氏族メシヤ聖殿連合 大分聖殿

先生が迫害を受けながら、160か国の宣教基地を造ったとするならば、あなたたちは160か国にあたる家庭基盤、160軒の家庭を収拾しなければなりません。そうすることによって同じ結晶体になるのです。結晶体になったその位置を獲得した場合には、これは一塊になった結晶体と同じく皆一つになるのです。これは公式になっています。だから160軒には、ヤコブ家庭の12数、モーセの72長老の失敗、イエス様の120門徒の失敗が入っているのです。・・・みことば

阿南信義

ルツ記ー聖書の中の女性たち




人類の願いは神様のもとに還ることです。堕落によってサタンの血統となってしまったものを神様の血統へと転換することを意味しています。

地上にイエス様をお迎えするために貴い女性の姿がありました。リベカ、タマル、ラハブ、ルツ、バテシバ、そしてマリアと。


聖書に記録されている女性たちの信仰を知ることを通して、現在の三代王権の重要性を理解し自分の行動を意識づけることができると思いみことばをさがしました。


2月の最高の恵みにそなえるために。







マタイによる福音書第1章
:1)アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。 :2)アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、:3)ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、 :4)アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、 :5)サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、 :6)エッサイはダビデ王の父であった。



ルツ記 第1章
:1)さばきづかさが世を治めているころ、国に飢きんがあったので、ひとりの人がその妻とふたりの男の子を連れてユダのベツレヘムを去り、モアブの地へ行ってそこに滞在した。 :2)その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、ふたりの男の子の名はマロンとキリオンといい、ユダのベツレヘムのエフラタびとであった。彼らはモアブの地へ行って、そこにおったが、

:3)ナオミの夫エリメレクは死んで、ナオミとふたりの男の子が残された。 :4)ふたりの男の子はそれぞれモアブの女を妻に迎えた。そのひとりの名はオルパといい、ひとりの名はルツといった。彼らはそこに十年ほど住んでいたが、 :5)マロンとキリオンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子と夫とに先だたれた。 :6)その時、ナオミはモアブの地で、主がその民を顧みて、すでに食物をお与えになっていることを聞いたので、その嫁と共に立って、モアブの地からふるさとへ帰ろうとした。

 :16)しかしルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。 :17)あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください」。



ルツ記第2章
:1)さてナオミには、夫エリメレクの一族で、非常に裕福なひとりの親戚があって、その名をボアズといった。 :2)モアブの女ルツはナオミに言った、「どうぞ、わたしを畑に行かせてください。だれか親切な人が見当るならば、わたしはその方のあとについて落ち穂を拾います」。ナオミが彼女に「娘よ、行きなさい」と言ったので、 :3)ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。


ルツ記 第4章
:9)ボアズは長老たちとすべての民に言った、「あなたがたは、きょう、わたしがエリメレクのすべての物およびキリオンとマロンのすべての物をナオミの手から買いとった事の証人です。 :10)またわたしはマロンの妻であったモアブの女ルツをも買って、わたしの妻としました。

 :11)すると門にいたすべての民と長老たちは言った、「わたしたちは証人です。どうぞ、主があなたの家にはいる女を、イスラエルの家をたてたラケルとレアのふたりのようにされますよう。どうぞ、あなたがエフラタで富を得、ベツレヘムで名を揚げられますように。 :12)どうぞ、主がこの若い女によってあなたに賜わる子供により、あなたの家が、かのタマルがユダに産んだペレヅの家のようになりますように」。 :13)こうしてボアズはルツをめとって妻とし、彼女のところにはいった。



真のお父様のみことば 1998年5月26日
 マタイによる福音書を見れば、バテシバが現れ、ルツが現れ、タマル、そしてマリヤが現れます。すべて淫行の女性です。彼女たちは、二人の男と対しました。本妻は天の相続ができません。レアとラケルもそうです。ラケルの祝福をレアが奪い取りました。その闘いです。これを取り戻してこなければなりません。



真のお父様のみことば 1970年10月13日
ソロモンの母は誰?バテシバ。バテシバはどういう女性か?ウリヤの妻だ。ダビデ王がウリヤの妻を奪い取った。その子供がいかにしてソロモン王になるか。ウリヤは何かというと、第二の主人だよ。これが堕落もしない前のエデンの園のその位置に再び帰った立場、すなわちダビデはアダムの立場、ウリヤは天使長の立場、天使長の妻は復帰しなければならないエバの立場。天使長がアダムの相対者たるエバを、堕落して引っ張っていった。愛によって占領して、盗んでいった。それを蕩減するには、そういう三角関係に立ってもとがえししなければならない。そういう原理的基準に立った条件を成した基台の上に生まれた子供は、天の愛の子供として、栄光の子供として生まれる。



真のお父様のみことば 1971年1月10日
それで、弟が兄嫁と共に暮らしていましたが、その弟も死にました。それ故に、タマルは自分の一代に祝福を受けた血統を繋ぐことのできないことに対して、命を失うよりも、もっと苦悩するようになりました。自分は死んだとしても、どういうことがあっても祝福を受けた血族を残さなければいけないという使命感、神の祝福を残すことのできるその道を追求する心がタマルは、誰よりも強かったのです。

マリアは、タマルと同じように非法な道を行きました。タマルが非法の道において勝利したことを継承するためには、同じ道を行って、自分の夫でない他の男性を通して身ごもらなければならなかったのです。マリアは、タマルと同じように自分の命を捧げることを覚悟していたのです。体面とか威信とか、生死は問題ではありませんでした。神の祝福を受け継ぐためには、自分は石打ちにされてもいいと思ったのです。死んだとしても、子供を生んだ後に死ねばいいという確信をもって立ったマリアの立場はタマルと同じでした。



真のお父様のみことば 1998年5月26日
堕落は二人の恋人をだましたので、終末に女性たちも主を迎えるために二人の恋人をだまします。自分の本当の夫以外に、来られる主は二人の恋人を迎えて夫を立てるので、離婚というものを自由化させたのです。自分の夫以外に他の男性を好きになるのです。それゆえ、女性で男性に多く対する訓練をした人たちが妾です。




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ダビデの如くー日曜礼拝



今日(陽暦1月22日)は天暦の1月1日真の神の日が日曜日となった貴重な一日でした。

礼拝の内容をどうするかとこの一週間尋ねていましたが、真のお父様が1976年9月にワシントン大会を勝利されたときの状況とみことばをふと思い出しました。

真のお父様が、世界復帰路程を前に、ゴリアテに立ち向かうダビデのことを例にして、ご自身の深刻な心情世界を発表されておられました。

今、二代王様がまさに同じ立場と場面でゴリアテを相手にされていること痛感させられ、今の私自身も同じような環境に向かわなければならないと思わされました。








サムエル記上 16章
:11)サムエルはエッサイに言った、「あなたのむすこたちは皆ここにいますか」。彼は言った、「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。サムエルはエッサイに言った、「人をやって彼を連れてきなさい。彼がここに来るまで、われわれは食卓につきません」。
:12)そこで人をやって彼をつれてきた。彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。主は言われた、「立ってこれに油をそそげ。これがその人である」。
:13)サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。そしてサムエルは立ってラマへ行った。


サムエル記上17章
:20)ダビデは朝はやく起きて、羊を番人に託し、エッサイが命じたように食料品を携えて行った。彼が陣営に着いた時、軍勢は、ときの声をあげて戦線に出ようとしていた。
:21)そしてイスラエルとペリシテびととは戦列を敷いて、軍と軍と向き合った。
:22)ダビデは荷物をおろして、荷物を守る者にあずけ、戦列の方へ走って、兄たちの所へ行き、彼らの安否を尋ねた。
:23)兄たちと語っている時、ペリシテびとの戦列から、ガテのペリシテびとで、名をゴリアテという、あの戦いをいどむ者が上ってきて、前と同じ言葉を言ったので、ダビデはそれを聞いた。
:24)イスラエルのすべての人は、その人を見て、避けて逃げ、ひじょうに恐れた。
:25)イスラエルの人々はまた言った、「あなたがたは、あの上ってきた人を見たか。確かにイスラエルにいどむために上ってきたのだ。彼を殺す人は、王が大いなる富を与えて富ませ、その娘を与え、その父の家にはイスラエルのうちで税を免れさせるであろう」。
:26)ダビデはかたわらに立っている人々に言った、「このペリシテびとを殺し、イスラエルの恥をすすぐ人には、どうされるのですか。この割礼なきペリシテびとは何者なので、生ける神の軍をいどむのか」。


サムエル記上17章
:43)ペリシテびとはダビデに言った、「つえを持って、向かってくるが、わたしは犬なのか」。ペリシテびとは、また神々の名によってダビデをのろった。
:44)ペリシテびとはダビデに言った、「さあ、向かってこい。おまえの肉を、空の鳥、野の獣のえじきにしてくれよう」。
:45)ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。
:46)きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。 
:47)またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。
:48)そのペリシテびとが立ち上がり、近づいてきてダビデに立ち向かったので、ダビデは急ぎ戦線に走り出て、ペリシテびとに立ち向かった。
:49)ダビデは手を袋に入れて、その中から一つの石を取り、石投げで投げて、ペリシテびとの額を撃ったので、石はその額に突き入り、うつむきに地に倒れた。



お父様のみことば  1979年10月4日
誰にとっても、これは神なしには不可能な業績です。一人の男が韓国の山奥から出てきて、言葉も通じない見知らぬ文化の国にきて、三年半という短期間のうちに全世界に知られるようになったことは、ありふれたことでしょうか、それとも並はずれたことでしょうか(並はずれたことです)。さらに、先生が遂行した絶頂点の戦いは法廷闘争でなく米国議会でした。そこが戦場でした。その戦いは、現代のダビデがゴリアテにむかっていった戦いでした。先生はこの日を預言しました。私たちは栄え、勝利するだろうと。これは対決でした。



お父様のみことば  1973年7月1日
数においては小さな我々ですが、負けることはできません。共産主義との闘いはダビデとゴリアテの闘いに例えることができます。 先生は砂漠の中の羊飼いであり、アメリカを導かなければなりません。しかし、アメリカの中には、それを自分自身の責任として、共産主義から国を守ろうとする者はいないのです。どこにゴリアテに立ち向かうアメリカのダビデがいるでしょうか?ダビデは武器を持っておりませんでした。みすぼらしい格好をしていました。しかし、敢然と立ち向かったのです。アメリカのダビデは――ここにいる皆様です。アメリカの統一教会です。たとえダビデは小さくとも、神が共にいてくださることを信じていました。



ダビデの信仰

この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである




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神様を発見する農作業



今月になって氷点下の時もあって、畑は凍り付いていましたが最近、温かい日が続いています。
昨日はらっきょとスナップエンドウを植えているところの草取りをしました。

最近、農園をやっている姉妹から「わたしは草取りが趣味で大好きです。なぜかというと終わった後の達成感に感動するからです」。というのを聞いて考えるところがありました。

大変だと思うとなにかつらくなりますが、喜びがあると思って取り組むと前向きになります。


神様の創造と復帰の摂理も次元ははるかに違うけど、完成したときの喜びを待っておられるのかとそんなことを感じた時間でした。


エンドウ20230118


らっきょ20230118



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パウロと私ー日曜礼拝

昨年の2022年12月25日は日曜日でクリスマスでした。
当然のことながらキリスト教の根本を考えるときとなりました。そのキリスト教の土台は初期のクリスチャンが築かれたものです。
その中で、使徒パウロの功績は絶大な影響であると知っています。

今のこの時に、大伝道師、使徒パウロの勝利圏を知り、そしてそれを相続するためにどうすればいいのかを考え悩む者です。








使徒行伝 第9章
 :4)彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
:5)そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
:6)さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。


 :15)しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。
:16)わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。


コリント第一の手紙 第9章
 :19)わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。
:20)ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。


コリント第二の手紙 第11章
 :24)ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
:25)ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。

:26)幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
:27)労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。


テモテ第二の手紙 第4章
 :6)わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
:7)わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
:8)今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。


真のお父様のみことば 1991年11月3日
 復帰摂理はやたらにやるものではありません。既成教会では「唯信じれば救われる」と言いますが、そのようにはなっていません。パウロ信仰が霊界に行ってみると大きな問題になっています。信じることで救われるのではありません。

神様は創造当時、信仰をもって創造されたのではありません。信仰をもって人を造ったのではありません。
何をもって造ったかというと、愛をもって造ったのです。信仰という概念はそこにはありません。愛を中心とした実践概念はありましたが、信仰という概念はなかったのです。


真のお父様のみことば  
イスラエル民族が待ちわびたメシヤは来ましたが、イスラエル民族はそのメシヤが分かりませんでした。なぜ仕えることができなかったのでしょうか。
簡単なのです。メシヤのみ旨は世界を救い、人類を救うところにあります。そして、そのイスラエル民族を選んで立てたのは、イスラエル民族のゆえに選んで立てたのではありませんでした。皆さんはこのことを知らなければなりません。


それゆえ、ヨハネによる福音書第三章十六節を見れば、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とおっしゃったのです。神様がキリスト教を愛され、ひとり子を与えたのではありません。滅びるキリスト教は覚醒しなければならないのです。イエス様がキリスト教のために来たのではないのです。万民のために来たことを知らずにいるのです。イエス様がキリスト教だけのメシヤになるための方ではないのです。(八一―二三六)



霊界から来たパウロの手紙  2001年7月23日
私、使徒パウロは、地上でどこに行こうと主、イエスのために証したように、ここ主、神様の家では「原理教本」を手から放しませんでした。
とても大切で貴重なので、時が過ぎれば過ぎるほど「原理教本」は私の命のように感じられて、手から放すことができません。もしかしたら、なくしてしまうかと思って、かばんをつくり、首に掛けて歩き回りもしました。



私の生涯の目標
・パウロのように主に侍る
・伝道に命がけとなる
・聖書に通ずるものとなる
・永遠に備えて原理講義を体恤する



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エリヤと我々ー日曜礼拝

久方ぶりにブログをアップすることにしました。

基本的に毎週礼拝を行い、記録しているのでそれを紹介したいと思います。





日曜礼拝 エリヤと我々


ヤコブの氏族がエジプトへ
エジプト苦役時代400年
モーセを中心とする摂理
士師時代 400年
統一王国時代 120年
ソロモン王の堕落
南北王朝分立時代を迎えたとき
エリヤの出現



列王記上16章
 :29)ユダの王アサの第三十八年にオムリの子アハブがイスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年イスラエルを治めた。 :30)オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。 :31)彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。 :32)彼はサマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。 :33)アハブはまたアシラ像を造った。アハブは彼よりも先にいたイスラエルのすべての王にまさってイスラエルの神、主を怒らせることを行った。 


列王記上18章
 :19)それで今、人をつかわしてイスラエルのすべての人およびバアルの預言者四百五十人、ならびにアシラの預言者四百人、イゼベルの食卓で食事する者たちをカルメル山に集めて、わたしの所にこさせなさい」。 :20)そこでアハブはイスラエルのすべての人に人をつかわして、預言者たちをカルメル山に集めた。 :21)そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。 :22)エリヤは民に言った、「わたしはただひとり残った主の預言者です。しかしバアルの預言者は四百五十人あります。 :23)われわれに二頭の牛をください。そして一頭の牛を彼らに選ばせ、それを切り裂いて、たきぎの上に載せ、それに火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の牛を整え、それをたきぎの上に載せて火をつけずにおきましょう。


列王記上19章
:1)アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げたので、 :2)イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。 :3)そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、 :4)自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。

 :18)また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。


列王記下2章
:11)彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。 


マラキ書4章
:4)あなたがたは、わがしもべモーセの律法、すなわちわたしがホレブで、イスラエル全体のために、彼に命じた定めとおきてとを覚えよ。:5)見よ、大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。:6)彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。


お父様のみことば 1989年1月1日

 こうして、エリヤを中心として南朝にすべての……。聖書を見るならば、善なる預言者は全部南朝に送ったのです。それで北朝を……。北朝はカインなのです。十支派。これがヤコブ時代に十兄弟がヨセフを売り飛ばしたでしょう? それと同じことが歴史に起こるのです。そこから二支派。ベニヤミンとヨセフ。ユダヤ教の北朝十支派、南朝のユダ二支派のように分かれてくるのです。そのような闘いが始まるのです。そうなると、ヨセフの二支派は天側であり、十支派はサタン側なのですが、この天側になる二支派を通じて十支派を消化しなければなりません。その闘いが旧約の歴史なのです。旧約時代は、全部闘いなのです。


 それですべての預言者たちは、南朝ユダの国に送ったのです。そうして、北朝を救おうとしたのです。北朝は全部アシラの木像、全部、木像なのです。全部、外的神たちなのです。見える実体神。そうしてバアル神が生じ、バアル神は淫乱の神なのです。そう、昔の巫女たち、占い師や巫女たち全部、貞操を売ってそうしたではありませんか。行動がよくないでしょう? 悪魔の巣窟が皆、そのようなのです。このような神たちを見て、エリヤが出てきて慨嘆したのです。十支派の偽神を崇める祭司長たちと真の神を崇めるエリヤと、人で八百余神たち、北朝に偶像崇拝する神たちと闘って真の神が誰なのかということを見せてやるために祈祷をするのです。


 祈祷をするのに、エリヤは祭壇にひざまづいて祈祷して、天から火が下ってきて皆燃えてしまってではありませんか。そうして、八百余のバアルの神を一度にへし曲げて捨てたというのです。こうしておけば、北朝がそこから神様の前に悔い改め、立ち返らなければならないのに、怨讐となった南朝の前に屈したくないというのです。それ、誤ったのです。神様は信ずるけれども南朝を好きではないというのです。それが問題だというのです。


 そのようなとき、エリヤを全部、とらえて殺そうとするから、逃げていって神様の前に訴えるのです。「私の生命をひきとって下さい。あなたがやれという通りに全部したのに、このようにすれば願いが全部成就すると思ったのに、むしろ私をとらえて殺そうとしますから、神様が何なのか」と言いながら祈祷するとき、神様が言うには、まだバアルに屈しない七千の群れがいると語ったのです。そのような輩たちの中に、バアル神の前に屈しなかった七千余の群れが残っているゆえに、この七千の群れを中心として統一的な願いの基準を残してくると語ったのです。


 旧約時代にそうだったので、これを新約時代にメシヤが来るとき、エリヤを送ってやるというのは、そのような使命を再びするためのエリヤ的責任を中心として、洗礼ヨハネを送ったのです。洗礼ヨハネがしなければならなかったことは何があったのかと言えば、よこしまなユダヤ教とユダヤの国に外的な風習、バビロニヤから浸ってきた異邦神のすべての風習的汚いものを清算してしまわなければならなかったのです。皆、火に燃やしてしまい、エリヤが主張したように神様へたち返ろうという主張で一致しなければならなかったにもかかわらず、それを代身しなければならなかったのが洗礼ヨハネであるにもかかわらず、洗礼ヨハネがその責任を果たせなかったというのです。


 イエスが来るようになるならば、ユダヤ教とユダヤの国は必ずイエスを捕らえて殺そうとするというのです。反対するようになっているというのです。これを分けて、メシヤの道を収拾するために……。ユダヤの国においてカイン的ユダヤの国とユダヤ教の前に七千余の群れを治めていたならば、イエスは死なないというのです。洗礼ヨハネがしっかりやったならば、七千余の群れだけつくったでしょうか? イエスと合わさったならば……。三年間に七万名でなく、七十万名もつくることができたというのです。


 その中で天の国が捜し求めようと願う氏族編成、民族編成、国家代表たちを立てて祭祀を捧げなければならなかったのです。歴史に宗教を通して、このような蕩減原理によって神様とサタンの前に万国の解放のための祭祀を捧げなければならなかったのです。その祭司長をつくらなければならないのが洗礼ヨハネであり、祭物にならなければならないのがイエスだったのにもかかわらず、洗礼ヨハネがイエスと一つになれなくてイエスの十字架への道を開いてやったのです。その十字架の道を開いてやったのが洗礼ヨハネです。ところが七千余の群れどころか七百も治められず、死んだというのです。

 時になるに従って、先生の時代にこれを復帰するのです。監獄に行きながら失ってしまったので、これを蕩減復帰しなければならない。で、私がダンベリーに入っていって獄中で七千名の教役者の教育を実施したのがそれです。これを中心としてアメリカのカイン・アベル圏、教会と国家圏、内的な教会・外的な国家、このカイン・アベルが一つになることができなかったので、これを先生が中心になって教会の牧師と国会の上下院を中心として、さらに州上下院を中心として、完全に一致化される業をしたのです。


 ですから、アメリカのキリスト教会の七千名を韓国に連れてきて、韓国に接ぎ木するのです。彼らが韓国に来たので、アメリカ人ではないのです。ですから、昨年まで七千名を中心としてその業をしたのが終わって、国防省で今まで将星たち三千五百名を全部、教育して、これを一万名以上、在郷軍人会の協会責任者と教会と連結させるのです。それで教会と連結、地方組織軍事連結するのです。その次には、政治世界、七千名の州上下議員たちを……。七千名皆必要でないのです。三千五百名、半分以上、皆教育してしまったというのです。         1989年1月1日のみことば




エリヤの使命
・バアル神を滅ぼす
・分立されたイスラエルをひとつにする
・神様が約束された7000名を信じる
・旧約時代を代表してイエスを大歓迎する基台づくり


我々の使命
・サタンを分立する
・天一国創建の摂理に貢献
・神様が約束された7000名
・成約時代を代表し三大王権を大歓迎する基台の拡大



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大分聖殿日曜礼拝「お迎えする心情」

真のお父様のみことば

天聖経   天一国主人の生活 第一章創造の原動力は神様の真の愛



本来、心と体は、離そうにも離すことができず一つでした。人間の心は神様の心であり、人間の体はその心を包む器でした。ところが、人間の堕落が人間の体を悪魔に差し出したのです。それから、人間の体は悪魔の僕になりました。

 人間の良心は、神様を代表する心です。良心は、自分のために存在するのではありません。天の義のために存在します。良心は、常に善に向かって走ろうとします。ここに体は反抗します。体は、自分だけ楽をしようとし、利己的であり、本能的要求によって肉欲を表そうとします。良心は、この体を叱責して心に順応させようとします。ここに、常に血を流す葛藤と闘争が一つの体の中で起きるようになります。

 しかし、神様を自分の中に迎え入れなければ、誰も自分の体を征服することはできません。ただ、神様の真の愛と真理の力を中心として、主体である心は、対象である体を率いて神様と一体理想をなすようになっています。これが宗教のいう完成した人間です。

神様を中心として、神様はお父様であり、私たち人類の先祖は息子、娘でした。その真の愛が出てくるためには、神様と一つにならなければなりません。一つになるのが原則です。一つになるための原則とは何かといえば、従順にすることしかないという結論が出てきます。神様が人と一つになる日には、神様のものが私のものであり、神様であり私であり、私であり神様だというのです。神様と一つになり得るのは真の愛だけです。


 真の愛と和合すれば、彼は神様の体になり、細胞になります。神聖な神様の肢体になり、一体のようになって永遠に愛を呼吸し、愛を食べて生きることができるのです。そのような世界を天国といいます。真の愛を中心として一つになったことを、聖書は話さなかったのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ一四・六)、そこには愛が抜けています。

              *

 真の人とは、真の愛で暮らす人です。真の愛は、与える愛であり、永遠にセンターのために生きるという愛です。これが神様の核心です。真の愛は、神様の愛です。神様を永遠に愛そうとすれば、私は真の愛の所有者になるのです。









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大分聖殿日曜礼拝「お迎えする決意」

お迎えする決意

真のお父様のみことば


天聖経 天一国主人の生活 第三章神様と真の父母 2190頁

エデンの園で失ってしまったすべてのものをどのように復帰するのか、これが先生の還故郷という考えです。故郷へ帰らなければなりません。それで、氏族的メシヤと国家メシヤを派遣しました。神様は、イエス様という一人のメシヤしか送ることができませんでした。そのメシヤは、氏族を解放するメシヤでした。今この時に、先生は、神様の立場で百八十五カ国に国家メシヤを派遣しました。その国家メシヤは、イエス様の時の氏族的メシヤより次元が高いのです。

 そのようなコンセプトがイエス様の時にはありませんでした。十字架ですべてのものを失ってしまいました。家庭がなかったのです。それで、天国に入っていくことができず、楽園にとどまるようになったのです。本然の天国では、家庭から氏族、民族、国家へと続いていくのです。

 イエス様は、家庭を成し遂げることができませんでした。エデンの園でも、家庭が失敗したのでアダムが追い出されました。それを復帰するために真の父母が現れ、失ってしまった家庭以上のレベルである国家基盤の上でメシヤを派遣したのです。

 神様の怨恨とは何でしょうか。民族を抱えて泣かれ、地に対して泣かれましたが、神様が願われる勝利した息子を抱いて喜びの涙を流せないことが天の怨恨だというのです。すなわち、天から「あなたは勝利した息子だ」と認められる人がいないことが、天の怨恨であり悲しみです。

 それだけではなく、失った息子、娘を復帰するために、そのようにさまよわれた神様を抱いて泣いた人が一人もいなかったというのです。







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大分聖殿日曜礼拝「お迎えする準備」

2022年6月5日 日曜礼拝

天聖経 真の父母 第6章真の父母と我々 254頁

皆さんが誇るべきことは、神様の愛を誇り、真の父母の愛を誇らなければなりません。これは自分のこと、国のこと、世界の何よりも誇らなければならないという結論が出てくるのです。この愛は、神様の愛と父母の愛が一つだというのです。これは何か? 直接主管圏という愛の理念を中心として、家庭という基盤の上に一つになりうる出発を、地上に実現しているのが統一教会であり、父母様が行く足の甲の上だ、脚だ、版図だということを知るべきなのです。直接主観圏です。



天聖経 地上生活と霊界 第1章有形無形世界における人間の存在 544頁

神様には体がありません。それで、すべての万物を神様の体として、アダムを神様の顔で表したのです。それが創造理想です。
 神様は、本来の霊的な焦点であり、アダムは本来の肉的な焦点です。その二つの焦点が九〇度をつくるのです。それが神様の創造目的であり、人が願う目的です。









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メシヤ思想による救国

タンポポ


メシヤ思想による救国

真のお父様のみことば


天聖経
真の神様
5)神様を解放してさし上げよう

誰が悪霊と善霊の闘いを終わらせることができるのでしょうか。それは神様でもなく、サタンでもありません。それでは誰でしょうか。真の愛から出発して真の愛をもっていく、世界万民がついていくことのできる愛の主人公が現れなければ、神様の闘いとサタンの闘いを終わらせることはできないのです。

この闘いから解放されない限り、人間歴史世界において平和という言葉は妄想的なものです。理想という言葉は抽象的で感傷的な言葉にすぎません。それで神様はこの代表者を遣わすのですが、その主流思想をメシヤ思想というのです。救世主思想、救世主は人間だけではなく、神様までも解放する人のことを言います。悪を処断することを意味します。神様解放と悪を決算するための総責任者が救世主です。
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 救世主の使命は神様を解放することであり、サタンを処断することです。あれほど人間に食いついては讒訴した怨恨のこの元凶を誰が清算するのでしょうか。神様にはできません。唯一メシヤが、救世主だけができるのです。
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 私たちの願う統一教会とは何でしょうか。父母の宗教を求めていこうということです。甘い生活を求めるのではありません。道義的な関係ではありません。真の父母を中心として真の愛の道理の道を求めていこうというのです。そうして神様を解放しようというのです。愛の原則条件が結びついていなければ解放されないのです。







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大分聖殿2022年5月1日日曜礼拝

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共通分母は真の愛


お父様のみことば 1988年2月1日


 電気でいえば空気の中のプラス電気だけでマイナス電気が現れなければ、そのプラス電気もなくなってしまうというのです。ですから宇宙の根本は何か、神はどのような環境から出発したのか、と考えてみた時、真の愛という環境から始まって、真の愛の主体の立場に立って、真の愛の対象圏拡張のための努力をしなければならないのです。そのような立場から生まれたのが宇宙であり、その宇宙の霊長が人間なのです。







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