氏族的メシヤと10分の1条

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氏族的メシヤと10分の1条

真のお父様のみことば  1999年6月13日

残ったものは、死んだ骸骨のようなものが残ったのであり、神様の愛される人間たちは、すべて地獄にのみ込まれ、水の上に浮かんでいるのは、すべて万物であるというのです。
 それで、橋を架けるのですが、それは何でしょうか? 万物を愛することです。そうして再び神様が、万物を愛することのできる位置に来られるのです。それゆえに、「十分の一条」という言葉が出てくるのです。

 九数はサタン数です。賭博場に入れば、九数が一番良い数なのです。九数はサタンが好むようになっており、十数のうち最後に一つ残ったこの部分、万物の標題であるこの一つが、神様の愛で対されることのできる糸口として残ったというのです。

 このことから、神様が万物の創造を始められたときの、その本性的な心である愛自体についても、同じことが言えるのです。つまり神様は、万物全体に対して“わたしがつくった”という概念を持たれることができないのです。それは、どれほど悲惨でしょうか?
 天宙を創造された主人の中の主人であり、愛の王であられ、王圏を立てられようとする、そのような主人自体が、完全に逆さまに打ち込まれてしまったのです。

 そうして万物の十分の一という条件を見詰め、自分の所有の基準を中心として、血を流す役事を通して万物を犠牲にさせ、今まで血を流させてきたのです。しかし、それはそうなのです。すべての草木はもちろん、動物たち、すべてを祭物の犠牲としてささげるのです。

 それでは、神様はどのような主人となられたのでしょうか? ご自身が創造された被造世界の前に、十分の一の主人の立場に立たれたというのです。神様がそのような立場に立たれたという、無念で痛憤なる事実を、皆さん、考えてみてください。

以上。



神様の堕落人間に対する復帰摂理は10分の1条をとおして展開されてきました。成約時代になって、はじめてその内的意味を真のお父様が明らかにしてくださいました。

今までの歴史はアベルを犠牲として、カインを復帰する摂理でした。旧約のとき、新約のときと多くの万物と善なる人々がアベルとして供え物になってきた背景があります。


氏族的メシヤの立場はアベルですので、その認識を神様の心情から出発することで方向性が与えられ、そのことによって、カイン圏の様々な試練を克服して栄光の勝利の基準を立てることができる道が開かれることを感じます。






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十分の一―その無念で痛憤なる神の心情

 堕落の苦海におぼれてしまった人間を救い出すため、神は苦海(水)の上に浮かんでいる万物に目を留められ、それを愛するという「橋を架け」られた。その「(救いの)橋」に、溺れた人間がつながる道はただ一つ、象徴献祭(十分の一条)のみであった。もし、人間がこのような復帰の原則に無知で、「十分の一条」条件を疎かにするなら、実体(アベル・カイン)献祭を捧げ、メシヤを迎えるという道、救いに至る道は閉ざされてしまう。一方、神は天宙を創造された主管者であられるのに、「十分の一の主人」の立場で摂理をするしか道がない、「無念で痛憤」な立場にあられた。溺れた堕落人と神とをつなぐ万物献祭の「橋」=「十分の一条」摂理の背後にある、そのような神の心に触れることのできる解説です。感謝します。
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阿南信義

Author:阿南信義
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大分の山奥で農夫をしています

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