨恨を解いてさしあげ得る祭物的な条件をもって立ち上がった、ヨシュアのような人にならなければならないのです。

 今日、私たちがヨシュアとカレブと同じような決心と覚悟をもたなければ、荒野で流浪しているイスラエル民族を収拾してカナン福地に入っていくことはできず、聖殿理想を完成することはできないのです。皆さんはこれから、神様の愛と怨恨を知ったことによって、祈る目的が変わらなければなりません。

 また、神様がモーセと不信するイスラエル六十万の民衆を荒野で一掃し、ヨシュアとカレブを立て二世たちを連れて再びカナンに向かわせた、その心情を知る者とならなければなりません。

 皆さんは今いかなる段階に到達しているかというと、先祖たちが苦難を受けて歩んできた六千年の歴史を踏み台として、審判の旗を高らかに掲げるべき立場に到達し、また、イスラエル民族に向かって「ヨルダン川を渡っていこう」と号令をかけたヨシュアとカレブの使命を代行しなければならない位置に来ているのです。


それでは、私たちがそういう責任と使命を引き受けようとするならば、神様は私たちに何を強調されるでしょうか。神様が荒野でモーセの使命を引き継いだヨシュアに、「強く雄々しくあれ」と言われたのと同じように、私たちにも「強く雄々しくあれ」と強調なさるはずです。これから私たちは、世界的カナン福地を見つめ、そこに入っていくことを願いながら荒野にいるという事実を知り、ヨシュアとカレブのような心と体にならなければなりません。

 すると今日、世界的なキリスト教徒たちはどのように生きなければならないでしょうか。ヨシュアとカレブのような存在が現れて、この地上のキリスト教を導いていくことを天の前に訴えなければならないのです。中心を失い混沌と混乱を起こしているこの荒野時代で、これを収拾していく方向を提示できるヨシュアとカレブのような存在が現れなければならない時になったのです。このことを今日、キリスト教徒たちははっきりと悟らなければなりません。ここでは、自らの教派が問題ではありません。私たちはそのことを知らなければなりません。

 ヨハネの黙示録第十一章では、二本のオリーブの木に対する預言をしています。これは何を意味しているのでしょうか。世界的なカナン復帰の路程を出発するのに先立ち、ヨシュアとカレブのような存在が現れることを予告しているのです。モーセの代わりに現れたヨシュアとカレブがユダヤ民族を導いてカナンの地に入っていったのと同じように、今日にもイエス・キリストの福音をもったヨシュアとカレブのような人たちが現れて、神様の民を率いて世界的なカナン福地、新しい希望のカナン福地に向かうようになるでしょう。


 またヨシュアとカレブに従ってカナンに入っていった群れが、カナン七族を滅ぼしたように、皆さんにはサタンを滅ぼさなければならない責任があるのです。そういう天の勇士になり、そのような路程を歩むべき責任が、皆さんにあることを肝に銘じなければなりません。

 そして、新しいみ言を主張するヨシュアとカレブがこの地のどこに現れようとも、人々の心の扉を開いて、み言を聞かせ、天のために生きられるようにする私たちにならなければなりません。
 ヨシュアとカレブの行く道は、冒険の道でした。彼らが歩いた道は、難しい開拓の道であり、闘いの道でした。行く先々で開拓者の使命を果たさなければならない、厳しい道でした。時には個人的に、あるいは環境的にぶつかってくる試練と闘わなければならない路程が、彼らにはあったのです。


モーセがイスラエル民族を率いてカナン福地に向かって出発しようとする時、パロ王がモーセを殺そうとし、イスラエル民族の中にもモーセを不信して反対する人が多かったのと同じように、ヨシュアとカレブの時にもそのようなことがありました。このようなことをよく御存じの神様は、ヨシュアとカレブに「強く雄々しくあれ」と語られたのです。「強く雄々しくあれ」、このみ言は何を意味しているのでしょうか。それは、「人間的なすべての条件を乗り越えなさい」という意味です。

 それで、イエス様も三大試練を通して、人間的なすべての条件を乗り越えて勝利されました。したがって、二千年が過ぎた今日の皆さんも、人間的なすべての条件を乗り越えていく途上において、強く雄々しくなければなりません。

 ヨシュアは個人の闘いの路程から最後の瞬間まで、勝利の路程を歩まなければならないモーセの代わりの立場に立てられたために、神様は彼に「強く雄々しくあれ」というみ言とともに「対する個人を怨讐と思い、対する民族を怨讐と思い、対する土地を怨讐の土地だと思え」という忠告のみ言を語られたのです。

 今日、ヨシュアのような立場に立つ私たちであろうとするなら、私たちにも行く先々で個人的な怨讐があることでしょう。環境も私たちを打ってくるでしょう。民族も、国家も私たちを打つでしょう。しかし、選ばれた私たちが団結し、死ぬ覚悟で最後まで闘う第二のヨシュアとなり、死ぬ覚悟でイエス・キリストに従い、世界のキリスト教に責任を負うことができる聖徒たちになるならば、私たちは目の前に展開するいかなる闘いの道も乗り越えることができます。それゆえに神様は、私たちが強く雄々しくあることを願っていらっしゃるのです。


それでは今日、四千年歴史を代表したイエス様が残した真理のみ言を信じている聖徒たちは、これから先、どのようしなければならないでしょうか。サタンの鉄条網の中に捕らわれている人類を救うことができる、天の勇士としての姿を備えた息子、娘とならなければなりません。また、神様のみ旨を正しく悟り、昔イスラエル民族が神様のみ旨を悟ることができず、荒野でサタンの餌食になった二の舞いを踏む人になってはなりません。

 皆さんは、モーセが神様の前に再び立つ時まで荒野で四十年の間精誠を尽くした、その志操を信仰の根としなければならないし、イスラエルを代表して八十日間神様に取りすがり訴えた、その粘り強く強靭なモーセの性稟を見習わなければなりません。また、第二イスラエル選民圏を代表し、世界カナン復帰の理想を成就しなければならない再臨の宗族であるということを知らなければなりません。

 こういうことを考えて、「お父様! 六千年の摂理過程に現れた全体の闘いが私の身に現れるとしても、私は乗り越えていきます」と誓っていくことができなければなりません。それだけでなく、六千年の間に天のみ旨を立てるため死の峠を越えてきた先知先烈たちの代わりとなり、この地を支配しているサタンの群れに向かって、「私は爆弾だ。お前たちの胸を爆発させてやるぞ!」と叫ぶことができる者にならなければなりません。

 このような観点から私たちは、神様がヨシュアに「強く雄々しくあれ」と語られたみ言を私たちの教訓としなければなりません。イスラエル民族がそのみ言の意味を悟ることができなかっために、カナンの地に入ってからも十二支派を中心として再蕩減の歴史を経なければならなかったのです。そのために、今日の私たちがそういうヨシュア的な責任を果たすことができないならば、天国理念を建設するためにこの地にやって来られる主も、皆さんと共に受難の道を行くしかありません。


 ですから、皆さんは天のみ旨に向けて行くにおいて個人から家庭、社会、民族、国家に至るまですべてを聖別し、この世的な部分はみんな捨て、天のものとしてすべて置き換えていかなければなりません。すなわち、私の世俗的な部分を捨てて天の私を取り戻さなければならないし、家庭の世俗的な部分を捨てて天の家庭を取り戻さなければならないし、宗族の世俗的な部分を捨てて天の宗族を取り戻さなければなりません。民族の世俗的な部分を捨てて天の民族を取り戻さなければならないし、国家の世俗的な部分を捨てて天の国家を取り戻さなければならないのです。そういうものを取り戻すために皆さんは強く雄々しい心で、力を尽くし思いを尽くして前進しなければなりません。

 そういう者ならば、個人を取り戻す際に個人が倒れても感謝でき、民族、国家を取り戻す際に民族、国家が倒れても感謝できる志操をもった天の息子、娘になれるでしょう。

 今日私たちは、このような覚悟で個人に対して闘うことができ、家庭、国家、世界に対して闘うことができ、この地上のサタンに対して「退け!」と言うことのできる勇猛心を備えていかなければなりません。

 天に向かった志操をもち、生涯路程の終わりまで進んでいく者がいるならば、彼は死んでも復活してその福地に現れて栄光を享受するでしょうし、もし死ななければ第二イスラエルとして許された福地の園に住むことができるでしょう。これをきょう、皆さんが肝に銘じるように願います。



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長崎島原の原城跡を訪ねて

長崎島原の原城跡を訪ねて

原城8


霊界動員による地上摂理の展開


真のお父様のみことば  「牧会者の道」

今日、キリスト教が世界的な宗教になったのは、その時代ごとに、難しい環境がある時ごとに犠牲になり、願ってきた望みの天国、終わりの日に来て一つの理想的天国を実現することを目標にしてすべてのものを犠牲にして、生命まで犠牲にしてその量を満たしてきたからです。個人的量を越えるようになる時は、家庭的量の時代に越えていくのです。私たちは知りませんが、天が収拾するというのです。そのような民族があったならばその民族は知りませんけれど、個人時代を越えて家庭時代に誰が連結させますか? 天が連結させるのです。霊界が動員して「お前はこういうふうに行かなければならない」と、その時ごとに霊的な世界の指導方針を通じて環境を引き継いであげる業をしたのです。その時ごとにそれを受け継ぐ先覚者や預言者たちにあっては、その環境的時代の立場と歩調が合いませんでした。反対的な現象が起こりました。それで理解できないのです。(一六八―八二)




9月28日早朝6時に家をでて、長崎島原にハーレーで向かいました。熊本の長洲フェリー乗り場に到着したのは10時前でした。そこから45分間の船旅です。
熊本の対岸の長崎島原について、キリシタン史研究家の宮本さんを訪ね、昼食をごちそうになりながら話を伺いました。

原城4


ヨハネの黙示録第19章

 :11)またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。 :12)その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。 :13)彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。 :14)そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。 :15)その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。 



その聖句をあげられ、「天の軍勢」は霊界におられる義人となられているキリシタンの皆様ではないかと。。。私も同感でした。



そのあと南島原の原城跡を訪ね、その地で犠牲になられた方々の心情を想いながら、祈祷の時間を持ちました。

神様の摂理で犠牲になられたこと。
イエス様を愛してこられたこと。
せつにメシヤを待ってこられていたこと。
神の御国を待ち焦がれていたこと。
そして、今二代王様が立って摂理を進めておられること。
アメリカの神の摂理を守って支えてほしいこと。

などをお祈りしました。


貴重な時間を過ごして、そこを後にして、再びフェリーに乗り、自宅に到着したのは夜の10時前でした。420kmの道程でした。











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AnanRound4MB (1)

神の国を求めて

真のお父様のみことば  メシヤと我々 1972年4月23日

サタンの世界は打って占領するが、神の戦法は追われ、打たれながら自然屈服させる。天の位置をそのままにして侍るような立場でなければ、神の権威の立場を復帰することはできないということを、我々は、はっきり知らなければならない。

 まあ、こういう立場において、現世において我々の成さねばならない重大な使命は何かというと、国がない。神の国がない。国なき者が本籍をもつことができるか。本籍地がない。日本人は日本の国があるから、日本を本籍の地としてもっているんだけれど、神の摂理から見た場合に、神様の主権国家がないから、神様の国民の登録ができない。宗教登録、これ一つしかもっていない。

 復帰はカインとアベルが一つにならなければ進んでいかない。それは統一発展の公式になっている。カイン・アベルだけでは救われない。カインを救い、カインが進むように後押しして、後ろで戦ってくれる防備圏をつくらなければ帰っていけない。それが原理の教えである。だからカイン・アベルは一つにならなければ、父母を迎える道がありません。 

宗教はアベルの立場であり、国はカインの立場である。だからカインがアベルを殺した歴史を引き継ぎ、歴史的な国家主権者は宗教を殺してきた。そういうふうに結実圏がつくられて迫害されてきた。こうなるというと、宗教を中心として国を自然屈服させて従わせるような勝利の国家をつくらなければ、天国は地上に生まれてこない。それを成そうとしたのがイエス様です。

 イエス様を中心としてユダヤ教とイスラエル民族が一つになったならば、そこが一つのアベル国家だ。だから我々の信仰の目標は何かというと、神の国の民になることである。民にならなければその子供として、自由自在に、万民あるいは万物世界において誇りながら愛される道は生まれてこない。国なき者であったなら、いつも攻められる。即時にやられる立場がいくらでもある。だから神の欲すべき国はいずこにありや、神の足場とすべき国がいずこにありや? これが問題です。





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